ブログを引越しようと思います。かねてよりそう考えていて、ちょっとづつ過去のエントリを移しておりました。次のブログは「Blogger」です。

新「レゴと文学」
http://abdora-nothing.blogspot.com/

アメブロは機能と広告が多すぎて、なんだか日本のミニバンみたいな感じで自分にあわないと思いました。
ということで、近々移動いたします。
ブックマーク等しているかたは、変更お願いします。
お手数おかけします。


新「レゴと文学」
http://abdora-nothing.blogspot.com/

LEGOのオリジナル作品。
登山するための車。愚息作。

斜め上から。オビワンが乗っています。前輪オーバーハング、すごいです。
レゴと文学と映画-LEGO・登山車・斜め上から

後ろ斜め上から。意外と計器類が多いです。後ろの黄色いボンベは分離して単独で海にもぐり仕事をするそうです。登山車なのに?
レゴと文学と映画-LEGO・登山車・斜め後ろから

真正面から。オビワンと思ったら違う人でした。後方に積まれた大量の皿は、山のイメージです。食べ散らかしたのではありません。
レゴと文学と映画-LEGO・登山車・正面から
ボルヘスの評論集「続審問」のひとつに「カフカの先駆者たち」というテーマの評論がある。ボルヘスにしては評論というよりもエッセーにちかいものだが、ボルヘス先生、あいかわらず思考の飛翔と驚異的な想像力で当初は「類例をみない独自の存在」だと思っていたカフカの先駆者を列挙する。
「カフカの先駆者たち」のように凡人では思い出すことさえ難しい作家同士の関連を軽快に結びつけるボルヘスの技をみると、この想像力と連想力、それにこの博覧強記はどこからくるのか。どうすればボルヘスのような評論がかけるのか。と考えがちだが、そもそもボルヘスはそのように単純な憧憬がまったくあてはまらない作家である。この評論集「続審問」も、「続」とついていながら正編は存在しない。以前の出版元である晶文社はそこを気にしてか「異端審問」という意訳的なタイトルにしていたが、岩波の文庫になって元の意味に近い書籍名となった。そもそも正編のない(かつては存在したらしいが)書籍に「続」とつけると、どうしても「正」をさがしてしまう。そこが罠なのだ。しらずに探しはじめると、あっというまにボルヘスの迷宮、バベルの図書館に引き込まれてしまう。
だから作中に言及されている作家や作品も、ボルヘスの罠によって2,3架空のものがまじっているような気がしてしかたがない。作品そのものは実在したとしても、この引用はほんとうにセルバンテスなりの作品にかかれているのか不安になる。ボルヘスの引用を再度引用するなどという行為は、こわくてボクはできない。ボルヘスとはそういう作家である。
そのボルヘスが高く評価するカフカの先駆者にあたる作家を捜そうというのがこのエッセー「カフカの先駆者たち」のテーマである。
だがボルヘス自身もこのエッセーの冒頭でカフカを「類例をみない」と言っているし、カフカに先駆けてカフカ的なものが存在するなら、たぶんそいつがカフカであって、いままでのカフカはカフカではない、と誰もが思うところだろう。だからボルヘスはいちおうこう断りをつける。「彼の声、彼の癖をみとめる」と。声? 癖? ボルヘスはまっとうな隠喩と、まるで読者をあざわらうような普通では理解できない隠喩を交互に書くことで、そのどちらかだけではたどり着けなかった表現をしてみせることが多い。ここでいう「声」も「癖」もカフカにあったことのないボルヘスには架空のものでしかない。この先に提出されるであろう過去の書籍を前にして、ボルヘスはすでにこのエッセーが博覧強記の遊びであると、例の隠喩のように宣言しているように思われるのだ。しかし、たぶん、これはボクの深読みだろう。そうと気づいていながらも、しかし足下をすくわれぬよう用心する。つまり、やはりボルヘスとはそういう作家であるのだ。
カフカの先駆者としてのはじめは「運動を否定するゼノンのパラドクス」をあげる。古代ギリシア、エレア派の哲学者ゼノンの考えた、動いている矢は永遠に止まっている、というアレである。アキレスと亀の話として有名だ。たしかにカフカの「城」は「運動の否定」でありパラドクスである。
つぎに9世紀の作家、韓愈の麒麟にかんする寓意譚を紹介する。麒麟はめでたいし見つけたいが、だれも麒麟などみたことがないのだから、そもそも麒麟をみて「麒麟だ」と判断できるかどうかわからない、といった「静謐で謎めいた」一文をカフカの先駆とする。
第三にキルケゴールをあげる。知的親和性もそうだが、ボルヘスはキルケゴールとカフカのあいだに共通する「中産階級的主題にもとづく宗教的寓話がたくさんある」のだそうだ。そして第四番目にブラウニングの「恐怖と疑念」をあげる。その他、レオン・ブロワ「不快な物語」、ダンセイニ卿「カルカソンヌ」など。
最後にボルヘス先生から種明かしがある。
「程度の違いこそあれ、カフカの特徴はこれらすべての著作に歴然とあらわれているが、カフカが作品を書いていなかったら、われわれはその事実に気づかないだろう。」
「ありようを言えば、おのおのの作家は自らの先駆者を創り出すのである。彼の作品は、未来を修正すると同じく、われわれの過去の観念をも修正するのだ」
40近くある評論の中からこの「カフカの先駆者」を「続審問」の書評としてボクが選んだ理由は、この作品がもっともわかりやすくボルヘスの手法と知識を表しているからだ。驚異的な記憶力と、作品同士をむすびつける着想力、それに優秀な弁護士がそうであるように、強引であるがゆえに説得力のある発想。つまり、膨大な知識の土台の上であれば、発想はとっぴであればあるほどよく、さんざんテクストを広げても、あとはカフカなりの主題がその作品のちからをもって理論を助ける、というボルヘスの手法を。
だからボクはカフカを安部公房に置き換えて、「過去の観念」に対して安部公房が影響をあたえた作品をさがしてみようと思う。とうぜんカフカが安部公房の本当の先駆者なのは別問題として。

$レゴと文学と映画-ボルヘス、ブルガーゴフ、レム、石川淳

「巨匠とマルガリータ」ブルガーゴフ
これは不遇のロシア作家ブルガーゴフの作品である。この本もブルガーゴフの死後まで発禁状態だった。二本足で歩く黒猫ベゲモートや巨漢のファゴット、全裸の魔女をひきつれた悪魔ヴォラントは、モスクワの知識人をつぎつぎに斬首し殺害してく。いっぽう「巨匠」と呼ばれる精神病院に入院中のもと作家はポンテウス・ピラトに関する原稿を火にくべる。小説の舞台は一挙に2000年前のローマで、皇帝ピラトが罪人ヨシュアを磔刑に処すまでの駆け引きと苦悩がかかれる。
右目で見ると名刺の人物、馬の下半身を持つ医者、顔のない夫、箱に住む男・・・。安部の登場人物とそのとっぴな舞台装置はブルガーゴフを先駆者と呼んでもよいだろう。

