それで、二つ目だが、山崎作品とこれまで定説とされていたセックススキャンダルとは、

180度異なる。

こうした紛争には、おうおうにして、真実は当事者同士でなければならないことがよくある。

しかしである。山崎さんが、どのくらい、取材したのか知るよしもないが、

作家として、ジャーナリズムに身を置いてきた方として、

まるででたらめを書いていないことを信じたい。


この事件は、三流マスコミの格好の餌食となった。本来の趣旨の密約はあったのかなかったのか、

それが本筋で、スキャンダルとは一線を画している。ある種、異常だ。


西山氏が初公判の際、「裁かれるべきは佐藤政権」と言った。

私は、この事件に関していろいろ調べさせてもらった。

これは、日本という国家権力が、その権力を養護するために犯した判事である。

西山氏に全く落ち度がなかったとは言わないが、

どこに、情を通じた取材行為としての証拠があるのだろう。

それは、元事務官のみの証言だ。

最高裁の判決要旨を読んでみたが、検察ばかりか、裁判所も、

事実認定が甘く、取材の域を超えているとしている。その事実認定はあいまいな印象を受けた。

裁判官も結局のところ、その程度もものだと、失望した。


米国公文書館で密約文書が発見されたにもかかわらず、

政府はそれと認めていない。

昨年だったと記憶しているが、この発見に基づき、西山氏側は、国家賠償請求訴訟を起こし、

控訴審で却下された。


この事件以降、国家レベルでの外交問題をスクープするということがなくなったらしい。

今の私には、経済的、時間的な制限が多々あり、この問題で公に、西山氏を養護することはできないが、これが民主国家でなされるべきものではないと激しく訴えたい!!


知る権利を代行する報道の自由なくして、民主主義国家とは言えない、と私は思う。