千代田区の二七通りから帯坂に入ると、「会館」と名乗る建物が続く。右手に水道会館、自動車会館、ゼンセン会館。左手には、日本棋院会館が今もある。

ここを訪れるのは、三十八年ぶりだった。

とはいえ、当時の私は囲碁に用があったわけではない。日本棋院会館に入居していた日本ペンクラブを、遠藤文学研究者の友人の案内で訪ね、当時会長だった遠藤周作先生を表敬訪問したのが目的だった。建物の中を見る余裕などなく、日本棋院がどのような場所なのかも知らないまま、遠藤先生としばらく大連の話をし、記念写真を撮り、サイン入りの『海と毒薬』を頂いた──その記憶だけが残っている。

今回、初めて「囲碁の場としての日本棋院会館」を訪ねることになった。

地下にある囲碁殿堂資料館は2004年に創設され、「偉大な先人たちや囲碁文化を咲かせた歴史を振り返り、未来へ導く」ことを目的としているという。これまでに三十三名が殿堂入りを果たしている。

顕彰レリーフを眺めていると、「囲碁の歴史がそのまま浮き彫りになってくる。歴代本因坊の名が並び、呉清源、林海峰といった近代囲碁の巨人が続く。その一方で、棋士以外として、徳川家康、正岡子規、川端康成、陳毅の顕彰レリーフも含まれている。囲碁が単なるゲームではなく、文化や政治、文学と深く絡み合ってきたことを端的に示す顔ぶれだ。

さて、囲碁と酒の関係も、同じ文脈で語れるだろう。囲碁は「大人の遊び」と言われるが、実際、プロ棋士の中には酒豪として知られる人も少なくない。盤上では一手に何分も沈黙する人が、杯を前にすると急に饒舌になる。囲碁と酒は、対局後の時間において自然に結びついてきた。

そして、宝酒造杯。

参加資格は、法的に酒を飲むことが許されている年齢であること──それだけだ。いまやアマチュア囲碁大会の中でも屈指の人気を集めている。会場には主催社の酒を味わえる一角が設けられ、対局の合間や終局後、自然と人が集まる。勝敗を離れ、杯を傾けながら碁の話に花が咲く。

帰りに、二階の売店で張栩九段が考案した四路盤パズルゲーム「よんろの碁」をあしらった手拭いを一枚求めた。張栩九段は煙草が大の苦手で、対局相手に吸われると戦意が削がれてしまうというが、酒は嫌いではないようだ。

【中文】
從千代田區的二七路走進帶坂,掛著「會館」之名的建築一棟接一棟。右側是水道會館、汽車會館、全繊會館,左側則是日本棋院會館。

上一次來這裡,已是三十八年前的事了。

不過,當時的我並不是為了圍棋而來,是在一位研究遠藤文學的朋友帶領下,造訪當時寄居在日本棋院會館內的日本筆會,並拜訪擔任會長的遠藤周作先生。那時根本無暇細看建築內部,也不清楚日本棋院究竟是怎樣的地方,只記得和遠藤先生聊了一會兒大連的話題,合影留念,並獲贈一本簽名的《海與毒藥》──至今留下的,只有這些片段的記憶。

這一次,目的就是日本棋院。

位於地下的圍棋殿堂資料館創設於2004年,其宗旨在於回顧孕育圍棋文化的歷史,引領圍棋邁向未來。至今,已有三十三人步入殿堂。

凝視著一面面顯彰浮雕,圍棋的歷史彷彿浮現眼前。歷代本因坊的名字一字排開,接著是吳清源、林海峰等近代圍棋巨擘。另一方面,非棋士身分的德川家康、正岡子規、川端康成、陳毅,也同樣名列其中。這樣的陣容,清楚地顯示出圍棋並非單純的勝負游戲,而是與文化、政治、文學緊密交織的存在。

說到這裡,圍棋與酒的關係,也可以放在同一條脈絡中來看。圍棋常被稱為「大人的遊戲」,實際上,職業棋士之中,也不乏以酒量聞名的人物。在棋盤前,一手棋往往沉默良久;但一旦酒杯在手,話匣子就會忽然打開。圍棋與酒,向來是在對局結束之後,自然而然地結合在一起。

