$レゴと文学と映画・「瞳の奥の秘密」

シネリーブルで観賞。
あそこは入場までロビーで待たされる。そのロビーをふと見ると、みんな文庫なり単行本なりを取り出して読んでいる。携帯の普及以来、電車ではもう読書している人をさっぱり見かけなくなった。しかしここではほとんどの人が本を読んでいる。こういう景色、ひさしぶりに見たような気がする。モバゲータウンもソーシャルアプリも偽善的な絵文字もない空間。どことも「つながって」いない空間。ずっとここに居たいと思いながら、ボクはiPhoneのi文庫で読書していた。自分でもよくわからない立場にいるような気がした。

元刑事裁判官の主人公ベンハミンは25年前の未解決殺人事件を「庭いじりよりましだから」という理由で小説にしようとし、かつての上司でいまは判事補になっている美しいイレーネに会いにいく。
25年前の事件は、新婚の銀行員モラレスの若い妻リリアナが暴行を受け殺された殺人事件だった。刑事裁判官として現場に駆けつけたベンハミンは、殺されたリリアナの遺体に強烈なショックを受ける。
ほどなく現場近くで工事をしていた作業員が容疑者として逮捕される。しかしそれは拷問による自白を強要したえん罪であった。
捜査をつつけるベンハミンは、モラレスの古いアルバムの中に、異常な目つきでリリアナをみつめる男の写真を発見する。
アル中の同僚パブロとともに、イレーネの古い知人ゴメスの実家に侵入し、母親宛の手紙の束を持ち帰る。
しかしその手紙には住所も具体的な手がかりもなく、そのうえ家宅侵入がばれて捜査は打ち切りになってしまう。
1年後、偶然駅で銀行員モラレスと会ったベンハミンは、彼があのあとずっと駅でゴメスを探し続けていることをしり、捜査再会をイレーネに掛け合う。
しかしゴメスの足取りがつかめず、迷宮入りかと思われていたとき、パブロがあの手紙にかかれた暗号のような文章がすべてサッカーに由来することを突き止め、とうとうサッカースタジアムでゴメスを逮捕する。
しかしその後、服役中にはずのゴメスが大統領のSPとしてテレビに映っているとことをベンハミンはモラレスからの電話で知る。
軍事政権であった当時のアルゼンチンでは、このような超法規的処置がしょっちゅう行われていたそうだ。
ベンハミンとイレーネは、今やゴメスに命を狙われる立場にたってしまう・・・。


骨太でかつ南米流のロマンチックな映画である。ロマンチックするぎると感じるところもあったかもしれない。
しかしベンハミンとイレーネのプラトニックな愛の描き方や、ミステリーとしてのストーリーテリング、そのどちらもおろそかにせず両立できているのは、簡単そうでいて難しいことだと思う。
イレーネ役のソレダ・ビジャメル、知らなかったがすごい役者だ。再捜査願いを出すベンハミンの言葉を、てっきり愛の告白かなにかと勘違いしたイレーネが、そうではないと知って失望する場面のあの表情はさすが職業俳優といいたくなる。
ハリウッドで活躍しているらしいファン・ホセ・カンパネラ監督の力量もそうとうなものだと思った。
上司の愚痴をいいながら殺害現場に入っていくベンハミンが、リリアナの死体を見て激しいショックを受けるシーンは、決まりすぎじゃないかとおもうほど彼の思惑通りに観客もショックを受けたはずだ。
サッカースタジアムの俯瞰から、カメラが一挙に観客席に立つベンハミンまで滑走してくるように移動するシーンには腰が抜けそうだった。この手の技術も金もいる効果は、てっきりアメリカ映画でしか見れないものとばかり思っていた。昨日今日はじめた映画人ができるわざではない。こんな本当のプロにしかできない「技」を見ると、さっき払った1800円もおしくはないと思えるのであった。






