悪なのか善なのか


「今まさに井戸に落ちようとしている赤ん坊


あなたはそれを助けるだろう


その赤ん坊の両親に好かれたいからでもなく


そのことで誰かにほめられたいわけでもなく


見殺しにしたことを他者に噂されるのが怖いわけでもなく


あなたはその赤ん坊を助けるだろう


その意志が働かないものは人間ではない」


孔子はそう言った


それを人間が生まれながらにして善であるという明確な理由のとしてだ。


「もし、あなたが絶対に欲しいと思っているものを他人が持っていれば


あなたはそれを羨ましいと思いますよね?


それは誰もが持つ欲という悪い心です。」

これが荀子がとなえた性悪説のあらまし


さて。


彼らは一面的な方向から人間というものを捕らえました


だからこそこのような理論が展開されるわけです。


書物には矛盾点に言及するものがいないわけですから。



だから僕なりに人間というものを解釈させてもらおうと思います。


そうですね。


だれもが違った顔を持つように


誰もが違った思想をもっています。


そして誰もが自分の思考の下に動いているわけです。


だからこそ人間に共通の絶対的な一辺倒の思考を当てはめること


それ自体が無謀なんではないかと思うのです


裁判のようにある事例を悪か否か判断する機能が存在しているわけですけど


何ヶ月もかかってやっと判決がでますよね。


たくさんの人が集まって話し合っても善悪の判別というのは難しいのです。


なぜなら


そこに明確で絶対的な悪がないから


純粋な善もないから


人間はどちらか一方に純粋に偏ることができないからです。


様々な要因が重なり


単純でない心情が重なり


その結果ある事例が生み出されるから


単純な尺度では人間が測れないから


だからむずかしい


正義って何でしょう


悪を淘汰するものが正義ですか?


じゃあ世の中の大多数が悪だったとしたら


数少ない正義はどうなるんでしょうか


そこではおそらく立場の逆転が起こるのではないでしょうか


悪は正義に


正義は悪に


大多数の一般論が正義を支えてるんですよ


それって怖くないですか


僕は怖いです。


何が真実で何が不実なのか


今ここで生きている僕たちに明確な答えを出す術はないんですから。



明確な絶望を与えよう


希望が付け入る隙などない


絶対的な絶望を


そのためには自分などいくらでも犠牲にしよう


一切の欲望を切り捨てよう


善意も悪意もない純粋な絶望





オレはそうありたい





そんなものは存在しません


だから僕はこの言葉を安易に使う人間が嫌いです。


恋人と


「永遠に一緒にいようね。」


とか


「ずっと好きだよ。」


とか


そんな言葉を投げかけることに疑問を感じてしまうのです。



今まで人類は『永遠』というものを手に入れるため


数多の努力をしてきました


永遠の命を夢見て


不老不死の薬をつくってみたり


永遠のエネルギーを夢見て


永久機関の開発にいそしむ



そして誰もが挫折の海でおぼれて逝ったわけです。



僕はこう思うのです。


実は人は心の奥底で永遠がないことをしってるのではないでしょうか。


だからこそ永遠を誰かと語り合うことで


そこに『永遠』があるかもしれないという『幻想』に浸るのです。


そうしないと不安だから・・・。


怖いから・・・。


この今が儚く散っていくことが・・・。



ちなみに


僕はやわらかいCカップの女性が好きです


朝4時ごろ裸で歩いていたらすれ違った女の子に奇異なものを見るかのような目でみられた。


興奮した。


どうも

ブログはじめました。

変態紳士です。


なに書こうか。。。


・・・。


しょっぱななんでサクッといきます。


人は時に

「自分の生きている意味ってなんだろう」

そんなことを考えます。


僕にいわせれば

意味なんてありません。


今自分が生きるこの瞬間に

なんらかの意味を問うことで

人は自分の存在意義なるものを創造し

安心しようと思うのではないでしょうか。


全ての人間はもろく儚いものです。


みんないつかは消えていきますから。


だけどその儚い中で


家族

友達

恋人


そんな様々なつながりに身をよせます。


彼らに自分を認識してもらうことで自分という不確かで

希薄な存在が初めて意味をもつのです。


自分の存在がやっと確かなものへと昇華するんですね。



「認識論」


そんな方向に話をつなげたいところですが・・・


それはまたの機会にってコトで笑



おやすみなさい