接著,自然會想到「寶酒造杯」。

參賽資格只有一項──參加者必須達到法定飲酒年齡,僅此而已。如今,它已成為業餘圍棋大賽中屈指可數的人氣賽事。場內可以品嚐日本酒,無論是對局間隙,還是終局之後,人們總會不自覺地聚集過來。暫時放下勝負之争,舉杯笑談棋局。

離開日本棋院時,我在二樓賣店買了一條拭手巾,上面印著張栩九段構思的四路棋盤益智遊戲「四路之碁」。據說,張栩九段極為懼怕香菸,若對手在對局時吸菸,就會削弱他的鬥志;不過,對於酒,他似乎並不排斥。































再会の 窓に師走の 駅舎かな

今日、丸ビルの居酒屋で、友人夫婦と数年ぶりに会った。
夕刻になり、窓には点灯した東京駅が、かすかに映っていた。




ずいぶん久しぶりにどぶろくを飲んでみた。

中埜酒造の、愛知県産契約栽培米を100%使用した純米どぶろく。派手な宣伝はないが、知る人ぞ知る隠れた人気商品だ。

最初の一口は、甘酒を思わせるやさしい甘み。しかしすぐに、醪(もろみ)が舌に触れ、とろりとした質感が広がる。わずかな発泡感もあり、炭酸のような刺激が後を引く。久しぶりに口にしてみて、これは「酒を飲む」というより、「米の発酵そのものを味わう飲み物だ」と思った(笑)。

日本酒、すなわち清酒は、「米・米こうじ・水などを主原料として発酵させ、濾過工程を経て造られた、アルコール度数22度未満の酒」と定義されている。どぶろくは濾さない。だから日本酒ではない。

一方、見た目がよく似た濁り酒は、濾過しているため、日本酒に分類される。

「酒を濾す」という言葉から、ふと『水滸伝』が頭に浮かんだ。中国古典では、「濾す」は「籭」あるいは「篩」という字で表される。

景陽岡で虎退治を前にした武松が酒を飲む名場面において、酒を注ぐこと、酒を酌むことは「酒を篩う」と書かれている。

・・・店家便取個大碗,篩過三碗酒,遞與武松。武松看時,那酒又濃又辣,略略地帶些渣滓。武松道:「休要欺負人,我且吃得你這三碗酒!」一口氣都吃了。

(……そこで店の者は大きな椀を取り、酒を三杯こし入れて武松に差し出した。武松が見ると、その酒はひどく濃く、舌を刺すほど辛く、わずかに滓(おり)も混じっている。武松は言った。「人を侮るな。よし、その三杯、まとめて飲んでやろう。」そう言うと、一息にすべて飲み干してしまった。)

ここで描かれているのは、単なる「酒を注ぐ」動作ではない。篩(ふる)う、という字が使われている以上、本来は酒を濾し、澄ませる行為を指している。宋代の村酒は、酒糟や雑質を含む濁酒が一般的で、飲む前に篩や布で濾す必要があった。いわば、店主は武松のために、その場で一碗ずつ酒を「仕上げて」いたのである。

そう考えると、あの酒が「又濃又辣」で、「略略地帶些渣滓」と描写されていることにも合点がいく。完全に澄み切った酒ではないが、飲める状態にまで整えられた酒。その三杯を、武松は息もつかずに飲み干す。

ちょうど今、吉川英治の『新・水滸伝』(講談社)を読み返している。

吉川版は、中国古典小説『水滸伝』を底本としながら、日本の読者に向けて大胆に再構成された意訳作品である。中国古典の精神を保ちつつ、日本語としての読みやすさが優先され、難解な原文は平明な表現に置き換えられている。

ただし、意訳であるがゆえに、原文にある「篩酒」という言葉のイメージは伝わってこない。原文を読み返していると、武松が飲んでいた酒は、清酒のように洗練されたものではなく、もっと生々しい、米の息遣いが残る酒だったのではないか、そんな想像が自然に湧いてくる。