「魔王」ミシェル・トゥルニエ

何度か偶然が重なると、それになにか意味があるような気になってくる。例えば、朝おきるとヨメ、あるいは母、あるいは夫や父が「これお隣にもらったんだけどドイツの手作りなんだって」といってドイツ製のジャムを持ってきてひとしきりドイツの食品はうまいだのまずいだの話す。会社に行くととなりの同僚が明後日からドイツ出張だといってあわてている。退社後、後輩がいいところだといって連れて行ったくれたのはドイツ風ビアケラーであった。
この男ないし女が車の買い換えを予定していたとする。選択肢はふたつあって、ひとつはVWだかBMWだかのドイツ車、もうひとつはプジョーだかシトロエンだかのフランス車。非常にはげしく葛藤しているその悩みが大きければ大きいほどこの日のこの偶然は彼ないし彼女に大きく影響する。
「そうか、やはりドイツはすぐれた製品を作り出すのだな」とか「やっぱプジョーにしよう」とかなんとか思いながら、普段なら見逃すささいな偶然に突如意味が、直接自分に影響をなげかける意味となる。
あとから考えれば、はじめのころのジャムなどの偶然は、だからつまり「兆し」となる。
車の購入でドイツ車かフランス車かぐらいの葛藤だとしたら重複する偶然もたいした影響はないかもしれない。しかしこれが人生の岐路であるとか報われぬ恋であるとかいう場合だと、その偶然が与える影響も複雑でより強力なものとなる。「兆し」が持つ意味も当然、形而上学的になっていく。

「魔王」の主人公は「偶然」はじまった「奇妙な戦争」によって幼児わいせつのえん罪から釈放される。戦場では鳩を飼い、馬で鹿狩りをし、ドイツ的な観念に惹きつけられ、軍事学校でスカウトマンをし、敗戦をむかえる。
読書を終え、主人公のたどった戦争の体験を思い返せば、この「魔王」という本の中には偶然につらなる「兆し」が山のように含まれていることに気づく。こども、担ぎ、鳩、鹿、馬、狩り、男根、ドイツ、ヒットラーユーゲント、近眼、学校と、それこそ多数の兆しが豊富に用意されており、読む人はその兆しを読み取って哲学的な解釈をしてみたり読み損ねてあとから気づいたりして楽しむことができる。
そのためには第一部でややガマンして主人公ティフォージュの手記を読まないといけないような仕掛けになっている。そこに山のような兆しが盛り込まれており、それはまるでロールプレイングゲームでダンジョンへ向かう港町で不思議な武器や食料をたくさん売っているようなものだ。あとからあの魔女が売っていた紫色のリンゴは、この傷を回復させるまじないだったのだと、記憶力があれば気がつく。
ロールプレイングゲームが人生の縮図とはいわないが、伏線や兆しという意味ではデフォルメした関連性が時間軸の中にわかりやすく浮かび上がるのは、人生の中で繰り返される「偶然」とその「兆し」をうまくあらわしている。
「魔王」はもう少し意地悪というか、哲学的である。なぜなら人生や人間の意識がRPGよりずっと複雑ですべてが絡み合っているからだ。記憶力の方もRPGより多少もとめられる。RPGが遊びであるように、「魔王」も基本的に哲学的で読者の意識と呼応する読書体験という遊びである。ただしその体験を得ようとすると、西洋哲学でできた巨大な伽藍を徘徊することになる。迷うことも多いし、読み損ねてあとから「あの部屋みてないの?」と、ルーブル美術館見学から帰った人がよく言われるような轍を踏むこともある。
しかしこの物語のあらすじは、ちょっとヘンなフランスの中年男が、少年愛で逮捕されたり、鹿狩りをしたり、森の廃墟に一人暮らしをしてみたり、軍事学校の住み込みとしてお世話になったりして、戦時中のドイツ的なものの深部にはまり込んでいきそのまま敗戦を迎えるというちょっとしたロードノベルだ。だから、なにも考えずに読んでもそれなりに楽しめるだろう。
と、軽く書いてみたが、本当はまれにみる高尚な小説だ。もうあとちょっと多く著作を出せればミッシェル・トゥルニエのノーベル賞受賞も近いかもしれないし、実際に受賞したとしても驚きはしない。それほどの作家である。

