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「芸能プロほど素敵な商売はない」②    用談中にも新曲ヤーイ

 歌手の個性が、いくら正確に分析できても、それを実際に生かす新曲がなければ、スター作りは、なかなか軌道に乗るものではない。藤木孝の場合も、その例外ではなかった。

 

「24000のキス」という曲を得るまで、彼の存在が地味だったのは、ごく当たり前のこと。日劇ショー「モダン・アンド・ファンキー」でデビュー後、労音のコンサートやジャズ喫茶で、おとなしくスタンダード・ジャズを歌っていた時期が、かなり長く続くのである。

 

 渡辺晋氏が「24000のキス」を初めて聞いた時、とっさにこれこそ藤木におあつらえの曲だと思ったという。藤木独特のパンチのきいたリズム感を生かす新曲さえさがしあてれば、藤木売り出しはなかば成功したと見てまちがいない。あとは一気に押しまくるだけである。

 

 渡辺プロダクションの事務所へ行くと、社長のデスクの横で、レコード・プレーヤーがアメリカやヨーロッパのヒット曲を鳴らしずめだが、持ちゴマを生かすも殺すも曲一つとあれば、これもうなずけよう。渡辺社長は、来客と用談中でも、片方の耳で新曲さがしに浮き身をやつしているのである。

 

 ものごとは、なんでもダメ押しが必要といわれる。予想の通り、「24000のキス」で一躍脚光を浴び、〝セックスを歌う歌手〟というありがたいような、ありがたくないようなタイトルまでちょうだいした藤木だが、プロダクション側は、それで満足してしまうどころか、第二次、第三次の作戦を練らなくてはならない。だから〝素敵な〟どころか、ショー・ビジネスとは、ずいぶん因果な商売といわねばなるまい。

 

 去年の暮れ、渡辺晋夫人で、同プロの副社長でもある美佐さんがアメリカへ視察旅行に出掛けた時のこと。ツイスト騒ぎをまのあたりにながめ、楽譜、レコードなど参考資料をたくさんそろえて帰って来た。〝マダム・ロカビリー〟の異名を取る美佐さんも夫君に負けず劣らず、スター作りに懸命だ。「むこうでツイスト歌手としていちばん有名なチャビー・チェッカーという人を聞いたの。リズムのかたまりで、ものすごい。藤木は、絶対この線で行くべきだと思ったわ」といっている。

 

 歌手とはいえ、映画に出演させることも、当然、考えてやらなければならない。これからは、歌えて踊れて芝居のできる万能型の方が、すべてに有利であるからだ。

 

 そこで、渡辺夫妻は、まず大宝プロの「狂熱の果て」に藤木を出演させた。この作品で足ならしをすませたところへ、大映の増村保造監督から「うるさい妹たち」で、仲宗根美樹とカップルを組ませたいという話を持ち込まれたが、永田雅一社長の「テレビでいくら売れているか知らんが、私は知らぬ」というツルの一声でおじゃん。

 

 日劇「ウエスタン・カーニバル」での活躍ぶりを見ても、藤木があの映画に主演していたら、もっと面白いものになったろうに――と陰ながら残念でならない。

 

 さいわい、藤木の現代的な容姿や、それからかもし出されるふんいきは、東宝藤本真澄常務の目にとまるところとなり、目下、彼の主演映画が続々計画されつつある。渡辺プロの藤木売り出し作戦は、上々の進行ぶりといってよかろう。

                                   (1962年3月9日)

 

掲載時の東京新聞の記事です。

古いスクラップ帖からのコピーで不鮮明です。
ご容赦ください。

追悼 藤木孝~「24000のキス」、そして「きみが住む街で」

 去る9月20日、藤木孝が突然世を去った。享年80。1961年、「24000のキス」を引っ下げ、ツイスト歌手として華やかにデビューした当時からよく知っていただけに、哀しみひとしおである。

 