【中文】
好幾年没有喝濁酒(Doburoku)了。

這是中埜酒造的、百分之百使用愛知縣契約栽培米釀造的純米濁酒。沒有什麼張揚的宣傳,卻是一款只在行家之間口耳相傳的人氣商品。

剛剛入口時,讓人聯想到甘酒(Amazake)的柔和甜美。但隨即,酒醪在舌頭上顯露出存在感,濃稠的口感隨之擴散開來;還帶著一點微弱的氣泡感,像碳酸般的刺激在口中留下餘韻。忽然覺得這與其說是在「喝酒」,不如說是在「品嘗米的發酵本身」(笑)。

所謂日本酒,即清酒,在法律上的定義是:「以米、米麴、水等為主要原料發酵,經過濾工序製成,酒精度未滿22度的酒」。濁酒並不經過過濾,因此不屬於日本酒。而外觀相似的濁り酒(Nigorizake),因為經過了過濾,所以被歸類為日本酒。

提到「把酒過濾」這件事,腦中忽然浮現了《水滸傳》。

在中國古典文獻中,「濾」常用「籭」或「篩」這個字來表示。在景陽岡、武松打虎之前那段著名的飲酒場面中,倒酒、斟酒的動作,便寫作「篩酒」。
……店家便取個大碗,篩過三碗酒,遞與武松。武松看時,那酒又濃又辣,略略地帶些渣滓。武松道:「休要欺負人,我且吃得你這三碗酒!」一口氣都吃了。

這裡描寫的,並不只是單純的「倒酒」動作。「篩」本來就指的是將酒過濾、使之澄清。宋代的村酒,多半是含有酒糟與雜質的濁酒,飲用前需要用篩子或布重新過濾。也就是說,店家是當場一碗一碗地把酒「處理到可以飲用的狀態」。

如此一來,那酒被描寫為「又濃又辣」,「略略地帶些渣滓」,也就完全說得通了。它並非澄澈透明的酒,而是被處理到「能喝」的程度。而武松便將那三碗酒一飲而盡。

正好這段時間,我正在重讀吉川英治的《新・水滸傳》(講談社)。

《新・水滸傳》是在中國古典小說《水滸傳》的基礎上,為日本讀者大膽重構而成的意譯作品。在保留中國古典精神的同時,優先考慮日語的可讀性,將原文中艱澀的表達,改寫為平易的語言。

但也正因為這様,原文中「篩酒」這個詞所帶來的具體意象,便不再清晰。重新對照原文閱讀時,不禁浮現這樣的想像:武松所喝的酒,並不是如清酒般精緻洗練,而是更為粗獷、生動,仍然殘留著米香。























蓼科高原1泊(11/7) ―――気づけばひと月も過ぎていた晩秋の旅、最終泊の記録

長野県の観光パンフレットをめくると、蓼科は軽井沢、上高地、白馬と並んで常に上位に名が挙がる。白樺、高原リゾート、湖、温泉──信州を象徴する要素が過不足なく揃うからだろう。地図を見るだけで旅のおおよその行程が浮かんでくる、そんな土地柄である。

本来なら、霧ヶ峰から白樺湖、そして蓼科湖へとビーナスラインを走り抜ける爽快なドライブルートがある。さらに時間があれば、奥蓼科の御射鹿池まで車を進めるのもよいのだが、今回はあらたに訪ねる場所があり、時間に余裕がなかったため、いずれも見送った。

それでも蓼科に来ると、真っ先に思い浮かぶのは奥蓼科の御射鹿池である。標高1,500メートルの山あいに、ひっそりと鏡を置いたように静まる人工湖である。

東山魁夷の《緑響く》や《白馬の森》のモチーフとして知られ、透明感のある緑と青(いわゆる「魁夷ブルー」)が基調だが、季節によって装いを変えるカラマツ林が水面へと吸い込まれるように映り込み、しばし立ち止まったこちらの呼吸まで静かに整えてくれる。

海抜の高い蓼科高原そのものに酒蔵はないものの、麓へ下れば諏訪湖を取り囲むように五つの蔵が肩を寄せている。「舞姫」「麗人」「本金」「横笛」「真澄」──いわゆる「諏訪五蔵」である。それぞれに造り手の顔つきがあり、その個性がそのまま酒の味の違いとして現れるのだから面白い。