「天の声」スタニスワフ・レム
マスターズ・ヴォイス計画発足1年後から中心人物としてその計画にかかわったホーガス博士の死後、その遺稿からみつかった原稿を後年一冊の本にまとめた、という体裁をとっているのが「天の声」である。マスターズ・ヴォイス計画は、こぐま座の方向からとどいたニュートリノの規則的な信号を解読することを任務としていた。そもそもその信号は異星人からの手紙なのか、それとも自然がつくる理論なのか。そうしてその信号を解読したあかつきには、いったいなにが待つのか。
レムの特異なところは、スタイルと細部のつくりこみをハードSFとしながらも、つねに人間の認知と孤独、ディスコミニュケーションをえがいてきたことにある。つねに人間の認知をこえた存在を与えることで、人間はディスコミニュケーションを克服し、認知を広げ、また大きな孤独の中に帰って行く。
安部公房もSFが好きであった。失敗作のすくない安部だが、彼のSF作品「第四間氷期」はお世辞にも傑作とはいいがたい。レムのような作品を多数書いていても不思議ではない作家であったのだが。

「鷹」石川淳
じっさいに師弟のような関係にあったふたりだから、先駆者というのはおかしいかもしれない。しかし安部の超現実の描写が他に類例をみないといわれながらも、石川淳の「鷹」には安部につづく超現実描写が安部以上の大胆さでかかれている。
「鷹」は石川淳おとくいの歴史ファンタジー小説を現代に置き換えた、一種のアナーキズム小説である。舞台が現代だから歴史物にあるよりはアナーキズムがわかりやすく書かれる。みるたびに文字が移動し意味をかえる「明日語」などはその最たるものだ。
「万人の幸福」を考えたために主人公「国助」は専売公社をくびになり「国際的たばこ密造団」の仕事をする。「国際的たばこ密造団」の作る「ピース」は専売公社のピースよりもはるかにおいしい。それは密造団の「ピース」が「明日のピース」だからだ。密造団のなかでは明日おこることが書かれた新聞があり、専売公社と国はやっきになって密造団を検挙し根絶やしにしようとする。最後にヒロインの少女と国助は独房の窓から月にむかい、鷹となって飛んでいく。
かようにこの小説には膨大な暗喩が塗り込まれている。暗喩がなにを意味しているかは読む人、時代、イデオロギーによりさまざまではあろう。安部が石川淳に影響をうけたのはこのSF的ともいえる暗喩の使い方だったのではないだろうか。
またキュロットスカートをはいて鞭を振るう革命を象徴する少女の存在も、安部の小説に出てきてもなんら不思議ではない。いまでいうツンデレ少女、オタクの安部公房の好みだったはずだ。


続審問 (岩波文庫)/J.L. ボルヘス


巨匠とマルガリータ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-5)/ミハイル・A・ブルガーコフ


天の声・枯草熱 (スタニスワフ・レム コレクション)/スタニスワフ レム


鷹 (講談社文芸文庫)/石川 淳


「ワンテーマ本棚その2 フィクションとノンフィクションの境界、の本棚-1」のつづき


「水俣」ユージン・スミス
「苦海浄土」石牟礼道子

ユージン・スミスは1918年にカンザス州でうまれたマグナムフォトの写真家である。ユージンが学生のときに、世界大恐慌で破綻した小麦商の父は散弾銃で自殺をする。自殺を報じた新聞記事をみたユージンは、その冷酷な記述内容にはげしいショックをうけたという。第二次世界大戦では従軍カメラマンとしてアメリカ軍に同行し、沖縄で日本軍の爆撃をうけて一生その後遺症になやまされることになる負傷を負う。
ユージン・スミスが水俣を撮りだしたのは1961年に日立のコマーシャルスチールの撮影に来日してからのことだ。1972年にはもっとも著名な作品のひとつ「Tomoko Uemura in Her Bath」を含む水俣シリーズを「Life」誌に「配水管からたれながされる死」というタイトルで発表して未知の公害病「水俣病」とともに世界中から注目されるようになる。
1972年には、水俣の患者たちとともに千葉県にあるチッソ五井工場に交渉にいく。ところがチッソ側が雇った200人の暴力団に、患者とその取材のジャーナリストともども暴行を受けユージンは脊椎を損傷し片目を失明してしまう。
「Tomoko Uemura in Her Bath」は、母親の妊娠中に胎児性有機水銀中毒になった15才のトモコを、右後方からさすやわらかい光の中で入浴させる母と子をえがいた作品である。はっきりとした黒と白の色だけで、水俣病のすべてと、母と子のすべてを表現している。ボクは「母」というものを観念的に考えるとき、いつもこの写真が脳裏に浮かぶ。母という観念と、ユージン・スミスのこの作品はボクにとって同義だ。
この作品を撮影するにあたってユージン・スミスがどのような手法をとったのか、またもしかするとどのような要求を被写体に伝えたのか、ボクはしらないし、わかりようもない。ただ、もし仮に先述したドアノーのような調整や予定があったとしても、このウエムラ母子の悲惨な境遇のなかでの穏やかな一瞬は永遠につづき、ボクのなかにある母のイメージがべつのなにかにとってかわることがおこるとは思えない。
彼は「水俣」英語版の序文でこう言っている。
「ジャーナリズムのしきたりからまず取りのぞくべきなのは『客観的』という言葉だ。そうすれば、出版の『自由』は真実に大きく近づくことになるだろう。そしてたぶん『自由』は取りのぞくべき二番目の言葉だ。この二つの歪曲から解放されたジャーナリスト写真家が、そのほんものの責任に取りかかることができる」

「苦海浄土」の著者、石牟礼道子は、あなたの取材には嘘がありますよね、といういじわるなインタビューにこたえて「だって(水俣の)患者さんの心の声が聞こえるんですもの」というようなことを答えている。
いまではこの「苦海浄土」をノンフィクションに分類する人はいない。これはれっきとしたフィクションであり、「小説」である。患者へのインタビューも実際には半数ほどしかおこなっていないのではないかという批評もあるし、彼女の書く水俣弁に過剰な演出があると指摘する人もいる。
しかし、ユージン・スミスの言葉を借りれば「ほんものの責任」が「苦海浄土」にはかんじられる。実際におこったことだからノンフィクションであらねばならぬといった偏狭な価値観から脱却するには、「客観性」や「ノンフィクション」としての拘束を脱ぎ捨てたあとにくる、責任の所在をひきうける覚悟が必要になるのだ。
ユージン・スミスはこうも言っている。「ジャーナリストにはふたつの責任がある。ひとつは被写体への責任、ふたつ目は読者への責任。そのふたつの責任をはたせば、おのずと雑誌への責任ははたされる」

