今日はどの新聞を読んでも、また、ネットで新聞各紙を見ても、


残念ながら、プロとしての書き手から読者のみなさんに提供するニュースがない!


私は100人近く、財界、スポーツ選手、芸能人、学者、作家らへ


インタビューを重ねてきた。


ニュースバリュー的にはどうかと思うが、


私がお伝えすることがないと判断した以上、知られざる一面も以下の記事内容があるので、


あえて紹介したい。アクセスなどが極端に少ない場合は少し考える。



以下、私の書いた記事を抜粋。(俳優・菅原文太さん)


よく笑う。照れ笑いをしたかと思うと、またくしゃくしゃにして笑みを浮かべる。


かつて銀幕で見せた阿修羅のような表情は想像もつかないほどだ。


仙台市生まれ。地元紙記者をしていた父親が画家に転進し、4歳の時に東京に移り住んだ。


小学4年生の時に疎開のため宮城県一迫町(現栗原市)に移った。


地主の祖母宅では、朝5時に起きて、ニワトリや馬の世話をした。


田植えから稲刈りまで手伝った。


「遊びといえば、川泳ぎやがけのぼり、ウナギ取り・・・。


ひよっこだった私がたくましくなった原動力がそこにあります」


(実は私の父親は菅原さんと同じく旧一迫町出身で、仙台の実家に遊びに行った


経緯があり、当時、多忙を極めていて、原則取材を受け付けていなかったため、父親ルート


でインタビューが実現)


終戦後、菅原さんの両親が仙台市に戻ったので同市へ移った。


築館高校から名門・仙台一高へ転校。


そこでは数知れぬ伝説を作った。


その一つが学校新聞。全国コンクールで最優秀賞をとったばかりか、


その新聞でどうでも良いような校則を撤廃しようと書いて、


記事の差し止めを食らった。


だが、菅原さんはがんとして聞かず、堂々と先生たちとわたりあったのは、


今だにこの学校では語り草になっている。


上京し早稲田大に進むも数日で中退。「食えなくてバイトばかりの生活でした。


でもね、そこでふんぞり返っている連中がいる一方で、


ひたいに汗をかきながら、一生懸命、働いている人たちなど、いろいろな人と会いました。


私の社会への批判はこの時、生まれたのです」


スカウトされて映画の世界に入った。が地味なわき役ばかり。


食うに食えず、映画会社を渡り歩いた。


転機は深作欣二監督との出会い。


そこで、高倉健、鶴田浩二らといったストイックな任侠路線を破り、


がむしゃらな現代的存在をアピールした。それが受けた。


出世作となった「仁義なき戦い」で、一気にスターダムを駆け上がった。


しかし、この方を調べれば調べるほど、うなってしまう。


東欧難民の子どもを救う活動、身寄りのない在日韓国老人の施設作り、


難病と闘う子どもたちの詩文集の世話役になるなど、あげればきりがない。


インタビューの最後にこう言った。


「古里は地縁、血縁などなにかとしばりがあり、遠慮したくなる反面、


懐かしくくすぐったいような妙な存在なのですよ」



この連載は1994年4月から96年3月にかけ、毎日新聞東京本社東北ブロック面に


掲載された。「超東北人グラフティー」とのタイトル。


後に「東北の100人」ということで、無明舎出版から本になった。


私がまとめ役となり100人の中の約70人を取材、執筆した。





昨日は、石原新党の話題を書くのではないのですか?


とのコメントを読者の方から受けた。


でも、この動きを表面上、追いかけても新聞記者さえ、どう転んでいくのか分からないわけで、


私としては、これを書くのは時期尚早だと思った。


別にこのブログを書くことで収入を得るような立場であるなら、


それは書くべきであろうが、これは私の趣味の延長線上、


さらには生き甲斐として書いているわけで、その点はご理解いただきたい。