「文(ぶん)化(か)が変(か)われば全(まった)く意(い)味(み)が変(か)わる。」それを痛(つう)感(かん)したのは大(おお)阪(さか)生(う)まれの伴(はん)侶(りょ)と結(けっ)婚(こん)してからだった。

 

彼(かの)女(じょ)が福(ふく)島(しま)県(けん)のコンビニでアルバイトをしていた頃(ころ)、同(おな)じアルバイトをしていた同(どう)僚(りょう)に、

「このゴミほっといて」

と言(い)ったのに無(む)視(し)されたと怒(おこ)って帰(かえ)ってきた事(こと)があった。関(かん)東(とう)に住(す)んでいる人(ひと)には全(まった)く意(い)味(み)が分(わ)からないことかと思(おも)うが、関(かん)西(さい)弁(べん)で「ほっといて」は「捨(す)てておいて」と言(い)う意(い)味(み)になる。元(もと)々(もと)日(に)本(ほん)人(じん)には食(た)べる習(しゅう)慣(かん)がなく捨(す)てられていた動(どう)物(ぶつ)の内(ない)臓(ぞう)が「放(ほう)るもん」から転じて「ホルモン」になったのと同(おな)じだ。この頃(ごろ)の彼(かの)女(じょ)はまだ関(かん)西(さい)訛(なま)りが多(おお)く残(のこ)っていた上(うえ)に関(かん)西(さい)圏(けん)のことしか知(し)らない人(ひと)だったので、こちらで「ほっといて」というのが、「そのままにしておいて」の意(い)味(み)になることが全(まった)く分(わ)かっていなかった。

 その後(ご)も色(いろ)々(いろ)なハプニングがあったのだがそれを話(はな)すのはまたの機(き)会(かい)にして、ここから僕(ぼく)が言(い)いたいのが冒頭(ぼうとう)の「文(ぶん)化(か)が変(か)われば全(まった)く意(い)味(み)が変(か)わる。」ということなのだ。この場(ば)合(あい)の文(ぶん)化(か)と言(い)うのは産(う)まれた地(ち)方(ほう)と言(い)う意(い)味(み)だけではない。育(そだ)ってきた、学(まな)んできた人(じん)生(せい)全(すべ)てと言(い)って良(よ)い。個(こ)人(じん)個(こ)人(じん)の違(ちが)い=文(ぶん)化(か)の違(ちが)いだと思(おも)っている。だから、誰(だれ)一(ひと)人(り)として全(まった)く同(おな)じ文(ぶん)化(か)の人(ひと)はいないのだ。

 生(せい)徒(と)達(たち)を見(み)ているとこの違(ちが)いに気(き)付(づ)けず、お互(たが)いに勘(かん)違(ちが)いしている場(ば)面(めん)を見(み)かけることがよくある。例(たと)えば、同(おな)じ群(ぐん)馬(ま)県(けん)出(しゅっ)身(しん)であれば「好(す)き」という言(こと)葉(ば)が別(べつ)の言(こと)葉(ば)になってしまうことはないだろうが、好(す)きという言(こと)葉(ば)の度(ど)合(あ)いや意(い)味(み)合(あ)いは大(おお)きく違(ちが)ってしまうことがある。

 一つの事例を挙げよう。近(きん)年(ねん)、若(わか)者(もの)を中(ちゅう)心(しん)に「死(し)ね」という言(こと)葉(ば)が軽(かる)く使(つか)われる風(ふう)潮(ちょう)がある。僕(ぼく)からすれば軽(かる)々(がる)しく使(つか)うべきではないとても重(おも)い言(こと)葉(ば)だと思うが、友(ゆう)人(じん)同(どう)士(し)のつっこみの言(こと)葉(ば)として使(つか)われているのをよく耳(みみ)にする。お互(たが)いにこの言(こと)葉(ば)の意(い)味(み)合(あ)いが軽(かる)いつっこみだと認(にん)識(しき)しあえていれば大(だい)丈(じょう)夫(ぶ)かもしれないが、普(ふ)段(だん)から当(あ)たり前(まえ)のように使(つか)っていると、誰(だれ)にでも自(じ)分(ぶん)が思(おも)っているように捉(とら)えてもらえると勘(かん)違(ちが)いする。自(じ)分(ぶん)では親(しん)密(みつ)だと思(おも)っていた友(とも)達(だち)は自(じ)分(ぶん)が思(おも)っていたより親(しん)密(みつ)だとは思(おも)ってくれていなくて、「死(し)ね」とつっこんだことで深(ふか)く傷(きず)つくかもしれないのだ。

このような失(しっ)敗(ぱい)をしないためにはどうしたらよいだろうか?僕(ぼく)は妻(つま)と生(せい)活(かつ)してきた10年(ねん)余(あま)りで一つの結(けつ)論(ろん)を得(え)た。ポイントは

「きちんと丁(てい)寧(ねい)に説(せつ)明(めい)して、話(はな)し合(あ)うこと」だ。

ある時(とき)、妻(つま)の発(はつ)言(げん)に対(たい)して、「バカじゃないの!」と軽(かる)くつっこんだところ、ひどく傷(きず)つかれたことがあった。よくよく話(はなし)を聞(き)いてみると、関(かん)西(さい)圏(けん)ではバカというのは非(ひ)常(じょう)に強(つよ)い言(こと)葉(ば)で、軽(かる)いつっこみの時(とき)にはアホと言(い)うことを知(し)った。きちんと話(はな)し合(あ)ってその意(い)味(み)合(あ)いがお互(たが)いに理(り)解(かい)できれば、失(しっ)敗(ぱい)に対(たい)してすぐに謝(あやま)ることができるし、言(い)われた側(がわ)もそういう意(い)図(と)はなかったんだとちゃんと納(なっ)得(とく)が出(で)来(き)る。傷(きず)ついた側(がわ)も傷(きず)ついたことを伝(つた)えなければいけない。何となくではなく、きちんと言(こと)葉(ば)で説(せつ)明(めい)しなければいけない。ニュアンスでは伝(つた)わらないことが普(ふ)通(つう)なのだ。

人(ひと)には表(ひょう)情(じょう)がある。表(ひょう)情(じょう)には言(こと)葉(ば)だけでは表(あらわ)せない感(かん)情(じょう)の部(ぶ)分(ぶん)を上(う)手(ま)く伝(つた)える力(ちから)がある。とは言(い)え、その表(ひょう)情(じょう)を読(よ)み間(ま)違(ちが)えることだってあるだろうし、電(でん)話(わ)口(ぐち)や送(おく)った文(も)字(じ)では表(ひょう)情(じょう)を伝(つた)えることは難(むずか)しい。他(た)人(にん)とのコミュニケーションで重(じゅう)要(よう)なのは、丁(てい)寧(ねい)な言(こと)葉(ば)の選(えら)び方(かた)だ。しかも、自(じ)分(ぶん)の意(い)図(と)していない意(い)味(み)で伝(つた)わっている可(か)能(のう)性(せい)も考(かんが)えておかなければならない。こういった配(はい)慮(りょ)は面(めん)倒(どう)だからと放(ほう)ってしまってはいけないし、出(で)来(き)ないままにほっといてしまってもいけないのだ。