「Tomoko Uemura in Her Bath」の被写体であるウエムラトモコは、この撮影の6年後に21才で死亡している。ユージン・スミスの死後、遺族からの申し出でこの写真の使用権は遺族にもどされ、再使用はできなくなったそうだ。インターネットにはコピーが無限に出回っているが、ここでは遺族の決定を尊重して写真は掲載しないことにした。いちおう、おことわり。
またかねてより噂のあった、池澤夏樹個人編集・河出世界文学全集の第3集に石牟礼道子著「苦海浄土」が刊行されるようだ。再読後、この本についてはあらためて書いてみたいと思う。
フィクションとノンフィクションとの区別は誰もが理解している差である。一方が創作で、一方が事実をもとにしたものだ、と。しかしことはそう簡単ではない。事実を忠実にえがいたフィクションもあれば、創作されたノンフィクションも多い。とくに消費者の気持ちとしては、「実際にあった事件を元にした」とか「歴史的事実を再現」といった言葉はよい表現で、逆にノンフィクションに創作が含まれていた場合の拒否反応はすさまじい。ノンフィクションはフィクションに勝る、といつのまにかみながそう思うようになっている。
写真を例にとるとわかりやすい。土門拳の「絶対非演出」は神秘的なほどの教条として見る人の心を動かすようだが、よくよく考えるとどうして演出がいけなくて、非演出がすてきなのか、きちんと説明できる人は少ないと思う。もちろん土門拳の作品が無価値なのだと言っているわけではない。
ロベール・ドアノーの作品に「パリ市庁舎前のキス」という有名な写真がある。市庁舎前の広場を忙しそうにいきかう人々の中心で抱き合う二人の男女。そこだけが制止したような周囲との対比がすばらしい作品である。しかし最近、この作品が偶然を切り取ったものではなく、キスする男女が俳優で、そういう演技をしてもらったということが発覚すると、いっきょにこの作品の、ひいてはドアノーの評価はさがってしまった。おおかたの感想は「だまされた」といったところのようだ。
ドアノーはすぐれたシャッターチャンスのために1時間でも2時間でもカメラをかまえて待つこともあった。それでも思ったものに巡り会えなかったら、俳優をつかってでも自分の脳の中にあるイメージを実現させたそうである。
$レゴと文学と映画-パリ市庁舎前のキス

志賀直哉だか川端康成だか忘れたが、あるとき土門拳は作家の肖像写真をとるために書斎でカメラをかまえていた。作家がペンをもち、原稿用紙に書き始めてすぐにファインダーをのぞくと、手前に積んである本が邪魔で手元のペンも原稿用紙もうつらない。その本を移動させればすむだけの話だが、「絶対非演出」の土門拳はその本を動かすことができない。だからそのままシャッターを切ったそうだ。彼は後年「いまでも動かすべきだったのかどうかわからない」というようなことを書いていた。
みなが神経質に、かつ過敏に判定をもとめる「フィクションかノンフィクションか」という判断は、五万といるカメラマンそれぞれに基準があり、その基準を作り出すのはカメラマンそれぞれが持つ、ひとつの作法なのだ。後から演出であったとわかったとして、作品自体の価値はそれほどかわるものなのか。写真はすべてジャーナリズムだという思い込みが、ドアノーの価値を二転三転させるのだろう。
あるいは1994年にピュリッツァー賞を受賞した写真家ケビン・カーターの「ハゲワシと少女」の話は有名だと思う。水くみに行く途中で力尽きて倒れ込んだスーダンの少女が死ぬのを、背後でハゲワシが待つという明快な構図と明快な意味をもつ作品である。当時、アメリカ国内では「なぜ助けなかったのか」という批判が続出した。本人が語ったようにケビン・カーターは口べただった。だから「そう思う人はいますぐスーダンに行きなさい。そうしていまこの時にこの少女と同じように死にいく無数のこどもたちを救いなさい。それができないならせめて寄付をするか、スーダンがこのように悲惨な現状にあることを隣人につたえなさい。わたしがカメラをつかって全世界にそうしたように」とは言えなかった。そのかわり「写真をとったあと少女は体力を回復させてまた歩き出した」といったのだ。これはノンフィクションが、実はあとからフィクションでしたと言い訳をしているのだ。スーダンの悲惨さが、適正すぎるシャッターチャンスのために現実よりも悲惨に写ってしまいました、とノンフィクションであったはずの作品に演出をあとから入れこんで批判をかわそうとした。
つまり、このような少女が生き返ったという虚構を写真表現に塗り込める「フィクション」や「演出」が問題なのであって、作家の手前に積んである本を動かすかどうかとか、自分の脳の中のイメージを実現するために俳優を使うとか、そいった「フィクション・ノンフィクション」の分界点は作家それぞれの哲学であり手法でしかないのだ。
その後、ケビン・カーターは自殺してしまう。「なぜ助けなかったのか」と批判した人たちはみごとに勝利したのだ。スーダンの少女が生き返った、という偽善の虚構を手に入れ、助けなかったカメラマンに鉄槌を下したのだ。
$レゴと文学と映画-ハゲワシと少女

つづく・・・

書評は読むのも書くのも時間がかかる。正直、スピードと更新頻度のもとめられるブログには似合っていないのかもしれない。
だから、ボクの少ない蔵書の中から、1回ワンテーマで何冊かの短評をまとめて書くのはどうだろうか。と考えた。
テーマを作る。→ 本を探す。→ 短評を書く。
なんだかおもしろそうだ。さっそくやってみよう!



