男の甘い言葉を用心深い祖母のキクは無視の姿勢だった。

 

「ほんな、口車には、乗らんわいだ」

「ほな、家族の名前とか、あの生年月日を言うけん」

 

(…この男、中々口が巧いが、騙されんわだ…)

 

 祖母キクは年末に夢見た龍夫の脱走劇が思い浮かんだ。

 

 微かな望みをキクは抱き話しを聞こうとした。

 

 男は祖母キクを筆頭に母和代の名前と、子ども2人の名前

も列挙し、各々の生年月日も間違いなかった。

 

「ほな、あんたが生まれたん、どこか言えるかいな」

 

「ほれは、大阪じゃわだ、バアやんに聞いたけん」

 

(…ううん、あの大阪生まれ、知っとったか…)

 

 大阪と聞いた途端に男に対し不信感が薄れるキクだった。

 

 キクが不信感を薄れさせた理由は、キクが父の家業を手伝

い始めた16歳の頃に、大阪に奉公に出たのだった。

 

 大黒柱の父が結核に冒され、仕立屋の家業は母の細腕に伸

し掛り、母は父の看病とも重なり夜寝る暇さえなかった。

 

 口減らしのために、キクが奉公に出されたのが大阪の呉服

問屋だったのだ、しかし呉服問屋の若旦那と青春を焦がした

禁断の恋に落ち息子の龍夫を妊ったのだ。

 

 大阪と言う言葉の響きにナヨナヨとキクの心が揺らいだ。

 

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