今日は予告より1日遅れで、「特別号外」を出します。
こってりいろいろな方面に電話をかけるなど、再取材をし、ここでしか読めない
記事を〝てんこ盛り〟でお届けします。
11月28日、俳優の菅原文太さん(81歳)が転移性肝不全のため、死去しました。高倉健さんの後を追うように・・・。
まずは、私が新聞記者時代に最初に文太さんに取材・インタビューをした際に記事にしたものをご紹介いたします。1994年7月3日、毎日新聞朝刊です。
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よく笑う。照れ笑いを浮かべたかと思うと、顔をくしゃくしゃにして大笑いする。
かつて銀幕で見せた阿修羅らのような形相が別人のよう。
「昔はむすっとしたしているのが多かった。でも生きる上で、でも生きる上で、ニコニコしなくてはならないこともあるって最近、つとに思う。年の功かねえ」。また笑う。
仙台市生まれ。地元紙記者をしていた父が画家に転進したことから、4歳で東京に移った。「まるでヒヨコみたいに弱よわしく泣き虫だった。学校でも無口で目立たない子供だったなあ」
小学4年の時、宮城県旧一迫町の祖母の自宅に疎開し、そこで育った。地主だった祖母宅では、午前5時に起床。雨戸を開け、馬や鶏、豚の世話をするのが日課だった。
田植えから稲刈りまでを手伝い、ジャガ芋畑でくわを振るった。「遊びと言えば、がけ登りや川での潜水、ウナギ獲り・・・。間違いなく私のエネルギーとなっている」。古里はヒヨコをたくましい若鶏に育て上げた。
終戦後、父母が仙台に戻ったのを機に、旧制築館中から名門仙台一高に転向した。「どうして転入できたのかがいまだに分からない。たぶん試験が〇×式だったからだろうねえ」。またまた破顔一笑。
同高では新聞部に所属し、全国コンクールで最優秀賞を受賞したりもした。学校新聞で学校側を批判し、記事の差し止め騒ぎにあって騒動にもなったりしたのだが、この時、堂々と教師と渡り合ったのは、今でも同高でも有名なエピソードとして語り草になっている。
上京して早稲田大学に進んだが、通学したのはほんの数日。当時、母親が経営するスタンドバーが一家の収入源、ゆとりがなく生活費は自分が稼いだ。「あまり人に言えないような仕事まで、食うために必死でやった。一方で、額に汗して働くことなく、ふんぞり返っている金持ち連中の事実を知った。さまざまな社会へのへの憤りはこの時、芽生えたんだ」。この時ばかりはすごみのきいた低い声がうなった。
ファッションモデルとして活躍し、スカウトされて映画界に入った。が、地味なわき役ばかり。下積み生活を余儀なくされ、新東宝、松竹、東映と渡り歩いた。転機は深作欣二監督との出会い。
それまで、鶴田浩二、高倉健といったストイックな任侠路線を破り、凶暴でがむしゃらな現代的ヒーロー像を築いた。その頂点が大ヒットシリーズ「仁義なき戦い」。デビューから10年目にしてやっと栄光をつかんだ。
「役者稼業は中身のない虚像の世界」といい続けてきた。だから、東欧難民の子供を救う救援演奏会や、身寄りのない在日韓国人の施設のづくりの募金活動、難病と闘う子供たちの詩文集発行などに携わってきた(※私の独自取材により明らかに)。
「昔抱いた社会に対する憤りが任侠映画で燃焼した。社会活動にかかわっているのは、まだそれがくすぶっているのでしょう」と優しげなまなざしで語る。
古里には一定の距離を置く。「地縁や血縁などのしがらみから自由でいたいと思う反面、古里は自分の下地を作った懐かしい場所との思いもある。くすぐったいような妙な存在です。
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この取材時、文太さんは、原則として、インタビューうけつけていなかった。奇遇なのだが、文太さんの疎開先の文太さんのいとこは、私の実父の親友。文太さんとはよく遊んだという。
その模様を書いて手紙を文太さんの事務所に送ったところ、文太さんの奥様から直接、私に電話があり、「熱海さんのお父さまには大変お世話になったそうです。だから、今回、特別にインタビューのお話を受けさせていただきます」
文太さんとの出会いはよく覚えている。初夏だったから、暑かった。文太さんの自宅兼オフィスの応接室に文太さんは現れた。開口一番。「よっ、熱海さん。お父さんにはよくしてもらった。相撲でいつも負けていたよ」と大笑いした。
だが、文太さんは厳しい性格でもある。話が仕事のうつると、「ところでこのインタビューの企画の趣旨を説明してもらおうかなあ」。つまり私の記者としての力量を試したのであろう。「えーと、各界の著名人が集う東北人スピリットです」。どうしてそう言ったのか、分からないが、それが気にいられたらしい。