長野県全体で見ると酒蔵は80前後と、新潟に次いで全国二位の多さを誇る。信州特有の冷涼な気候、山から流れ落ちる清冽な水、そして長く続く稲作と酒造りの歴史──そうした自然と人の営みが、そのまま地酒の「テロワール」を形づくっている。

旅の帰り道には、千年を超える歴史をもつ善光寺へも立ち寄った。山門の奥には天台宗の本坊・大勧進が静かに構え、脇には奉納樽が端然と積まれている。ちょうど七五三の時期とあって、境内には小さな晴れ着姿が行き交い、晩秋の陽ざしの中にやわらかな賑わいが漂っていた。

【中文】
蓼科高原一宿(11/7)————時光真快,晩秋的自駕旅行已經過了整整一個月。

翻開長野縣的觀光手冊,蓼科與輕井澤、上高地、白馬並列,總是名列前茅。白樺、山中度假地、湖泊、溫泉──這些象徵信州的要素在此一應俱全。僅憑地圖,旅途的大致行程便自然而然浮現在眼前。

原本可以沿著從霧峰、白樺湖一路延伸至蓼科湖的「維納斯公路」馳騁而下,享受暢快的高原駕車;若時間允許,再把車子開得更遠一些,前往奧蓼科的御射鹿池看看也是一大樂事。然而這回另有要去的地方,時間有些緊張,只得一一作罷。

儘管如此,每到蓼科,腦海中最先浮現的,仍然是奧蓼科的御射鹿池。海拔1,500公尺的山谷間,有一座當地農民修建的人工湖, 湖面安靜的宛如放置了一面鏡子。

東山魁夷的《綠響》與《白馬之森》皆以此為靈感,其畫面以透明而深邃的綠與藍(所謂「魁夷藍」)為基調。落葉松林四季變換倒映於水面,並似乎被深深吸入湖底般的景象,使人不禁停下腳步,連呼吸也一併悄悄安穩下來。

蓼科高原本地並無酒藏;然而下山來到諏訪湖畔,五家酒藏散落其間,這便是人們称道的「諏訪五藏」:「舞姬」、「麗人」、「本金」、「橫笛」、「真澄」。每家釀酒人的個性都清楚表現在酒香之中,耐人尋味。

放眼整個長野縣,酒藏約有八十家之多,僅次於新潟,為全國第二。信州特有的冷涼氣候、奔流的清冽山水,以及長久延續的稻作與釀酒歴史──這些自然環境與人文積累交織而成的風土,正是構成地酒「terroir」的根基。

返程途中,我亦順道造訪了歷史超過千年的善光寺。山門深處,天台宗本坊「大勸進」一旁整齊堆放著奉納酒樽。正值七五三時節,境內穿著盛裝的小小身影來回穿梭,晩秋的陽光傾瀉其間,瀰漫著一派柔和而溫暖的熱鬧氣息。































甲州街道(国道20号)を都心から西へ車を走らせると、武蔵野台地に広がる世田谷区、調布市、三鷹市などに行き当たる。ここは、まるで「武蔵野・文人回廊」とでも呼びたくなる一帯だ。徳富蘆花、武者小路実篤、山本有三、太宰治、そして井伏鱒二など──近代文学史に名を刻む文人たちの足跡が、そこかしこに残されている。

かつて私は、山本有三と太宰治ゆかりの場所を巡ったことがある。深大寺から車で十分ほどのところに、代表作『路傍の石』に登場する「あの石」が実際に置かれている山本有三の洋館があり、さらにそこから少し離れた禅林寺には、森鷗外と太宰治の墓がある。鷗外の墓の斜め前に太宰の墓が置かれているのは、「鷗外の近くに眠りたい」という太宰の生前の思いを、美知子夫人が汲んだからだという。

こうして歩くたびに、文人の気配の濃い土地であることが実感される。

今回は、蘆花公園と実篤公園を訪ねるため、再びこの「文人回廊」へ足を踏み入れた。晴耕雨読の日々を送った晩年の蘆花の簡素な住まいと、「新しき村」の精神を掲げて実践しつつ、晩年には当時最新式の台所やサンルームまで備えた、なかなか贅沢な邸宅を構えた実篤の旧居──この対照もじつに興味深い。

