abogadoboyのブログ

abogadoboyのブログ

ブログの説明を入力します。

Amebaでブログを始めよう!

6月27日思考と考察

おもいやりとは、やさしいエゴイズムであると思う。

独りよがりなものだから、時にむなしく時に乱暴に見えたりもする。

それでも、思いやりのない言葉や行動はどこか味気なく、中身がないように見える。

自分の中にあるものを、人に渡す時に発生する、いわば副産物のことだと思う。

おもいやりとは、どこかにあるのではなく、何かと何かの間のことと思う。

おもいやりとは、自分の根本にあるものの具現化だと思う。

形を成さない形のことだと思う。

人間は、考える葦である。

僕は葦でありたいと思う。

しかし僕は、人間以外の何者でもないから、葛藤する。

考える葦は、結局のところ葦ではないから。

おもいやりが、エゴイズムである理由。

赤いリンゴさえ食べなければ、不幸も幸福も知らずに済んだのだ。

エゴイズムであることにすら、気づかずに済んだ。

思いやりを思いやりと思うことができた。

そういうことの繰り返し。

できれば忘れていたい。



6月22日の思考と考察

面白くなってきてしまった思考を止められそうになく、書き綴ってみるとどうやらそれはもう先ほどまでの思考ではないらしい。

残念。

あのままをどうすれば残せるのだろうか。

いつ考えても答えが出せそうにない。

だって出した時に答えは間違いを含んでいるから。

さや侍とは最近見た映画ですが、映画はあまり普段見ない。

なぜ。

あらためて考えて出た結論は、情報量が多すぎるから。

凝縮された情報ほど私を混乱させるものはない。乱雑にまんべんなく存在する日常から情報を得る作業をそのまま作品にすり替えるから混乱が起こる。

目の細かい網で空を仰ぐのと水を通すぐらいの違い。

体力を消耗する。

だからあまり見ないんだね、本も映画も。

厳密にいうと音楽も絵も何もかもに共通するかもしれない。

とりわけ、言葉を使うものは私にとってとても難しい。

言葉は共通する認識とされているから厄介。

一方では情報が多すぎて、一方では情報が少なすぎるから。

作品というのはすべてにおいてそういうものかもしれない。

それはすべて、人を、表すもの。

人が、表すものなのか、どちらが先かは不明。そんなところで、人が人といる以上いつでもどこでもどんな時でも僕らは作品の中にいるのにと、そう思う。現実という芸術はとてもわかりやすくてミステリアス。

だから、だれかがまとめたものは理解するまでにとても体力を使う。

自分というフィルターを通すから、どこに本物があるのか、一度別の方程式で砕いてからでないと理解に及ばない。

自然と不自然という表現を使うなら、不自然な形にまとめられたそれを一度崩して自然に戻し、自分の形にまとめなおす作業。自然なうちは、崩す必要がないから、その分の体力を作品と出会うと削られるのだと思う。


ということでさや侍。結論は特にない。

今思っていることがすべてで、今から思うことがすべての結論。要は、材料の一部。こんなことを思いました。


作品を見ている時ではなくて、それを今ゆっくりと噛み砕いて理解していて、やっと深く入り込んできて、最後まで理解するにはもしかしたら一生かかるのです。いつも、そうしているのだと思う。

だからあまり多くの作品を見ることは私には意味がなく、ふとした出会いがとても大事なのだと思います。

口コミでいろんな人の作品に対する意見を見ていたら、珍しく物申したくなってしまったそれが今日の感情のきっかけ。

そんなことの繰り返しだから、退屈で暇な日々が忙しく、何もしていないと疲れてしまう。

そういうことの理由をまた一つ見つけたような気がします。

私という人間についての本日の考察は、まだまだ続きます。



くだらないことのように感じていたことが、やっぱりくだらなく見えた瞬間なのだと思う。

さや侍とはなんたるか。

それを語らせたい作品のように見えて、そんな作品が私は普段から好きで、そんな作品は一般的に賛否両論と言われる質のもので、それは私からみたらとても自然に近くて、なんだか安心するもの。

誰かに勧めようとは思わないが、見てよかったと思うもので、きっとこれからこの先もこの作品について私はことあるごとに話題に出すことになると思うし、他と比べることに意味なんてないのがやっぱり今日一番感じたこと。

だってきっと、この作品は私にとってyoutubeで見るラーメンズだったり、夏フェス会場横の小さな簡易舞台の上でプレーしていたアーティストだったり、あるときふと手に取ったインディアンの思想に基づいた本だったり、そんなようなものと同じだから、やっぱり誰かとあの作品を見たとして、評論を繰り広げる気にはならないのだ。


だから、くだらないというのは私自身の行為に対してなのであって、だれかについてとやかく言うつもりはなく、おそらく、ここで立った感情の波は、とても純粋に感じる違和感についてどう処理をしたらいいかわからないという質のもの。

いつも抱えているジレンマ。

やはり、私は私だと確信する瞬間。

もちろん、特別な、ということではない。

存在であるという自覚。その作業の繰り返しの中の一部分。


人生とは、幸せを探す不幸の旅。不幸を探す幸せの旅。どちらでもお好きなほうをどうぞ。