ワンテーマ本棚:「異界との接触」

いつも通りの日常なら、なにも文章にしたりまして本にする必要はないはずだ。日常でないところに、書物がなにかを伝えようとする動機があり、読み手側には理由がある。それは、いつも通りの日常に、なんらかのきっかけでちょっとした裂け目ができることから始まる。普段は見えない、あるいは見ないようにしている裂け目の向こう側を覗けば、実はなにげなく生きている日常よりも重大な真実が見えてしまうこともある。そして、その裂け目の向こう側をみた人物は、見てしまう前にはもう戻れない。
そんな、いままでの日常に存在していなかったものを「異界」と呼び、その異界とであってしまう物語を「異界接触譚」と呼ぶことにする。
この手のプロットはむしろ古典的である。ゲーテの「若きウェルテルの悩み」も、日常がなんらかのきっかけで突然とその意味をかえ、最終的には自らの生命よりも重要なものを見つけてしまうという一種の「異界接触譚」と言えなくもない。若きウェルテルにとって、ロッテの美貌はいままでの日常には存在していなかった「異界」である。
しかしここではもう少しテーマをしぼって、自分だけではなく、ごく普通に生きている人間が出会う可能性の低い「異界」に接触してしまった、どちらかという不幸な人の物語を紹介したいと思う。

$レゴと文学と映画-「異界との接触」系本

「異界歴程」前田速夫

週刊新潮の編集長だった前田速夫が、自身の趣味が高じて本格的な民俗学の本を書いた。新潮だけあり理論的で文章も高品質。出版社は晶文社だが。
大阪ローカルのテレビ番組「探偵ナイトスクープ」のプロデューサー松本修が、番組企画をもとにした「アホ・バカ分布考」を著したのと、出自が似ている。
ちなみに言語的な境界線=異界との接触線は柳田国男の「蝸牛考」で古くから民俗学として調べられている。「アホ・バカ」も「蝸牛(カタツムリ・デンデンムシ・マイマイ)」の呼び名も、京都を中心とした同心円で日本に広がっている。これを方言周圏論という。
松本清張の「砂の器」では、島根県の貧村出身の被害者の話す方言を聞いた目撃者が「東北弁みたいだった」と話すことで捜査は低迷する。京都を中心としたとき、島根と東北南部は同心円のほぼ等距離にあるのであった。


「不安の立像」諸星大二郎

異界接触譚となればこのマンガ家しかいないだろう。諸星の書くマンガのほぼ80%が異界接触譚といっても過言ではない。
とくに初期短編を集めた単行本「不安の立像」は、普通なら見ることなく人生を終えるはずの「異界」に、ひょんなことからであってしまったアンラッキーな人たちが無数にでてくる。表題作「不安の立像」はその最たるものだ。
平凡なサラリーマンである主人公は、毎日乗る満員電車の窓から、ある日ふと線路際にたたずむ黒い影を発見する。それはずっと昔からそこにいて、誰も気にもとめないし、ただたたずむばかりでなにをするわけでもない。しかし主人公は気になってしかたがない。ある土曜日の終電後、立ち去る黒い影を追いかけて地下歩道で声をかける。逃げ去る黒い影の肩にかけた手に感じたものは、この世の感触ではなかった。数日後、たまたま飛び降り自殺の現場に遭遇した主人公は、通過する電車の向こうに、あの黒影がすばやく動くのを見る。その黒い影は、ただひたすらずっとこの時をまっていたのだ。
この世には、だれもが知っていながら気にしないようにしているものがあり、それを追求しないことで保たれる平和や安心がある。その境界を踏み出すことで、それは「不安の立像」になり、異界と接触することになってしまうのだ。


「諸星大二郎ナンセンスギャグ漫画集」諸星大二郎

「ナンセンスギャグ」と命名されているが、これは「異界訪問ギャグ」ととらえてもらってもよい。とくに「怒々山博士」はつねに異界ととなりあわせのギャグマンガだ。まったく「笑う」ことはできないが。
「ユリイカ 諸星大二郎特集」もあわせて読むとこのナンセンスギャグにも意味が見えてくるだろう。


「遠野物語」柳田国男
「水木しげるの遠野物語」水木しげる

遠野物語は日本古来の異界接触譚をはじめて体系づけた民俗学の書物である。
太古の人間の脳は、脳底辺部の海馬がいまよりもずっと大きかったそうだ。「恐怖」や「畏怖」という言葉をもたなかった古い人類は、恐怖をそのまま恐怖として目に見えるかたちで体験していた。現代でいう幽霊や怪物、妖怪などの魑魅魍魎がちょくせつ目に見えていたのではないか。
しかしいったん「恐怖」という言葉で自分の心の動きを体系づけた人間は、もう海馬の働きにたよることもない。二本の舌を出すなんだかぬめっとした細長い生き物をはじめて見た人の恐怖は、「蛇」という体系内におちついた言葉を知るわれわれには理解できないだろう。
柳田が遠野でおこなったこのフィールドワークは、つまり明治の東北農村部がもっていた海馬の働きを、「民俗学」という言葉の体系に置き換えた近代化の作業だったのだろう。
それを100年後に水木しげるという希代のマンガ家がカバー&リミックスしている。この人以外ではできなかっただろう。



「ドグラマグラ」夢野久作

異界は外側にだけあるわけではない。とうぜん自分の内部にも通常ふれてはいけない部分もあるだろう。「ドグラマグラ」の場合はそこにふれないことで精神異常者としての平和な日常があった。正常な精神にもどるとは、ふれてはいけない異界に戻るということだ。
このように「ドグラマグラ」はしかけられた倒錯が複雑にいりくんでおり、小説の構造も負けず劣らず入り組んでいる。


「目を擦る女」小林泰三

隣に越してきたといって挨拶にきた女は、「わたしはいま眠っているのです。だから起こさないように、大きな物音をたてたり騒いだりしないで下さい」と指の付け根で目を擦りながら言う。夢が覚めると、自分の夢であるこの世界もさめてしまい、人の生きられる世界ではない現実に戻ってしまうのだ。
主人公の操子はよせばいいのにこの目を擦る女に興味を持ち、夢のまま終わるべき自分の世界を「異界」へ近づけてしまう。
なんだか非常に気持ちの悪いSFのような怪奇短編小説である。こちらも「ドグラマグラ」と同じく異常な「異界」が真実で、正常な毎日が本当は「異界」であるという逆転「異界接触譚」だ。


「山月記」中島敦

古の中国、天宝の頃、監察御使の袁惨は道中虎に襲われそうになる。しかしすんでの所で虎は襲うのをやめ人語を発する。その声に聞き覚えのあった袁惨は「その声は我が友であった李微子ではないか」とたずねる。虎はこたえて「いまや私は異類のものとなっている。だがほんのしばらくでよいから私と話しをしてくれないか」といって、自分の身の上を語り出す。
もしここで李微子がいうように、彼の自尊心や羞恥心が彼を異類の虎にしてしまったのであれば、われわれは誰しもそうなる可能性をはらんでいることになる。人間の心をわすれ、人の肉を喰う異類、つまり異界はだれからも紙一重の距離にある。詩をたしなみながらも琢磨せず、それでも自分は他人とは違うのだという自尊心ばかりがそだった結果だと、本人は言う。これは中島敦の自戒だろうか。それとも中島敦なんかをありがたがって読むわれわれ読者への警告だろうか。
なんにせよ、異界の虎にならない秘策はなさそうだ。