そしてここで、私が思わず身を乗り出したのは、やはり蘆花と実篤、それぞれの日本酒との関わりである(笑)。

蘆花は酒好きとしての記録がほとんど見当たらない。ただ、蘆花の随筆『自然と人生』の一編「雨後の月」にちなみ、広島・相原酒造が「雨後の月」と命名した銘酒がある。「雨上がりの空に冴え冴えと輝く月のように、澄み切った美しい酒を造りたい」という願いを託したものだという。

一方、実篤公園でボランティア案内人に「実篤はどんな酒を好んだのか」と尋ねてみたところ、「それは初めての質問です。今後調べてみます」との答えが返ってきた。

気になって帰宅後すぐに調べてみると、小山本家酒造(神戸・魚崎郷)のホームページに興味深い記述があった。実篤は「七ツ梅」を好み、蔵には実篤直筆の

花もよし
味酒(うまざけ)もよし
七ツ梅

という俳句と梅の絵が残されている。

さらに、令和七年には、今も「新しき村」が存続する二つの自治体──宮崎県木城町と埼玉県毛呂山町──の友情コラボによるスパークリング日本酒「Alabanza」が発売された。木城町の農家が丹精した酒米「ちほのまい」だけを使い、毛呂山町の麻原酒造が醸したものだ。

文人たちの足跡を訪ねて歩く道が、結局のところ日本酒の物語にたどり着く。日本酒好きの性分が、そうさせてしまったのだろう。

【閑話】
実篤の「新しき村」は、日本を越えて当時の中国でも思わぬ反響を呼んだ。周作人(魯迅の実弟)が『新青年』に紹介し、胡適は空想理想主義だと批判したが、毛沢東はむしろ強い関心を示したという。





















斑尾高原1泊(11/6)

朝、勝山を出発し、金沢では兼六園と金沢城を巡り、ついでに「再訪の印に」とばかり富山城にも立ち寄って一枚撮った(笑)。斑尾のホテルに着いたのは、すでに夜。寝酒の習慣はないが、福井から持参してきた梵をやはり開けたくなる。純米55、磨き五割五分(300ml)。透明感と軽やかな旨みがすっと広がり、きれいに切れていく一本だった。

翌朝はまず野尻湖へ。「山の軽井沢、湖の野尻湖、海の高山」。かつて「日本三大外国人避暑地」の一つとされたこの湖は、ちょうど紅葉の見頃だった。

本来なら朝食前に周辺を散策したかったのだが、霧が立ちこめて周囲がぼんやりし、さらにフロントに掲げられた「熊出没注意」の看板と貸し出し用の熊除け鈴を見て中止した(笑)。

本日の目的地である高橋助作酒造へ向かう途中、同じ信濃町の小林一茶旧宅記念館にも立ち寄った。白壁に大書された「痩蛙 まけるな一茶 是に有」が、秋空にくっきり映えていた。

高橋助作酒造では、五代目蔵元にお会いした。長野の静かな環境で、酒神「松尾さま」(松尾大社)への祈りを込めて醸す「松尾(MATSUWO)」。酵素剤を使わず、長期育成の酒母や木製の暖気樽を守り続ける手造りの姿勢を、静かな調子で丁寧に語ってくださった。

その夜、次の宿である蓼科高原のホテルの読書コーナーで《酒蔵で訪ねる信州》という本と出合った。ページをめくると、高橋さんの酒造りへのこだわりと情熱が、先ほどの言葉と響き合うように深く記されていた。静かな山里にひっそりと息づく、将来が楽しみな実力蔵に違いない。

【中文】
斑尾高原一泊(11/6)

清晨從勝山出發,在金澤先後走訪兼六園與金澤城,還特地到富山城拍了一張「又到此一遊」的照片(笑)。抵達斑尾的飯店時已是夜晚。雖然平時沒有睡前喝酒的習慣,但從福井帶來的「梵」仍讓人忍不住想開瓶。純米酒精米步合55%(300ml),透明而輕盈的旨味在口中輕輕鋪開,乾淨俐落地收尾,是十分爽快的一杯。

