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ファンクラブの皆様には

この内容を
[MAIL会報]で
既に、読んでいただきましたが…


やはり、ブログ読者の皆様にも

知っていただきたく…


長いですけれど…
最後まで
読んで下さいね。




写真は

①〔歌っているのが母
後ろでアコーディオンをひいているのが父〕
②〔母と、少女歌手時代の私〕




さて・‥…

まず、
父の話をさせて下さい。
≪家族≫No.シリーズのブログを
読んで下さった方は
既に、ご存知のことも出てきますが…
改めて、今の段階で
まとめてみました。



父は

昭和33年から
結核で療養生活を送り、
その3年の間に11回、
大きな手術をしているの…。

肺を片方 全摘手術‥etc.

普通の人の半分の呼吸量で
健常者と同じように仕事をしていた…

27年前に…倒れるまでは…


27年前…

松阪に向かう足を
引き留めるかのように
東京駅が、遠かった…

異常な渋滞で…

やっと
名古屋に着き
実家に電話をしたら

「間に合わない!!」と
叔母・好子(ヨシコ)
よっちゃんの ひとこと…

もう、外は 真っ暗で…

その暗い景色を見ながら
近鉄特急の中
…泣いた‥泣いた…


松阪に着くと
友人が迎えに来てくれていて
友人に連れられて病院に…


父が…
人工呼吸器と戦っていた。。。

まるで
肉体と機械の戦いだった。
全身が紫色に腫れ上がって…


酸素欠乏から
小さな手術も不可能な状態になってしまい…

仮死状態になった瞬間に
口から人工呼吸器が差し込まれた…


弟の ひとことで
その処置がなされたの。

『姉が、もうすぐ着きますから…
息のあるうちに姉に会わせてやりたい!!』


タイミングが良かったのか
奇跡的に息をふきかえした父…

それから何日も…

父が人工呼吸器に
頼りすぎないように

家族が交代で
「もっと吸って!!…
しっかり はいて!!」
と、生死をさまよっている父に
声をかけ続けた。。。


その時の事を
父は覚えていない。。。



3年間の療養生活
&、11回の大手術

片肺になった父は、

健常者と同じように
仕事を続けていたのだが…

27年前、退院をむかえた父は
あえなく 永くお世話になった
尾張温泉東海センターを
去ることとなった。。。


それでも
その時の闘いが嘘のように

それから、27年間は
自宅で元気に頑張ってくれていましたが…



2年前…

あまりに 状況が
その27年前と似ていた…


9月になった
明けてすぐの1日1:11に…

弟・幸久(ユキヒサ)⇒幸ちゃんから
電話が入った…


実は…その2時間前に
弟と話し…

父の健康に関して
大きな不安を確認しあって…

私は…翌週
松阪に行く予定を組んだばかりだった…


でも…急きょ

朝、一番で
実家に行く事になった…

幸ちゃんからの電話は

父を救急搬送したと…

心肺停止状態・‥…


…でも!!!

心臓は動き始めてくれたとの事…


父は…一昨年の

4月末から、癌と闘っていた…


4月の段階で
既に進行していたの…。

父は
我慢をしすぎるタイプ…

かなり前から
痛みがあったのに…

家族にも
定期的に通っている
病院の先生にも
言わずに我慢していた…

早くに ひとこと言ってくれたらと…
私達家族は思うよね。。。


本人は なんとなく‥わかっていて…

だから あえて言わなかったように思う。。。
(母のことがあったから…
自分まで家族の負担になっては…と
思ったのでしょう)


実は…
その前の月
8月に、私が帰った時にも

父のたくましい
癌との戦いぶりに

誇らしささえ
感じて帰ってきたばかりだった…


食事の時に
すぐに2階からおりてこない父を、
迎えに行った時…


「大丈夫!? 父上」と、言った私に

『精一杯です!!!』と、答えた父…


あんなに、力のこもった
[精一杯]という言葉を

私は…誰からも聞いた事がない。



2年前の9月1日…
27年前と、同じ気持ちで
松阪に向かった…


その時も 同じように

松阪に向かう足を
交通規制 & 避難訓練で
何かに 引き留められながら…


前の夜…
幸ちゃんと…
話をしていた 心配事が…

その2時間後には
現実になるなんて…
思ってもいなかった。。。

父が 再び奇跡を起こしてくれる事を祈りながら
松阪に向かったけれど…


2011年9月2日
誤嚥性肺炎により
父は、かえらぬ人となりました。

翌日、9月3日に
コンサートがあり…
2日中に帰京しないとならない中…
台風に阻まれながら
松阪駅で、名古屋まで移動可能な
JRと近鉄特急の様子を
雨と風が吹き荒れるホームの中、
1人ベンチに座っていたのが
昨日のように思い出されます。