「カロカイン」カリン・ボイエ

スウェーデンの詩人ボイエの小説作品。意外にもSFの形態をとり「1984」のような管理社会の恐怖を書いている。1930年代のスウェーデンであれば、隣国ソビエトのスターリン主義はそうとうな脅威であっただろう。
しかしここでは模範的な科学者である主人公カールが、模範的であるがゆえに発明した自白強要剤カロカインのために、すべての模範的生活を捨て国家に反逆しなければならなかった部分に注目したい。
日常と異界との立ち位置は「ドグラマグラ」や「目を擦る女」とおなじで、彼らが日常と思っているものが読む側からは異常であり、異常と思っているものがこちらからは正常である。そしてそれらの主人公たちは外的な要因で日常から異常へ、普通の世界から異界へと目覚めていく。しかし「カロカイン」の場合はカールのもつ日常への忠誠心や順応力が逆に異界を呼び寄せるところがおもしろい。
どこかで読んだことのあるような物語のようだし、未来の描写もあまりリアルではないが、人間の尊厳をもとめるテーマはどっしりと重い。


「密会」安部公房

呼んでもいない救急車によって妻がはこばれていく。搬送先の病院も告げず、まして病名もしらないまま・・・。
この小説ではあらゆる二元論的な意味が溶解していく。「よい医者はよい患者」というスローガンが掲げられ、四本足の医者が診察し、生きたまま骨の溶ける少女に恋してしまうこの病院で、おおかたの読者は自分が「健康」だと宣言することはできないだろう。
はじめは妻を必死に探す主人公だが、その衝動をおこさせる愛があのようにグロテスクな性描写からなりたっているのを見るとき、愛も殺意も「地獄では一つの球根に融けあって」いることを発見する。
読み進めれば、読者はとうとう信じるべき日常の中心点さえ見失ってしまう。異界に接触した人の物語を読む楽しみはここにはない。これは自分の周囲をとりまく日常に対する懐疑を産み、どんな場所にも偏在する異界を、明確に認識するための意識のメルトダウン装置だ。


「ラヴクラフト全集」HPラヴクラフト

コズミックホラーといいクトゥルフ神話といい、この作家の後生にあたえた影響ははかりしれない。諸星大二郎の「不安の立像」も小林泰三の「目を擦る女」も、おおもとをたどればラヴクラフトにいきあたる。最近の映画では「パイレーツオブカリビアン」のデイヴィ・ジョーンズの外観や、「崖の上のポニョ」の、とくに嵐が魚となって打ち寄せる描写などはまんまラヴクラフトである。
世界が、いまあなたが見ているような姿でありつづける保証はないし、以前からずっとこうだったという証拠もない。ラヴクラフトを始祖とした「コズミックホラー」はそう伝えようとしている。
これらは、船が難破してしまうとか、たまたま地下室のある家を借りてしまうとか、行くなといわれた漁村に舞い込んでしまうとかの些細なことをして、あっというまにこの世界の姿が一瞬にして凶悪で暴力的なものに変わってしまう瞬間をみてしまった、ごく普通の人たちの、狂気の記録である。
見たもののスケールがあまりに巨大なので、たいてい目撃者は発狂するか死んでしまう。だからほとんどの物語は発狂前か死ぬ前に残した狂気の手記という体裁になっている。
ラヴクラフトは、ぞっとする異界への古典的でしかしもっともすぐれた案内書だ。おやすみ前にどうぞ。




学生のころよくキャンプをしていた。はやっていたわけではないので、今でいう「マイブーム」みたいな感じだろうか。しかしキャンプが一般的なブームになり、自分も就職し仕事がいそがしくなると行かなくなる。つぎに子供がうまれて「第二次キャンプブーム」がやってくる。現に今やってきている。
「第二次キャンプブーム」は、半ば野宿みたいな学生のキャンプとはちがうので、それなりにお金もかける。かけるというと大げさだが、子供もいるので最低限の環境は必要になる。仕事の合間の限られた時間を使ってのキャンプだから行き当たりばったりに出かけるわけにもいかず、フリチン立ちションの男同士でもないからおのずときれいなキャンプ場を予約することになる。
そうやってかつては毛嫌いしていた高規格なキャンプ場に行くと、ものすごい数の家族がきている。「そうか、キャンプは今ブームなのだな」と今さら気がつく。
だから高規格キャンプ場に行くと似たようなテント、タープ、椅子、机、ミニバン、家族、子供が区画されたサイトにきちんとならんでいて、それはまるで孵化器にならんだ卵かひよこのような印象である。
そうなると違いを出すには道具しかない。スノーピークのテントを持つ家族はコールマンのそれを笑い、MSRの家族はスノーピークのそれを笑う。面と向かって笑いはしないが、ナチュラムあたりでは、ほのぼのとした家族愛の仮面を被ったブロガーが、やさしく、楽しそうに、お互い見栄の張り合いをしてる。けっきょく、マンションやアパートなどの集合住宅や区画整理された郊外住宅の狭い範囲におこるあのギスギスした近親増悪が、それを逃れるためのキャンプ場でも再発してるとしか思えない。きっと行き帰りのミニバンの中でも同じことなのだろう。日本で仕事をし、家を用意し、子供を育て、レジャーをするとは、とどのつまりこの手の「他人との関係性」をつづけることなのだろう。希薄でありながら粘着質、均一を尊びながら他をさげすむ。住宅地、高速道路、キャンプ場、公衆浴場、ショッピングセンター、アウトレットモール、最近では登山道。およそ「家族」同士がすれちがう場面ではほぼこの手の「きもちわるさ」が充満している。
こういうきもちわるさから逃れたいと思う。逃れるためにはこのきもちわるさの根本を定義しなくてはならない。なにが「きもちわるい」のだろうか。

まず、区画整理されたサイトにほぼおなじ内容がならんでいるのがきもちわるい。一人キャンプや学生のサークル、女子ばかりのチーム、子供をつれたボーイ・ガールスカウト、そんな多様性があってもいいようなものだが、まずもって絶対的に子連れなのだ。しかも幼稚園から小学校高学年までの子連れ。キャンプは日本の子育ての重要な通過儀礼だったのだろうか。通過儀礼だとして、この儀礼を「ファミキャン」と言うらしい。ファミリーキャンプの略だろうが、すごくきもちわるい。
つぎに道具がきもちわるい。先述したが、非常に小さな部分で差別化を行おうとするから、車も家族構成もいまさら変えられないし変えるつもりもないので、キャンプ道具でほんのちょっとだけぬけがけてみたいと考えるところがきもちわる。もっと大きなところでレジャーのパラダイムシフトをこころみればいいのではないか、と思うのだ。
そのつぎにみなが帰って書くブログがきもちわるい。サーチエンジンでキャンプ場名を検索してみると、読み切れない量のキャンプブログが出てくる。よかっただの悪かっただの、マナーがどうした、トイレの掃除がどうしたと、まるで今はやりの「学校裏サイト」そっくり。ブロガーの「勝ち組」に入ればブロガー同士のつながりが持てアフィリエイトの売り上げもあがるが、異分子は「うるさい」「ルール違反」「初心者」ということで排除される。似たものだけがつながっていく構図がいじめみたいできもちわるい。

