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それで、その二カ月後、同教の教祖である麻原彰晃が、山梨県旧上九一色村にあった同教本部で逮捕されました。この本部は、当時、第5サティアンと呼ばれていました。ちなみに猛毒のサリンを製造していたのは、第7サティアンです。
容疑者が続々と逮捕されるなか、メディア各社は長期戦かつ総力戦となり、その年の7月に私は、現地の取材キャップとなり、6人の後輩記者を束ねました。
そこは、携帯電話の通じない、人より乳牛の数が多いへき地。
携帯電話がつながらないと、頼るのは無線だけです。私は効率を重視して、後輩に指示を出しました。キャップの仕事はもろもろで、他社の動向をさぐることも仕事の一つでした。
他社は重要なことはあまり、無線交信せず、唯一、オープンに近かったのは、共同通信のみでした。ですから、私は共同通信を軸に無線傍受しました。しかし、その共同通信といえども、核心を突く無線交信は、当たり前ですが、ありませんでした。
ラッキーなことに、この村の元オウム真理教対策委員会委員長の自宅の離れを借り切ることになり、固定電話も引くことができました。ほぼ30分置きに、警視庁キャップや社会部の取材班から電話があり、目の回る忙しさでした。
一人四役ぐらいをこなしていました。手を抜くと、そのまますぐ、自分に火の粉が降りかかってくるので、緊張感をキープするのが大変でした。なにせ、数百万人の読者が注目して読んでいるので、命運をかけた取材でした。