 1962年、私は東京新聞夕刊に「芸能プロほど素敵な商売はない」(3月8日~5月14日、全37回)という読みものを連載した。その冒頭第1回、第2回に登場してもらったのが、渡辺プロダクション所属の新人藤木孝であった。古いスクラップ帖からその2回分をとり出し、ここに転載する。なお第1回目の文中に登場する水谷八重子は先代である。念のため。

 

 藤木の多彩な芸歴の中でとりわけ私の記憶に残るのは、『マイ・フェア・レディ』初演(63年9月、東京宝塚劇場)のフレディだろうか。イライザにひと目惚れし、彼女の住むヒギンズ教授邸の前で心を込めて「きみが住む街で」を歌うフレディ藤木の、なんと初々しかったことか。

 

  フレディに扮した藤木孝。『マイ・フェア・レディ』初演パンフレットより。

 

 

         ♫人が立ちどまって 見ようと かまわない

           ここだけが ぼくの いたい場所だから

                        (訳詩 若谷和子)

 

 持ち歌たった1曲、でもあの演技、あの歌唱は〝勲章もの〟でしたよ。心からご冥福を祈る。

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 東京新聞連載

 「芸能プロほど素敵な商売はない」①

   コネに恵まれた藤木孝

 

 最近、めきめき売り出している歌手の一人に、藤木孝がいる。はたからながめていると、あれよあれよという間に、スター・ダムにのし上がったかに見えるが、もちろん、そうやすやすとことが運ぶわけがない。

 

 新しい朝が来たら、また一人、スターが生まれていた――などというのは、もののたとえ話であって、売り出しのその裏側では、芸能プロダクションが、四方八方に作戦の網の目を張りめぐらせているものなのである。

 

 藤木孝を人気歌手に仕立てたのは、ザ・ピーナッツ、スマイリー小原とスカイ・ライナーズなどの売れっ子たちを一人占めにしている渡辺プロダクション。

 

 歌手志望の若い人たちには「スターの座をねらうんだったら、ナベ・プロ(芸能界では渡辺プロをこう呼んでいる)に入れ」という合い言葉さえあるほどで、ともかく、渡辺プロのような強力な芸能プロダクションにもぐり込むことが、いまや売り出しの第一条件になっているらしい。

 

 プロダクションに入れてもらうためには、入学試験や就職なみに、まずコネが必要だ。縁もゆかりもないタレント志望の青年が「テストしてください」とたずねたところで、忙しいプロダクション側がいちいち取り合ってくれるはずがない。実力の世界とはいえ、芸能界でも、コネはあったにしくはないというわけである。

 

 藤木孝が渡辺プロの門をたたいたのは、昭和三十五年春。なんと水谷八重子の紹介だった。八重子が藤木売り出しに一枚加わっているというのは、ちょっと奇妙な因縁だが、彼の養父が、たまたま熱心な彼女の後援会会員だったといういきさつかららしい。

 

 八重子と渡辺プロとの関係は、いうまでもない。一人娘の良重の夫君、白木秀雄が渡辺プロの秘蔵っ子である。双方の仲が浅からぬことは、想像するまでもなかろう。

 

 紹介者は大物であればあるほどいいといわれるが、藤木が八重子に仲介の労を取ってもらえたことが、他人から見たらどんなにうらやましいことか――本人の考える以上の幸運だったと思う。

 

 一人前にジャズをこなす上に、東宝芸能学校で踊りもみっちりたたき込まれて来た藤木は、売り出す側にとっても魅力あふれる素材だったが、さて、どんなかたちで芸能界に送り込んだらいいか。

 

 藤木の入社したその日から、こんどは、同プロ社長渡辺晋氏の藤木研究がはじまったのである。同社長はさいわいいまだにシックス・ジョーズのベース奏者をつとめるプレーイング・マネジャーでもある。歌手の個性を分析するのに、こんないい立ち場に立てる人は、そうざらにいるものではない。渡辺プロダクションがスター育成にすぐれた手腕を発揮するのは、なにより、渡辺社長の実戦で得たデータがしっかりしているからであろう。

 

 藤木がこんなに騒がれるずっと前から渡辺氏は「彼の魅力は、からだ全体で表現するリズム感ですよ」といっていたが、この分析の正しさは、ツイスト・ブームに乗ってあばれまくる彼によって、見事証明されたのである。