そもそもアウトドアとはなんだったのかを探るべく、アリシア・ベイ=ローレル著「地球の上に生きる」を読み返してみた。
これは70年代のヒッピーブーム期にベストセラーになった、今でいうアウトドア・エコロジーの教則本である。バックパックのしかた、自然物をつかったシェルターの作り方、野外での洗濯のしかた、天然酵母パンの作り方、サリーの着かた、食物の植え方など、脱文明に対する総合的なガイドが、手書きの文字と脱力系のイラストでかかれている。著者自身も長い放浪のはてに西海岸の「ウィーラーズキャンプ」という非暴力主義のコミューンで生活しつつこの本を書いたそうだ。
そうとう久しぶりに読んだが、最近の「ファミキャン」ブームなんかよりもっときもちわるかった。
時代が違うといえばそれまでだし、ヒッピーとはそういうものだといえばもっとそれまでなのだが、まず根本的な解決に関してはいっさい触れていない。あまりの近視眼とオプティミズムにおそれおののくばかりである。ヒッピーは自然との共生というところまでたどり着いていながら、なぜ最終的な回答を前にして、せまい社会へ逃げ込んでしまったのだろうか。この本はそのせまい社会を色濃く映し出している。日々のハウツーが満載だとしても、実践する思想、根本問題への対処、普及の意味、それらがなくては昭文社とかの「今すぐはじめるファミリーキャンプ」みたいな現代のムックとかわりばえしないではないか。

ショーン・ペン監督「イン・トゥ・ザ・ワイルド」もおなじ末路をたどってしまっている気がする。そんな極端な若者もいました、という話ならおもしろく観賞できたのかもしれない。しかしここまで主人公に近い視線で物語をすすめられると、見る者は感情移入せざるをえないのだ。ところが感情移入するには、この主人公はとっぴすぎる。ましてヒッピーを知らない現代人には彼の目指したものがまったく理解できない。この映画の批評をブログで検索すると「自然との共生をめざした」とか「文明をすて一人の人間として生きた」といった趣旨の文章が多くみられる。今の日本では、彼の行動は結局そのようなステレオタイプの「エコ」でしか受け取られないのだ。その先の彼が持っていたかもしれない理想が、われわれには見えないのだ。なぜなら、主人公の彼にも、「地球の上に生きる」のアリシア・ベイ=ローレルにも、そのほかのどのヒッピーにも、そんなものはじめからなかったのだから。なのに、ショーン・ペンはそこを観客に見せようとした。彼にはそれがあったかもしれない。しかしデニス・ホッパーのようにヒッピーの「破滅」ではなく、感情移入という正攻法で描写しようとすればするほど、広がれば広がるほど破綻するという「破滅」の実をひめたヒッピー思想は、彼のカメラに写らなくなってしまったのではないだろうか。

けっきょく、「ファミキャン」のきもちわるさから逃れてヒッピー系書物と映画に頼ってみたが、こちらもなんだかきもちわるい。
アウトドアとは一体なんなんだ? 
現代のフェス系アウトドア人口がもうすこし大人になって、成熟したレジャーとしてのキャンプがうまれることを望みつつ、ボクは「ファミリーレイヴ」という新ジャンルを設立しようと思う。





イントゥ・ザ・ワイルド [DVD]/エミール・ハーシュ,マーシャ・ゲイ・ハーデン,ウィリアム・ハート


地球の上に生きる/アリシア・ベイ=ローレル



最近、出版社の「出版」活動に関して感動した覚えはない。昔なら岩波文庫の売れもしないあの品揃えに感動し、晶文社の目利きに感動し、福音館書店の頑固さに感動し、みすず書房のセンスに感動したのだが、それらはそれで今でも続いていることなのだが、どうも新しい感動が見受けられないのだ。
初版の部数は2千から3千でおさえて全国の書店に行き渡らなくても「様子見」でリスクを減らそうとするわりに、「1Q84」みたいなマンモスヒットは初版から何万と刷って、あっというまに文庫化する(「1Q84」は文庫になっていませんが)。
出版社も営利企業だからどうこういうわけじゃないが、再販制度に硬く守られた営業活動のわりにかえって保守化していくのがちょっと気がかりだ。マーケットインな商品と、文化事業の商品は、なんらかのカタチで区別した方がいいのじゃないだろうか。そういう経営バランスとコアコンピタンスの問題については、一橋あたりで経営陣が古くから議論している、と思いたいが。

と思っていると、今年6月からはじまった新潮社の「ピンチョン全小説」にはぶったまげた。正しくはその前年に新潮社のツイッターで発表があったときに、ツイッターという軽薄なメディアというのもあって、ぶったまげながらも、半分以上は信じられなかった。
信じられないまま、試しに発売日の6月30日に紀伊国屋に行って店員に聞いてみると「まだ本棚に置いてないんです」と言って「メイスン&ディクスン」上下巻を書庫から持ってくるではないか! 行きがかり上、上下巻で7560円払ってしまったが、それでも安いと感じた。
いったい誰がピンチョン全小説を買うのだろうか。大学図書館や地方自治の図書館を別にすれば、研究者と、そうとうな好事家が全国に3~4千人といったところだろう。
ボクの魂の師匠である石川淳が「ボクの読者は2千人」と言っていた。単行本を出しても初版の2千部しか売れず、重版されないことを言っているのだが、それと比べると小説のみだが全集というカタチをとっているこのシリーズは図書館受けがいいのかもしれない。

にしてもピンチョンである。全小説である。年々書店の「外国文学」売り場面積が小さくなって、ファンタジーノベルに浸食されているこの時代に、である。
新潮社、すてきかもしれない。巨大すぎてよくわからないが、もしかするとすごい編集者がたくさんいるのかもしれない。