魔王〈上〉
ミシェル トゥルニエ
終着駅―トルストイ最後の旅
ジェイ パリーニ


なんばの敷島シネマポップで観賞。なんか偶然わりびきの日だったみたいで、1000円。ラッキー。
まだ明るい館内でお客さんを眺め回すと、ほとんどぜんぶおじいさん。そうか、そういうことか。ボクも歳とって仕事がなくなったら、こうなるのだろうな。年金なんてもっと少なくなってるから、大切に映画を鑑賞するんだろうな。割引券とか招待状とか集めたりして。
ということは学生のときと一緒じゃないか。いかにして金をつかわず多くの名作にめぐりあえるか、毎日がチャレンジだった。あのころは大毎劇場やヴェリテ、アクトシネマテーク、国名小劇、テアトルなんかが行き着けだったな。第七芸術劇場もシネリーブルもまだなかったころだ。
ま、そういうのはどうでもいいのだが、上映する映画によって観客の質や層、階級も民度も大違いする。そこを見るのもたいへんおもしろいことだ。


トルストイの妻ソフィアがトルストイの思想やその行動にたいして理解がなかったことは知っていたが、「世界三大悪妻」という言い方はしらなかった。ちなみにのこり二人はソクラテスの妻クサンチッペとモーツアルトの妻コンスタンツェだそうだ。
彼女らの妻としての行動や言動が、才能ある亭主にどのような影響を与えたかは分析のしようがない。その影響が悪影響だったのか好影響だったのかさえ、推測してみるしかない。「もしナポレオンがモスクワに入城していたら」とか「ヒットラーが絵描きになっていたら」とかの「もしも遊び」として表現するぐらいしか過去の歴史を捉えることができない。
いやいや、歴史どころか今の自分だってこの妻(夫)と結婚してなかったらどうなっていたか、わかる人なんていないはずだ。
藤子・F・不二雄のマンガで「分岐点」という短編がある。凄まじい夫婦げんかに嫌気をさした主人公のサラリーマンは、霧に覆われた公園に住む怪しいホームレスの手引きで人生をやり直す。かつて些細な理由でわかれた美しい彼女との、もうひとつの可能性に人生をまるごと鞍替えしてしまう。しかしもうひとつの現実は、もともとの現実よりもさらに「現実的」なシニックで覆われている。よくもないし、なにもかわらない。
もうひとつの現実にむかって霧のなかを歩いていく主人公を、もとの世界に住む子供が泣きながら呼び止める。「パパ、パパ、どうしてぼくをおいていくの?」
歴史の「もしも」遊びは酒の席の遊びですむが、自分自身のもうひとつの可能性など考えないほうがいい。藤子・F・不二雄先生のいう通りだ。この物語にハッピーな結末がくるなんて、どんな読者も初めから考えちゃいないだろう。「あの男の子はどうなったのだろう」と、暗い記憶が一生後ろ髪を引くことになる。
だからあえて極論すると、その才能ある人たちの妻が悪であったのか善であったのかなんて判定は、つまるところ歴史遊びの「もしも」程度の無責任な価値判断なのだ。
そもそも無限のはずの可能性を、「悪妻」「良妻」と二元的な判断に収縮させているところが言葉の遊びでしかない。

といった前提を自分では持ちつつ、一方でこの映画の原作が「ソフィアとトルストイとの愛」を書いていると知りつつ鑑賞してみる。
案の定、これを見た人は思うだろう、「ソフィアってほんとに悪妻だったのだろうか」って。