                                  (1962年3月8日)

 

掲載時の東京新聞の記事です。

古いスクラップ帖からのコピーで不鮮明です。ご容赦ください。
 

 

 

 

今も生き続ける、映画『ウエスト・サイド物語』

 ミュージック・ペンクラブ・ジャパン(MPC,J)のウェブサイト「クロスレビュー」欄に『ウエスト・サイド物語』について書きました。1961年日本公開時の思い出、近く公開予定のスティーヴン・スピルバーグ監督のリメイク版、への期待などに触れています。


 なおMPC,Jは1966年設立、会員数約160名、会長石田一志氏。クラシック、ポピュラー、オーディオ各分野の評論家、ライター、編集者などペンで音楽に係るプロフェッショナルの集う組織です。私は創立時からのメンバーです。 

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 ブロードウェイ開幕が1957年、映画化が61年、映画の日本公開は61年 12月、クリスマス・シーズンだった。70ミリスクリーンの迫力もあって、「ウエスト・サイド物語」の人気は一挙に高まる。私の周辺でも寄ると触るとこの映画の話題で持ち切りだった。映画「ウエスト・サイド物語」はこの作品自体の凄さだけではなく、ミュージカルというジャンルの凄さにも世間の目を向けるふしさえあった。


 永六輔が「『ウェスト・サイド物語』に最敬礼」というすこぶる興味深い文章を残している。アーヴィン・シュルマン作、大久保康雄訳「ウェスト・サイド物語」(映画のノヴェライゼーション本、日本版62年刊)に解説文として収められている。まず映画公開以前からいかにこの作品の熱烈なファンだったか、次のように書く。

 

人さまざま。語り継がれる

60年前の衝撃

 

 「ミュージカルのLP(オリジナル・キャスト盤)を集め始め、そのLPを聞くだけで舞台を想像し、胸をはずませるようになってからでも、『ウェスト・サイド物語』のLPほど興奮を味わったものはない。


 LPを頼りに、取り寄せたプログラムや舞台写真を並べ、もしニューヨークでこの舞台を見たという人があると、その実際の様子を聞きにいった。


 中島弘子サン、井原高忠サン、中村八大サン……。


 ニューヨーク・フィルが来日した時は、作曲家のレナード・バーンスティンのサインが欲しくて追いかけまわした…」

 今と違いブロードウェイがいかに遠かったことか。ちなみに中島弘子は服飾デザイナー、NHKテレビの音楽番組「夢で逢いましょう」でホステス役を務め人気が出た。井原高忠は日本テレビ「光子の窓」などで知られる名プロデューサー、ディレクター、中村八大はジャズ・ピアニスト出身、いわずと知れた「上を向いて歩こう」の作曲家である。


 もともと「ウエスト・サイド物語」の魅力にとり憑かれていた永は映画をどう見たか。

 「ファースト・シーンは豪華な顔見せ興行とでもいいたいところ。そして実際の街、つまりアスファルトで踊っているとは感じさせない演出の心憎さ。ここにこの映画のすべてがある。


 アメリカの良いところ、悪いところをゴチャゴチャにして、それを現代の魅力、エネルギーにまで高めたスタッフの根性に最敬礼…」

 永のこのような文章は、映画を見て脳天をうち砕かれたかのように感じた日本の観客の気持をそのまま代弁しているものと思われる。


 あの頃、洋画の大作ロードショウは現在のような大規模展開はなかった。「ウエスト・サイド物語」は私や私の友人たちは皆、有楽町ピカデリーで見ている。都内の他の映画館でも上映されただろうか。


 ピカデリーでの「ウエスト・サイド物語」についてソプラノ歌手の島田祐子がとても興味深いエピソードを語ってくれている(私が全篇聞き役を務めた「劇団四季半世紀の軌跡/62人の証言」所収。2003年刊)。

 