第二回配本で先日「逆行」上下巻が出た。とうぜん日本初訳だ。ご祝儀のつもりで購入し、まだ5%も読んでいないが、それでもピンチョン節は炸裂していた。まず、主人公がぜんぜん出てこない。これは「V.」にも「重力の虹」にも言えることだが、主人公が出てくるのに時間がかかり、通常の長さの小説では名前をつけないレベルの登場人物が、小説の長さにつられて命名権を与えられている。バルザックとはちがうところで、長い。トルストイの「戦争と平和」は名前のついた登場人物だけで500人以上いるといわれているが、ボクの数えたところ、ピンチョンでは比較的短めの「V.」でも230人ほど。「重力の虹」は数えていないが、たぶん400人ぐらいは行くだろう。だから当然、話のはじまるまでも長くなってくるし、一番はじめに主人公や主要登場人物が出てくるという常識はぜんぜん通じない。
ま、それがピンチョンであり、ピンチョンの他をよせつけない孤高の作家である理由でもあるわけだ。こんなこと、ピンチョンしかできないだろう。


マンガ「アイアムアヒーロー」を2010年10月現在最新刊の4巻まで読んだ。「事件」がはじまるまでにまるまる1巻を費やしている。しょぼいマンガ家の暗く慎ましくもキモくもある日常に飽きて途中で離脱した読者も多かったろう。でも引っぱった、というか、もしかするとココが書きたかったのかもしれないとと思わせるほど長かった。これは珍しいことだ。読者にもがんばってもらう、というスタンスはよいことだと思う。引き替えに読者の数を減らしてしまったかもしれないが、やるならこれぐらいしたほうがいいし、そこが新しい。
パニックがおきてからは普通と言ってしまえば申し訳ないが、手段というか手法は古典的でこのところ多い「非日常パニック状況もの」のトレースよりちょっと上手、といったところ。この手の火付け役になった「バトルロワイヤル」とか、最近よくみる「自殺島」とかよりもリアル感があるのは、やはりはじめの第1巻を作者と読者が共有しているからだろう。あと、背景画のよさが、舞台が富士の樹海に移ってからすごく引き立っている。
4巻までの、というすごく重要な前提条件をつけた上で言うと、パニックという本編がはじまるまでの長い前置きが、今後うまく活用されればこの「新しさ」も生きてくるはずだと思う。にしても、1巻目で出てきた登場人物で生きている人、というか死んだ描写のない人って、恋敵のマンガ家と編集者ぐらいじゃないかなー。どうするんだろ。心配だなー。だから、このマンガにはピンチョン的な解決を希望するのであった。

アイアムアヒーロー 1 /花沢 健吾


逆光〈上〉 (トマス・ピンチョン全小説)/トマス ピンチョン


逆光〈下〉 (トマス・ピンチョン全小説)/トマス ピンチョン


重力の虹〈1〉 (文学の冒険シリーズ)/トマス ピンチョン


V. 1 新装版/トマス・ピンチョン


トマス・ピンチョン全小説 メイスン&ディクスン(上) (Thomas Pynchon Comp.../トマス・ピンチョン


トマス・ピンチョン全小説 メイスン&ディクスン(下) (Thomas Pynchon Comp.../トマス・ピンチョン




日本でもおなじみモーリス・センダック作の絵本「かいじゅうたちのいるところ」を、スパイク・ジョーンズ監督が映画化した作品「かいじゅうたちのいるところ」をみた。
日本でもそうとう有名な絵本だが、アメリカでは知らない人はいない、というか読まずに大人になった人間はいないぐらいの作品なのだそうだ。
オバマ大統領が就任直後の復活祭のイベントで読み聞かせをしたことでさらに有名になった。
が、映画化構想自体は10年ちかく前からあったそうだ。
日本でいうと「ぐりとぐら」とかだろうか。いや、「モチモチの木」あたりが近いかもしれない。「ぐりとぐら」も「モチモチの木」も「かいじゅうたちのいるところ」も、永遠の名作にちがいない。
もしボクが「モチモチの木」を映像化する任に立つプロデューサーならば、まちがいなく、なんの迷いもなく今村昌平に監督をお願いする。「モチモチの木」の悲しみや自然に対する畏怖はそのまま「楢山節考」につらなる。遺作となった「11'09''01 / セプテンバー11」の凝縮された自然描写と田口トモロヲが演ずるヘビ男の恐怖は、モチモチの木の枝の恐怖にそのまま転化できる。われながら作品テーマと監督のマッチングがこんなによい組合せは他に考えられないぐらいだ。
「ぐりとぐら」ならCGしか考えられないのでジョン・ラセターだろう。それ以外だとどうしても失敗する気がする。
と、考えていて「かいじゅうたちのいるところ」なら誰にどうとってもらったらいいのか、あらためて考えずにはおれなくなった。
・・・たしかに、スパイク・ジョーンズはいいアイデアかもしれない。ビョークのPVであれほどバケモノチックな美を演出できるなら、センダックのあの絵にも挑戦し、きっと成功を収めてくれるかもしれない。
ところがなにがどうなるかわからないのが映画であり表現行為なのだ。
と、全体の感想を書く前に、非常に少ないのでまずいいところを書いておこう。

1.あまり特撮の技術は知らないのだが、かいじゅうたちの表情をワイヤーロボットとCGで操作している。この表情の微妙さをロボットにさせることができるのなら、もう俳優はいらないのではないだろうか。この手の技術は他のSFなどでも見たことがあるが、あのかいじゅうの表情はすばらしく、他の映画の1歩も2歩も先を行っていると思った。脱帽だ。

2.NHK坂本龍馬のドラマの画面の色に関しては、かなり悪口をいわれているようだが、NHKの潤沢な予算と圧倒的な視聴率で実験的なこころみをするとは、そうとうな度胸とプレゼンテーション力があったのだろう。しかし失敗してはいけない。ドラマに集中できないほどの結果なら、実験はしなかったほうがよかったのかもしれない。むつかしいところだが。
しかし「かいじゅうたちのいるところ」は成功している。あの色がなければ全体をまとめるものがなくなっていたかもしれない。

以上である。あとはとくにいいところがない。冗長にすぎた。スパイク・ジョーンズが監督するなら、いっそ60分で切り上げて二本立てにしたほうが価値が出た気がする。で、同時上映は今村昌平の「モチモチの木」にする。今村昌平は死んでいるが。

