陸軍中津飛行場(相模陸軍飛行場) | あべ隆之のブログ

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議員2期目。常任委員会の委員長を任されるようになりました。

今年の夏休み(7/20〜8/31まで)、県立あいかわ公園の郷土資料館において、陸軍中津飛行場の教官を務められた方のご遺族から寄贈して頂いた写真の展示会が開催されます。

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昨日は、本展示会の内容について、主催の教育委員会の方とお話をしました。
と言うのも、皆さん上原重雄中佐のお話をご存知でしょうか?

少々長くなりますが…。

昭和20年2月16日、相模湾沖に進行した航空母艦から発信したグラマン戦闘機延べ600機が初めて関東地区を襲った。硫黄島上陸作戦を目前にした米軍の本土の目標に対する超低空からの集団攻撃をしてきた。2日目を迎えた当地は朝から空襲警報下にあった。

午前10時頃攻撃を終えて南下してきた暗緑色の大編隊の群に単機捨身で突入した日本軍機があった。

衆寡敵せず不運にも本市小竹上空で被弾してしまった。機は相模湾上で反転し飛行場への帰還に向かったが、後続し南下する敵編隊の挟み撃ちにあい当地上空で炎につつまれ天蓋から身を乗り出して北方の基地、皇居に両手を上げて決別しそのまま機とともに自爆し壮烈な戦死を遂げられた。その姿は当地の人々に現在も鮮烈に残っている。

戦死した搭乗者は首都防衛飛行第22戦隊長上原重雄中佐であった。

歴戦の中佐は陸士第52期の卒業でスマトラ島のパレンバン航空隊を拠点として遠くニューギニア戦線までも遠征し縦横無尽に活躍をし、特にB17爆撃機の迎撃には偉勲の戦士と言われている。

前年に祖国に帰り兵庫県加古川航空隊で教育にあたっていたが、20年1月愛甲郡愛川町中津にあった第22航空戦隊長として着任した直後であった。当日は部隊が朝鮮平壌に移駐が決まり軍は迎撃中止を命じていたが我が物顔の敵機の振る舞いに祖国の末路を案じてか、はやる部下隊員を掩体壕になだめおいて、自らは義憤の単機発進をされたものと思われる。

当地においては故人を偲び、当地区の戦死者として遺影を福泉寺に掲額し遺族会としても懇ろに供養している。墓地の記念碑は搭乗機「疾風」のプロペラ4枚のなかの1枚である。


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正直、私はこの話を知りませんでした。
先日、小田原市議会の議長様と話をする機会があり、その中で上原重雄中佐の話を伺いました。
お墓は小田原にあります。

愛川町の飛行場を飛び立った疾風が小田原に。

本件について郷土資料館の職員の方に話をしたところ、大変よくご存知でしたし、上原重雄中佐の僚機のワタナベさんも郷土資料館に来た事があるとのお話しでしたが、現在、上原重雄中佐に関する展示は何もされていません。
疾風の風防のところに、このお話に関する展示があればと思います。

是非、町民の皆さんや写真展に来られる多くの方々に、この事を知って頂いたら良いのではないか、と思っています。