《十六夜 午の刻・洋子宅》
家に帰ると、幸代の部屋には行かず直接二階の自室に上がった。すぐに出ていけるように荷物をまとめるつもりだった。武史とは一度話し合わねばならないとは思ったが、どのみち今電話をかけても出てはくれないだろう。その新しい女と再婚するつもりなら離婚できなければ困るのは武史のほうだ。しばらくして居場所が落ち着いたらまた改めて連絡すればいい。とにかく一刻も早くこの家から出たかった。お義母さんの世話はヘルパーさんか誰かに来てもらえればいい。お金はあるのだ。雇う気になれば今日にでも来てくれるだろう。他人を入れるのが嫌ならば、その新しいお嫁さんがすればいいことだ。
荷造りをし終わると、トランクを玄関に置き、幸代に最後の別れを言いにいった。
「お義母さん、色々考えましたがお義母さんのおっしゃる通り、わたしはこの家を出て行くことにしました。今までお世話になりましてありがとうございました」
「なんですって。このままわたしを一人にして出て行くつもりなの。それは許さないわよ。恩知らずな。あなたの借金を返してあげたのは誰だと思うの。武史が返したと思っているんでしょうけど、お金の出所はわたしなのよ。武史にねだられるまま何に使うかも聞かずに出した私が愚かだったわ。まさかあなたの借金を返すためだったなんてね。後から聞いて失敗したと思ったわよ。出て行くんなら、そのお金を返してからにしてちょうだい。払えないなら、せいぜい労働奉仕をすることね」
「でも今朝はお義母さんが出ていけとおっしゃられて」
「口答えはよしてちょうだい。武史が新しい嫁を連れてきたら、出て行ってもいいわ。でもまあ、あなた行く所もないんでしょ。だったら籍さえ抜けば使用人として居させてあげてもいいわよ」
毒のある言葉に洋子の身体がわなわなと震えだした。
「さあ、わかったらお茶を入れてきてちょうだい。のどが渇いたわ」
(わたしを一生、奴隷にするつもりなんだ)
洋子は覚悟を決めた。
(もう、やるしかない)
《十六夜 宵の口 ・洋子宅》
「お義母さん、今夜もろうそくを立てましょうか。夕べはよくお休みになれたのでしょう」
洋子はさも改心したかのように優しく声をかけた。外面如菩薩内面如夜叉とはこのことかと自分で思った。
「そうねえ。でも」
洋子はみなまで言わさずろうそくに火を付けた。
「お義母さんが寝付かれるまで、おそばにいますから安心してください。あ、そうだ、よく眠れるようにマッサージでもして差し上げましょうか」
そういうなり、有無を言わさず洋子は布団の中に手を入れ、幸代の全身をマッサージし始めた。何日も風呂に入らない幸代の身体からは異臭がはなち、ぬるりと粘つく肌の感触に、思わず洋子の全身が総毛立ち手を引っ込めたくなった。
しかし、ここは我慢のしどころと何とか自分を励ましマッサージを続けた。最初は触られることに少し抵抗を示していた幸代だったが、やはり気持ちがよいのだろう。十分もするとろうそくの効果もあってか、軽いいびきを立て始めた。洋子はろうそくの火を消し、起こさないように静かに部屋を出ると、着ていたものを全部洗濯機に放り込み風呂場に駆け込んだ。熱いシャワーを頭からざあざあとかけ、うがいを何度もし、全身をゴシゴシ洗った。いつまでも体にまとわりつくようなろうそくの毒と幸代の異臭をこそげ落としたかった。
(これを毎日やるんだわ)
洋子ののどに何か苦いものがこみあげてきた。
つづく