かいじゅうたちのいるところ


かいじゅうたちのいるところ


楢山節考


セプテンバー11/オムニバス





オヤジバンドが活況だそうだ。学生のころにやっていたロックミュージックを、管理職についてできたヒマを使って昔の仲間とまた演奏し、飲み屋でライブしたりするそうだ。そのうちオヤジDJも出てくるだろう。
オヤジが野球をやったり釣りをしたりするのを、わざわざ「オヤジ野球」とか「オヤジフィッシング」とは言わない。オヤジがやっても当たり前だからだ。オヤジバンド、ないしはオヤジロックがわざわざ「オヤジ」と頭につけるほど異質に感じるのは、バンド、ひいてはロックがもともと若者のものだったからだろう。若者の文化をオヤジがやるのだから、「ブルーアイドソウル」とか「こどもビール」のような呼び方をしないと別個で異質なものをわけ隔てることができなくなってしまう。「ロック」と「オヤジロック」は「ビール」と「こどもビール」ぐらい違うわけだ。
ロックミュージックとはもともと若者の文化だと言ったが、多少語弊がある。ロックミュージックとはもともとカウンターカルチャーである、ぐらいが正しい言い方だろう。メインカルチャーとしての教養、伝統、規則、習慣、階級、アカデミズムなどに対してのカウンター作用をもった文化活動だったのだから、当然それらの枠組みの外側に立っている学生や若者といったモラトリアム人間にしかそれは実践できないはずで、逆にそれらの枠組みを守る立場の管理職や組織人がロックをするということは、そこに異質なものを感じてしまうのはしかたのないことかもしれない。
ロックがすばらしいのは、文化というものは伝統や格式、歴史やアカデミズムが生み出すものだという常識を一挙に塗り替えたということにも関係する。この功績は100年後にもたたえられるべきだ。だからロックはカウンターカルチャーの王様だったし、実際のところ「社会を変える」ことが可能だった。そしてなによりメインカルチャーに対する反抗という明確な指標があった。
ロックミュージックほど強力なものは少ないが、どんな文化ジャンルにもそのような既存の枠組みに対する反抗から発生するカウンターカルチャーが存在する。かつてマンガはそうだった。俳句や小説の届かないところにまで、人間の業をわからせ、ヒューマニズムを訴え、社会を告発する、といった仕事をこなした。
しかしロックミュージックもマンガも一般に広まるにつれ、人間が歳をとって保守化するようにカウンターカルチャーからメインカルチャーに徐々に移行していくのだ。どこかのタイミングで、ゆっくりと、カウンターカルチャーから「反抗」という主体をうしなっていき、一部の反抗的人間の武器だったものが一般化、ポピュラー化する。
しかしロックミュージックはロックミュージックであり、マンガはマンガだ。クラシックや純文学小説にとってかわるわけではない。依然、若者が支持し、歴史を持たず、旧来の文化と価値観で一線を画す。
この微妙な主体の変化の中間点に、とてつもないビジネスがうまれる。もともとカウンターカルチャーであった文化が一般化、保守化する課程で、文化としての爆発的な膨張とそれらを処理する消費者が均等に成長するひとつの市場ができあがる。それが大量消費文化であり、文化が文化でなくなり商品や製品に変容していく、カウンターカルチャーの残滓の部分だ。
もともとカウンターカルチャーは、祖父や祖母のピューリタニズムががまんできない資本主義消費社会にうまれた子どもたちの発明だった。だからまず大量消費を前提としたメディアを媒介として社会伝播する。レコード、CD、MP3やM4Pなどの圧縮ファイル、雑誌、書籍など、可能な限り再生産しやすい形態を追い求めてきた。このメディアの軽快さとカウンターカルチャーの出自をあわせもつところに、1千万枚売るロックアルバムや「ワンピース」の1億冊というとてつもない市場が発生するのだ。
また、メディアの生産と再生産の作業が簡単になればなるほど、作り手側も多様化し、その文化ジャンルの裾野は広大になってくる。最近の、いや少し前の言葉でいうところの「ロングテール現象」をおこし始める。書店に行けば莫大な数の単行本マンガが売られており、アマゾンでは探しきれないほどの同人誌が生まれては消えまた生まれている。この1億冊の「ワンピース」を頂点とするところの巨大な山脈の周縁部分に住むものを、われわれは「オタク」と呼び、この死にかかった文化の辺境を「オタク文化」と呼んでいるのだ。

いまやその辺境ですら、莫大な利益を資本家にもたらすそうだ。
経済紙を読んでいるといかにその辺境が金になるか、日本人は考えをあらためたほうがいい、というような話が毎日のように掲載されている。
企業や資本家、映画でいうならスタジオの人間もたいへんだろう。みたことも聞いたこともない若造を並べて、そのどれに自分の貴重な資本を投資するべきか決定しなければならないのだから。こうなるともはやギャンブルに近い気がする。ロックミュージックの興行師がヤクザのような人間にしかできない職業だというのもわかる気がする。もともと子供が大人への反抗をもとに発明した文化なのだから、理論的に当たり外れを推測できるはずがない。
そうまでしてこんな辺境部のオタクに人々が投資するのは、ここがハイリスクハイリターンではあっても、莫大な埋蔵量を誇る金脈につながるフロンティアだからだ。

ニール・ブロムカンプ監督の「第9地区」を見て、この人知れぬ辺境の金脈をさがす投資家の心理が理解できた。
もともと全米公開の数ヶ月前まで、この映画の知名度はゼロに等しかったらしい。しかし直前にオタクの祭典「コミコン(San Diego Comic-con International)」でプレミア上映されると、瞬く間にインターネットに噂がながれ、結果、「エンターテイメントウィークリー」誌が巻頭特集を組むまでになった。(CUT 2010 October)
内容もオタク臭ぷんぷんだった。あの異星人の「エビ」はクルド人か、はたまたアパルトヘイトのメタファーか、と考えつつ観賞したが、後半からそんな「特殊状況」は物語の遠くかなたへ消えていってしまったし、DVD特典の「監督による解説」では監督自身が「周辺国の移民のイメージもあったよ」とあっさり告白するしまつで、そういう社会的、歴史的権威を底辺に横たえようとしてしまうあたりがエヴァンゲリオンにおける聖書の権威とおなじでオタク臭ぷんぷんなのだ。
しかし「オタク万歳!」である。このこだわり、この異質感、このよくできた周縁文化。見る者をまどわす、くらくらさせる、そこまでいかなくても見る者の予定調和を崩す映像は、ある意味「アンダルシアの犬」の系譜につらなるシュールさである。当然こうだと思い込む映画常識を、オタクのこだわりという武器で価値転覆させるこの試み、好きなのを作ったらこうなりましたという無意識だとしても、これはロックミュージックがかつて持っていた反抗を主軸としたカウンターカルチャーのりっぱな末裔の証左である。
まことに残念ながら投資はしていないが、われわれは金脈を掘り当てたのだ。オタク文化のなかにまだ眠るカウンターカルチャーの金脈を掘り当てたのだ。

第9地区 Blu-ray&DVDセット(初回限定生産)/シャールト・コプリー,デヴィッド・ジェームズ,ジェイソン・コープ