 「私は一度、芸大受験に失敗してミュージカルに力をもらったんです。合格発表を見に行った帰り、家族ががっかりすると思うとまっすぐ家に戻れずに、銀座をブラブラしてたんですね。そうしたらちょうど、有楽町のピカデリー劇場で映画の『ウェスト・サイド物語』をやっていて、人垣をかき分けるようにして見るうち、バーンスタインの音楽に圧倒されてしまって、「やっぱり頑張ろう。これで諦めてなるものか」って(笑)。当時は浪人なんてほとんどいませんでしたけれど、『ウェスト・サイド物語』からもらったパワーで一年頑張って、次の年、芸大に受かったんです。


 一九七七年、四季が『ウェストサイド物語』を再演した時、「サムホエア」の場面の〝影ソロ〟を歌わせていただきましたが、これもまた、何かの縁のような気がしています。」

 この島田の体験は62年2月か3月のことと思われる。


 1961年に製作・公開された映画「ウエスト・サイド物語」は、ロバート・ワイズ、ジェローム・ロビンスのふたりが監督として名を連ねる。舞台版で原案・振付・演出と三部門にクレジットされ、自他ともにクリエイティヴ・チームの統轄者、統率者を任じてきたロビンスは、映画化に当たっていくらワイズが老練だからといっても、彼ひとりには任せ切れなかったのだろう。しかしロビンスは極度の予算超過のため中途でその任を解かれてしまう。


 ワイズは、都会の只中にキャストを解き放ち、思う存分踊らせた。4年後、「サウンド・オブ・ミュージック」を映画化したとき、こんどは出演者たちを大自然の中に誘い出し、圧倒的な画面作りに成功した。「ウエスト・サイド」「サウンド・オブ・ミュージック」ともにアカデミー賞作品賞、監督賞のダブル受賞に輝いている。

スピルバーグ演出×ジャスティン・ペック振付へ、
期待は高まる


 多くの皆さんがご存知のように、ことしの年末、スティーヴン・スピルバーグ監督の手になるリメイク版が公開される。撮影は、すでに昨年9月末、終わっているという。なぜ今、「ウエスト・サイド物語」なのか。スピルバーグはいつ頃からこの題材に関心を持っていたのか。スピルバーグという名前が巨大なだけに興味尽きない。一日も早く見てみたい。


 このリメイク版では振付にジャスティン・ペックが起用されている。ペックは  1987年生まれ32歳とまだ若いが、2014年以来、ニューヨーク・シティ・バレエ団のレジデント・コレオグラファーを務めるアメリカ・ダンス界期待の星である。ロビンス及びロビンス作品と縁の深いニューヨーク・シティ・バレエ育ちだけに、オリジナルの振付はじゅうぶん体得しているにちがいない。その上でどのような新感覚のダンス、アクションを見せてくれるのか、正直いって期待半分、不安半分というところだろうか。


 最近、59年前の映画「ウエスト・サイド物語」をブルーレイ・ディスクで見直してみた。もとのブロードウェイの舞台がいかに優れているかがひしひしと迫まってくる。とりわけ革新的なレナード・バーンスタインの音楽とそれに負けず劣らず先鋭的なジェローム・ロビンスの演出・振付が一体化していることがこの耳、この目でしっかり確認できた。


 もちろん、この映画は原作の舞台の凄さを伝えるだけにとどまるものではない。シネミュージカルとしても驚くほど卓越している。一例を挙げる。目前に決闘を控え、ジェッツ、シャークス、アニタ、トニー、マリアそれぞれが「トゥナイト」の曲と詞に自らの思いを託し絶唱する「五重唱」。この場面の歯切れのいいカット割り、それがもたらす躍動感には胸が震える。


 映画公開時、ダントツの人気を集めたのはベルナルド役のジョージ・チャキリスだったが、彫りの深い顔立ち、切れのいいダンス、全身に漲るセクシーさ、すべてが今もって微動だもしない。ワイシャツの紫色が目に染みる。チャキリスは永遠です。

 

    (MUSiC PENCLUB,JAPAN ウェブサイト2020年8月号より転載)

 

公開時の映画ポスター

 

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