運命、精神
二十歳の時に郵便配達のアルバイトをした際のことです。私は郵便物がいっぱい詰まった配達カバンを、郵便局の赤い自転車ごと川に落としてしまうと言う大失態を演じてしまいます。その時、それまでにも薄々感じていた自分自身の度し難い不器用さ、要領の悪さ、生きることへの不適応、それらを目の当たりにした気がし、又、この度し難い傾向がこれからの人生で現実化して行く予感もして、酷く辛かったのを覚えています。そして予感の如くに、私のこの度し難い傾向は確かに私の人生に影響してきました。だから、私は人生の来し方を振り返った時、あたかもナメクジが通った跡のような、一本の筋を見る気がする時が有ります。これは運命なのか?私がこれを「ナメクジが通った跡のような」と例えるのは、そこに何やら汚さを感じるからと思われます。私のこの不器用さ、要領の悪さ、生きることへの不適応、そのかなりの部分は不仲であった両親の私への過剰な甘やかしの下で育くまれた性癖であり、私自身の「甘えていても生きていける」と言う甘えの意識から出る、これが大方の実体であろうかと思われます。私の意識の底に在るこの意識は、今まで生きてこれたと言う検証も経て、私の意識の底に更に牢固として根付きます。維摩会で教えていただいた多少の仏教用語を使えば、度し難い不器用さ、要領の悪さ、生きることへの不適応は私の“習気”で、甘えていても生きていけると言う甘えの意識の更に奥に在る“楽を求める心”は執着と言うことになります。仏教ではこの執着を取り除けと言います。成る程、その意味は解ります、その対象も解ります。それが大変な苦労を伴うけれど、取り除くのが可能なのも解ります。ただ、この人生でとなると、???なのですが。