そして先日…

昭和5年1月13日生まれの

母・阿部ひさ(松本ひさ)が

2013年4月16日
肺動脈血栓塞栓症による呼吸循環不全で
永眠いたしました。


4月14日(日)の夜、弟・幸久(ユキヒサ)から
「ひささん、調子が悪い!!
救急車を呼んだ!」と、連絡が入った。

私は、タチの悪い風邪をひき
鼻声と咳が治まってなかった。
『顔みたら、安心すると思うよ』
「うん!行くね…今すぐは、良くないよね…
風邪を移してしまったら大変だもんね!」と
弟と話をした。

母は、呼吸のツラさと
胸に苦しさがあったらしく、
弟の手を心臓あたりに導き、訴えたという。

実は、母は…4年ほど前から言葉を失い始めたの。
脳梗塞のようなものだけど、
手術のできない場所で…。

更に3年前に肩に大怪我をし、
3ヶ月以上の入院…

その間に、加速して
言葉を失っていった…。
もともと母は明るく、気丈な人で、
考えるより先に言葉が出る人だった。
言葉を奪われたストレスは重く…母は、辛かったと思う。


16日…何だか寝つけずにいた3時34分に、
弟から「容態が急変したと
病院から電話が入った」と連絡があり

4時04分「心肺停止」の言葉が…。

その後、
懸命な蘇生処置をほどこされましたが、
私の到着を待つように
前日(15日)に転院させてもらったばかりの
通いなれた
松阪市民病院で
13時51分息を引き取りました。


母・阿部ひさ(松本ひさ)(享年83歳)


母が亡くなった4月16日
20:00~通夜を
家族と、親しい知人でとりおこない。。。

翌日の4月17日…ダビに。

私は、この日の夜、東京に戻り、
翌日の福島県郡山でのコンサートの準備を。
何だか…父の時と
状況が にていた。。。

4月18日のコンサートでは、
出演者の皆様全員に支えられ…
会場の皆様のパワーをいただき…

両親の支えを感じながら
歌う事ができました。

母に、待ってもらう形になってしまったけれど…

4月20日(土)
告別式をさせていただきました。



津市出身の母

戦後、上海から引き上げてから
いろんな歌の大会で獲得した金品で、

祖父の活動の お手伝いで
他の引き上げ者の方々の援助をしていた母。

初代・ミス赤い羽根にもなった母。


1951(昭和26)年に
「第4回NHKのど自慢大会」で
『フランチェスカの鐘』を歌い
優勝し日本一に輝いた母。

あの時代…NHKのど自慢で優勝すると
レコードデビューのレールがひかれていたのだが…

私がお腹にいたので、
デビューの道を捨て、
父・榮之助と駆け落ち

阿部小間物店に嫁いだ母。


ラジオ三重(現・東海ラジオ)の
専属歌手として
子ども番組等を受け持ち
「歌のおばさん」として親しまれた母。

若い頃、
水泳と卓球をたしなんだ母の後年は、

阿部小間物店をきりもりしながら、
ボウリングを楽しみ
数々の大会に出場した母。


私は、歌手として、
松本ひさを超えられなかった…

それほど、母の功績は
素晴らしかったと誇りに思う。

私は永遠に、
歌手松本ひさの娘です。



父は…

いちばんの 母のファンだったと思う…


要介護4まで すすんでしまった
母の事を心配して心配して…


なんだか 父が…

母を、
お迎えに来たように
私達は感じました…。


私は、東京に離れて暮らしているので
まだ、実感が持てないのが現状です。


この、4年間近く

生活の ほとんどを
父に 母に 捧げてくれていた

弟・幸久(ユキヒサ)
叔母・好子(ヨシコ)

幸ちゃんは、ずっと
母のベッドとL字型に自分のベッドを並べ

母に 付きっきりでした。

よっちゃんは、
自覚症状がないのに
母の面倒を見る事が
できなくなると大変だからと
昨年、心臓の大手術をうけました。


今、私は…
二人が、力がぬけて
ペースを乱して
身体を壊さないように願うばかりです。




皆様の ご家庭でも
いろんな事があると思います。


今年は特に、暖かくなってきたと思えば
また、とても寒くなったり…


皆様、くれぐれも ご自愛を♪




そして今、

私は、
5月25日に向かって
走り出しています。


そのことは

また、後程。




    ☆静江☆彡