インタビューは40分の決め事だったが、90分にも及んだ。父のおかげである。
最後に文太さんは言った。「おい、ひとつな、おもしろい記事に仕上げてくれよ。頼む」。笑った。
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掲載紙と礼状を送ったところ、文太さんから電話があった。
「おお、熱海さんかい。いやあ、これでは俺はお笑い芸人ではないか。気に入った。来週いっぱいやろう」
文太さんの自宅は、六本木まで徒歩10分のところにあり、六本木のバーで飲んだ。私は持病のため断酒しているが、その当時は、「ザル」と呼ばれるほどの大酒飲み。ピッチが極めて早いのだ。
すると、文太さんは言った。「こんなに酒が強いやつは始めてだ。飲みっぷりがいい。ちょくちょくやろう」。だが、休みもろくにとれなれない本社勤務。何とかスケジュールを開け、飲んだ。
文太さんは、新聞と本をものすごい時間読む。これはあまり知られていない。だから飲酒する時は時事問題、特に政治の話題が多かった。文太さんの政治に対するテーマは二つあった。一つは「国民の飢えを防ぐこと」。もう一つが「戦争を絶対しないこと」だった。その後、講演でもそう主張したという。
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文太さんのプロフィール。
1933年8月16日生まれ。早稲田大学第二法学部中退。「仁義な戦い」でキネマ旬報賞主演男優賞受賞(73年度)。「県警対組織暴力」「トラック野郎」でブルーリボン賞主演男優賞(75年度)。「太陽を盗んだ男」で、日本アカデミー賞助演男優賞(79年度)をそれぞれ受賞。
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私生活では、98年に岐阜県高山市に移住。2001年に長男で俳優の加織さんを踏み切り事故で亡くす。07年には膀胱ガン発症で一時帰京したが、09年に山梨県北杜市で農業生産法人を設立、耕作放棄地でライ麦などの有機農業に取り組んだ。
11年の東日本大震災の福島原発事故を受けて「命よりカネ優先だ」と憤って脱原発を表明。12年には消費社会を見つめ直す「いのちの党」の発起人となった。
同年末の安倍政権の特定秘密保護法や集団的自衛権行使容認について「先の戦争の片鱗が影絵のように透けて見える」と反対。11月には沖縄知事選で応援演説に立つなど、最近まで精力的に活動していた。
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人間菅原文太さんを語る時、それは、アウトロー(反骨精神)にあると言えよう。こういう人こそ、国政に欲しい人材なのではと思うが、それは本人が「一番嫌いな職業は政治家」と常々言っていたので、これはNGとなるのだろう。
文太さんのエネルギーは怒りであったと思う。戦時下、終戦直後に生まれ育ち、日本が貧しい国であったころを知っているからこそ、透徹した頭脳で、精神文化の衰退をいつも嘆いていた。
高倉健さんが明治大学卒、文太さんが早稲田中退というのも、何となくしっくりいく気がする。両人とも任侠映画の看板スターであったという共通項がありながら、演じる側のポテンシャルがかなり違っていた。
つまり、健さんは文化勲章という日本政府からの最高の章を受けた反面、文太さんは一貫して「在野」。しかし、昭和の大スターが時ほぼ同じくして、亡くなったというのは、何かのめぐりあわせではないか。
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文太さんを悼む声は次の通り。
※諏訪中央病院鎌田實名誉院長
「07年の膀胱ガン発症時に相談を受けた。文太さんはたとえ命が短くなっても菅原文太は菅原文太じゃないといけない、言っていた。文太さんは男の中の男です」
※ジ女優の吉永小百合さん
「(映画女優)で共演させていただきました。市川昆監督の下、溝口健二監督と田中絹代さんに扮しての芝居でしたが、緊張感のなかで胸が踊りました。近年の社会的なご発言も、私の心に強く響いております」
文太さん、いつも叱られてばかりでしたが、世の中の不条理をいつもえぐるよな視点にはジャーナリスト以上の鬼気迫るものがありました。
文太さん。生まれ変わったら、また酒を飲みましょう。
数々のお心遣い、本当に感謝しています。
文太さん、走り続けた81年間、お疲れ様でした。
やすらかにお休みください。
合掌。
熱海芳弘。