ロールシャッハ歴 -17ページ目

ロールシャッハ歴

でかすぎる夢だ。

偶然と必然の違いは、常々色々な話題に上る事が多い。

そもそも偶然と必然の違いは、どのような認識違いで起きるのだろう?

人との関係に於いてのみ考察するならば

やはり始まりは、全てが偶然なのだろうと思う。

例えば、あなたが一日に1000円使える人だったとしよう

その時、偶然出会い仲良くなった人が、さりげなく1000円程の昼食を御馳走してくれたとしよう。

それは、あなたに必然を予感させるに十分な出会いだと認識させる。

転じて、あなたが一日に10万円使える人だった時、同じように1000円の昼食を御馳走されても

必然を認識させるには、十分だとは言えない。

これは、お金を題材にした、貧弱な例えで有るが、読んだ貴方の想像力で自分に応じた例えで考えて欲しい。

要するに、一つの出会いに対する認識は、その人の置かれる立場(肩書き)

や、生活環境で大きく左右される物だと言える。

前例をより大きな概念で考えれば、

自分が不幸(不遇)な存在で有ると認識している時

(この場合の認識としては自分以外の誰かと比較する必要が有る)、

ささやかな幸せ(1000円)を与えてくれた人との出会いは、全て必然性が強く感じる事だろう。

そうして自分が、幸福である(この場合も自分以外の第三者と比べる)時には

ささやかな幸せは、もはや幸せでは無い。ので有るからにして

その1000円の出会いは、偶然により片付けられる事だろう。

では、ここで、常に不幸で有れば、全てが必然に繋がるものかと疑問が起こる。

所が、そうでは無い。

何故なら不幸と幸福の認識は、一つの要素で構成されないからで有る。

前期した例だけ見ても、二つの要因が繋がっている。(立場、肩書きと生活環境)

それ以外にも、年齢や友人の有無、言い出せばキリが無いので有る。

と言う事は、偶然と必然に於ける認識へ繋がる要素も、キリが無い事になる。

それは人に寄り千差万別であり、もっと言えば人それぞれに全て答えが有ると言わざるを得ず。

決して他人に理解出来る部分では無いので有ろう。

その答えを探す事も面白い事だと思われるし、答えを探す大まかな体系も作れそうな気がするが、

今回は置いといて、重要な事を最後に書いて締めようと思う。

自分に絡まった複合的な要素を一つ一つほどき、そのほどかれた一つを見て偶然や必然を認識するのではなく、

絡まった、そのままの自分を良く鑑みて。その後に他人も、またそうなのだと認識する事が大変に重要な要素だろう。

そうすれば貴方に取って、偶然は全てが必然へと昇華し得るので有る。

私の出会いに偶然等は存在せず、全てが必然で有ると言える人間。そんな生き方を送りたい物だと切に願う。


煙草を買いに歩くいつもの路地で

近所の子供達がボールを投げ合い遊んでいた。

男の子が二人、女の子が一人

ボールが私の足元に転がる

私は、おもわず拾い上げ

ボールを追い、走り来た女の子に手渡した。

ありがとう、一言残し子供達は、ボールのぶつけ合いに夢中だ。

その光景が妙に懐かしく、暫く眺めていたい衝動に駆られる

けれども、私は眺める事をしない。

それは、昨今の世情。心無い大人達が子供に浴びせる虐待や変質行為

もろもろの事情を考慮すれば、近隣での私の立場を脅かす可能性が有る。

いつからこうも窮屈に、世の中を見るようになったのだろう。

私も人間で有る以上、幼き子供達が可愛いと思う事は当然だ。

だが当然の事を当然だと理解して貰う事は難しい

もしかすれば純粋な意味での無償の愛なんて言葉は、

幼き存在にのみ適用される言葉なのでは?と感じる。

それは人間よりも遥かに原始的な犬や猫、

その他の動物を飼う事に象徴されるのかも知れない。

そう考えれば幼さとは、原始的な事を意味するのだろうか。

ゴールデンウィーク中の事を書こうと思ったのに前置きが

長くなりすぎたw

このゴールデンウィークは東北へボランティアに赴く人が多いと聞く。

素晴らしい事だ。余りにも参加者が多い事で

受け入れを一時ストップする自治体も出てるようで

これは、大人数で何かを行動するには組織立つ必要が有り

組織を形成するには、統率する人間が必要な訳だが

統率者を急に増やす事も出来ないので仕方の無い事だ。

けれども受け入れストップと言えど、嬉しい悲鳴だろう。

これで人手が足りている事では無いので、

断続的にボランティアに行く意識を持ち続けたい物です。

ああ、自分の事を書く前に、前置きがどんどん長くなる

続きは、またの機会にしようw


戦後の日本に置いて、未曾有の惨事となった

今まさしく継続中で有る此の度の震災。被災された方には

どのような慰めの言葉も思い当らない。

苦難に満ちた生活を余儀なくされ

それでも尚、他者を思いやり。

日本人が培った。一致団結の精神で、冷静な行動を取られる方々に

人としての尊敬と尊厳を感じずには居られず

敬服する次第で有ります。

同じ日本に住む日本人としては

当然の事ながら大阪に住む私も、全てに置いて自粛する。

感情としては、そのような気持ちで一杯なのです。

しかし、今回の事件で痛感せざるを得ない問題として

全ての日本人が自粛の方向に進めば

経済が立ち行かなくなる事も自明の理で有り。

経済の推進と人間の感情とは相反する矛盾を抱える物だと

一人TVのニュースを眺め、識者達の声を聞きながら

感じております。

経済は需要と供給により成り立ち

例えば遊び一つから見ても

遊びに行く場所が存在し、その場所を維持する人達が居る事に寄って

遊びに行ける人達が存在するのです。

これは、どちらが欠けても成り立ちません。

お金は、そのように流動する人間行動の中で存在し

物事を巧く進めて行く為の一つの道具で有ろうかと思います。

残念ながら道具に心を求める事は出来ませんが、

道具に命を吹き込むのは人間です。

震災以前から日本の経済は衰退の兆しを見せていました。

此の度の事件により、さらに拍車がかかる事は避けようも無いでしょう。

しかし、このような時だからこそ、日本人、一人一人が

心を持ってお金を使って行く。

そのような気持ちが大切では無いかと思います。

自分だけの為では無く、社会全体の役に立つようお金を使う。

お金が有る人も無い人も。全ての人達が、そのような気持ちで散財する事で

必ず日本は立ち直る。

そのように私は信じています。

戦後の日本は、世界が目を見張る程の奇跡的な復興を遂げ。

敗戦国の中唯一、世界に冠たる経済大国となりました。

それはアメリカと言う大きな後ろ盾が有った事も事実ですが

それだけで、ここまでの発展を遂げれたと私は思いません。

日本人は努力する本当の意味を知っている。

家族の為や、恋人の為。そして友人の為、隣近所に住んでいる人の為。

最後に自分の為。

私達には、そうして復興を遂げて来た

先代達から受け継ぐ素晴らしい感性が流れています。

本当の自粛とは、やみくもに遊ばない事や、買い物をしない事では無く。

一人一人がお金を使う事に対して

真摯に考え、そして行動する。

それが一番大事な事では無いでしょうか?