「耳が聞こえなくても」学びたい、知りたい。 | 和気あいあい。

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中途失聴でも楽しく、いろんな事に出会いたい!今日も元気で1日ぼちぼちやってます!宝塚が大好きです。

以前ブログにコメントを頂いたきせきさんのブログを転載させて頂きます。素敵なお話だと感じました。

 

ろう者のお友達が大学時代にいらっしゃったそうです。

ろう者であっても高等な専門教育を学びたいという気持ちに

なんの違いがあるのでしょうか。

ろう者が学ぶ事が大変だという事に気づかれ

努力は相当なものだっただろうとその背景まで察して下さっていました。私は聴力が落ち込んだのはこの数年の間なので学生時代は健聴だった為、問題を感じた事が無かった。

 

でもこの今感じる難聴の世界では

新しい事を学ぶには壁を感じます。

例えばコロナ禍ではWEBが発達しましたが字幕がないなら

WEBの授業というのは困難です。

内容をしっかり知りたいはずの学びの場で「知る」事が

なんて難しいのでしょうか。

 

 

お友達は大変な努力家だったようです。

私が知ってるろう者も、お家に伺った時に驚いたのは家庭教師が居て勉強しているという事でした。その辺の女子高校で学力が高いとは言い難いのに家庭教師を付けて予習・復習をかかしてないんだというのを知りました。

時間を無駄にしない、ダラダラ過ごして漫画ばっかり読んでた私とどんなに違う放課後を過ごしているのかと思わされました。

 

②では講義を受けていた時に手話通訳者やノートテイクを受けていた様子を書いて下さっています。

 

 

授業は本気で学びたいから、学びたいという要望が強かっただろうと思います。

その気持ちを満たすため、アルバイトで雇ってでも自分の要望を満たしてくれる通訳者が必要だったろうと思います。

(ボランティアの通訳もあるというのを知ってる上で雇っていたそうなので、余程の勉強への熱意だったのではないかと…)

 

自分の学びたい気持ちに寄り添って必要な情報というのをきちんとした判断の元で通訳して頂くには、ボランティアに甘えてしまってはという遠慮のような気持ちが伺えます。

 

 

私もこのブログのきせきさんと同じ40代なので、

時代としては同じころを知ってると思います。

確かにボランティアの通訳者を見る事は珍しい時代です。

しかも、マイクもスピーカーも今のような高性能な物が安価で

準備できる環境だったとは思えません。

補聴器は聞こえを助けてくれる物であっても

普通に聞き取れるようにしてくれるものではない。

補聴器をしていたら大丈夫、サポートは必要ないと

思われ勝ちですが、眼鏡のように簡単な機器ではないので

思った程の力はありません。

その事も書いて下さっています。

 

 

横で歩いている状態で話しかけると声が伝わりにくい。

『正面を向いて話してくれるとわかりやすい。』

お友達がそう言われた事まで丁寧に書いて下さっています。

このような小さな事、ささやかなお願いを心にとめて下さってる

それがなんて温かく感じるのでしょうか。

うっかり忘れてあっちの方向を見ながら話してしまう、ほとんどの人がそうだと思います。

「音の指向性」を意識して下さっていて、嬉しいです。

 

 

講堂という場は難聴者は苦手とする場所です。

マイクを通した声というのも苦手だと思います。

声が拡散されてしまい方向性が無いからです。

通訳を頼まなくてはならない気持ちよくわかります。

ボランティアは無料で来て頂く事に対して「遠慮」してしまう。

自分のあれも知りたいこれも知りたいという熱い気持ちに沿ってもらえるのだろうか、だとしたら我儘や行き過ぎはないだろうか…。

無理を言って困らせてはいないだろうかと考えると「遠慮」の気持ちが出てしまいます。

 

大学では、マイノリティの為に整備するという意識は

近年になって起こってきてるのではないでしょうか。

それでも福祉科などの学科がある大学から進むでしょうし

どの大学でも同じように整備してくれるには

まだまだ長い道のりだと思います。

入学前に調べてからでないと入試も受けられません。

 

当時では自分で通訳者をたのんでフラットな状況に持ち込む

そうするしかなかっただろうと思います。

 

 

 

私が言いたいのは大変な思いをしながら

大学に通学してきたんだろうというのがこのブログから読めたのです。

教育を受けたい、学びたいのを続けるのに

難聴の人、聞こえの悪い人にとって

コミュニケーションが難しいだけじゃなく「知る」難しさもある

というのを言いたいのです。

公平な教育を受けたいと思う事が叶う世の中になって欲しいと思っています。

 

教育を受けなくては「かわいそう」と言われる世界から

抜け出すチャンスはあるのでしょうか。

物事を理解し、考える能力を磨くには義務教育だけでは

育たないだろうし、高等な教育によって豊かに感じる感性や

人間形成が望めるのではないでしょうか。

難聴であることはそんなに物凄いハードルでしょうか。

情報を「見える形」に進めて行けたら

ハードルは下がるのではないでしょうか。

 

 

世の中で難聴という存在が、「かわいそう」位置のままで

ずっとそのままでいいのでしょうか。

 

 

ナイーブな問題でもあり、周囲は踏み込めないだろうというのも

あって、質問してくれたり、関心を寄せてくれる人だけが

知る事になる世界です。

 

周囲から好意的に受け入れようという姿勢は感じますが

実際とのギャップの溝を埋める作業は時間がとても必要です。

どうか向き合う時間を与えて下さい。

 

「かわいそう」ではない、私達も同じ人間で同じように感じる心が

あるのだと知って下さいと思います。

 

 

 

筆記による通訳だったり、意思疎通のカタチは

『見える形の情報』なのでとても大切です。

伝えようという気持ちは尊いです。

プロの筆記通訳者のように、完璧な通訳ができなかったとしても

「責任」を追及する事はありません。

支えあって生きて行く中で、その場で出来る限りの事をして

関わって下さった事を感謝するだけです。