翌日清晨先去野尻湖。「山之輕井澤、湖之野尻湖、海之高山」。這座曾被列為「日本三大外國人避暑地」之一的湖泊,正逢紅葉盛時。

原想在早餐前於周邊散步,但湖面霧氣瀰漫,四周一片朦朧,再加上飯店前台掛著「注意有熊出沒」的告示牌,甚至還備有防熊鈴,只好作罷(笑)。(今年日本各地熊災頻發。)

在前往今日目的地——高橋助作酒造的途中,也順道拜訪了同在信濃町的小林一茶舊宅紀念館。白牆上的「瘦蛙莫輸 一茶在此!」一句,在秋日的天空下格外醒目。

在高橋助作酒造見到了第五代藏元(酒莊主人)。在長野這片靜謐的環境中,他們懷著對酒神「松尾大人」(京都松尾大社)敬意釀造出日本酒「松尾(MATSUWO)」。不使用酵素劑,堅持使用長期育成的酒母,並沿用木製的暖氣樽進行溫度管理——這些自明治時期延續而來的手工精神。藏元以沉穩而細緻的語氣娓娓道來。

當晚抵達下一個住宿地蓼科高原,在飯店的閱讀角偶然看到《拜訪信州酒藏》一書。書中所寫的高橋先生對釀酒的堅持與熱情,與稍早聽到的話語相互呼應,更見深意。這座靜靜佇立於山中的小酒藏,無疑擁有讓人期待的深厚實力。



















勝山高原3泊(11/3–11/5)。

日本語の「高原」という言葉は、意外なほど新しい。文献に初めて現れるのは、1911年に発表された島崎藤村『千曲川のスケッチ』で、原文をあらためて見ると、「軽井沢の方角から雪の高原を越して———」など、実に十数回も用いられている。

固有名として「高原」が最初に冠されたのは軽井沢で、明治40年代の絵葉書にはすでに「Karuizawa Plateau(軽井沢高原)」の洒落た英文が刷り込まれているという。

今日、観光やリゾートの現場では、この語の使われ方はじつに大らかだ。標高が数百メートルあれば「高原」、眺めが開けていれば「高原リゾート」、風が涼しければ「高原の風」。勝山高原という呼び名も、そうした流れのなかで生まれた、まだ新しい名称のように思われる。

周辺には見どころが多い。西日本最大級のスキー場スキージャム勝山、世界三大恐竜基地の一つとされる福井県立恐竜博物館、白山信仰の拠点として1300年を超える歴史を刻む平泉寺白山神社、日本一の高さを誇る天守風建築の勝山城博物館など。ちなみに勝山市は、2007年の Forbes 誌の「世界で最もきれいな都市」(The World’s Cleanest Cities)ランキングで世界第九位(国内一位)に選ばれている。

さて、勝山高原のある福井県は、白山の雪解けを集めた九頭竜川を筆頭に、日野川、耳川などの清流が日本海へ流れ下る地である。水の質に恵まれ、酒米「五百万石」の産地としても全国二位を誇る。

県内には37の酒蔵が点在し、すっきりとした淡麗から、米の旨味をたっぷり引き出した濃醇まで、味わいの幅が広い。その両端を自在に往来するところに、福井の酒の面白さがある。

なかでも、特徴ある蔵を二つ挙げておきたい。

・加藤吉平商店(代表銘柄:梵 BORN)
万延元年(1860年)創業、現在は十一代目。完全無添加の純米酒のみを造り、世界118カ国へ輸出。商標も100以上の国・地域で登録されている。
URL:https://www.born.co.jp/

・吉田酒造(代表銘柄:白龍)
文化三年(1806年)創業。亡き夫を継いだ七代目蔵元・吉田由香里さんと、その次女・真子さんが今の蔵を支えている。真子さんは「母の背中を見て育ち、自分も日本酒で勝負したい」と大学卒業後に帰郷し、2017年、24歳で杜氏となった。
URL:https://yoshida-brewery.jp/

15年振りの福井だった。今回は、永平寺や恐竜博物館、丸岡城、東尋坊といった名所に加え、越前和紙の石甚や胡麻豆腐の團助など老舗を訪ねているうちに、時間があっという間に過ぎていった。次の機会には、越前の酒蔵をさらにゆっくり巡ってみたいと思う。