しかし、しかし、この自分の前提とこの映画のいわんとするソフィア像を前にしても、考えてしまうのだ。ソフィアがああでなければ、世界と言いすぎるならロシアは、もう少し早く「近代」を加速させていたはずだ。インターネットの特殊な「オープン」文化でようやく著作権の解放という考え方が一般的になったが、もしトルストイが著作権放棄していたら、この流れは若干早くなっていただろう。
また、映画にもちらっとかかれていたが、ソフィアは夫の臨終が近いことを知って専用列車にロシア正教の司祭を同乗させてきていた。高熱のトルストイがもし臨終にロシア正教の司祭を受け入れてしまっていたら、彼の宗教を超えた「愛の」哲学はどうなっていたのだろう。ジョンレノンは即死だったが、もし今際の時にオノヨーコがカトリック司祭を立ち会わせていたら、ジョンレノンの思想はもっと凡庸で非普遍的なものになってしまっていただろうし、オノヨーコはもっと嫌われていただろう。
けっきょく、トルストイの交わした契約にもかかわらず著作権は3年後にソフィアのもとに帰る。

ソフィアが悪妻か良妻かの判断は馬鹿げている、ということは間違いない。
周囲のトルストイ主義者との対立で加速されたところもあったとは思うが、しかし最後までソフィアはトルストイの思想が理解できなかった。
宗教を超える、著作権という法規を超える、そういう根本の部分で彼の「ロシアという大地への愛」を、もっとも身近な人間にわかってもらえなかったトルストイをみると、この映画がソフィアへのシンパシーを含み、悪妻という呼称が罪なものだと理解していても、ひどく不憫に感じてしまうのであった。

終着駅―トルストイ最後の旅
ジェイ パリーニ


気楽に殺ろうよ
藤子・F・不二雄



自動車は非常に高額である。新車だろうと中古車だろうと、普通は車のように絶対的に高額な買い物をする場合はそうとうの緊張感をもって適切で間違いのない買い物をしようとする。
そんな究極的な選択を迫られると、人は自分の持ついろんな側面から無意識のうちに優先事項を決定して行く。哲学者のサルトルは、葛藤がはじまった時点でその人の回答はあらかじめ決められている、というようなことを言っていた。さんざん悩んでも、凡庸な人間は凡庸な車を選ぶ。
数年前に生まれて初めて新車を買ってしまった。その時気がついたのだが、どうやらボクの車に対する優先事項はその外観にあるようだ。その車を形作る「サーフェース」としての直線なり曲面なりに評価基準があった。要は、かっこよければなんでもいいのだ。
ただし、ここが重要なのだが、ただしその車がもつ内部の機能が外側にあらわれた表層においてのみ、外観を重要事項としてみることができる、という条件がつく。建築でいうと、ルイス・サリバンのいう「Form Follows Function」のことになるのだろう。
なにげなく現代を生きている人は、ほとんどすべて実のところモダニズム信奉者だ。だからサリバンのアフォリズムは、おおかたの人が納得する内容だろうし、装飾のための装飾を好む現代人は少ないと思う。機能のない出っぱりや見せかけだけの空力を尊ぶ人はすくないだろうし、三菱のGTOみたいに穴の空いていないエアインテークの造形にたいして、笑う人はいても賞賛する人はほとんどいないだろう。

「赤い影」をDVDで鑑賞。「わが心のボルチモア」と同じくツタヤの「発掘良品」シリーズの中の1本。
赤色のくりかえされるイメージが美しく、スパイスにもなっている。
また、ベネチアのかきかたがいい! きれいすぎず、汚すぎず、不気味に、かつ儚く絶妙のポイントで描写していく。こんなかんじで大阪を撮ったらどうなるのだろう。それでもやっぱりブラックレインみたいになってしまうのだろうか。
恐怖や回想の描写も当時としては適度に実験的で、いま見ても過剰にかんじることはない。
なによりそれらを総合的にまとめあげている耽美的な溢れ出すイメージがどんどん先行して、むしろ物語がそのあとを追うような状態である。

だからそこがこの映画の「モダニズム」でないところなのだ。
イメージ、それを仮にここで「表層」と呼ぶとすると、サリバンの言う「ファンクション」があとからその表層に見合うだけの物語を連れてこようとする。
この監督はきっと天才なのだ。溢れるイメージや色彩、こうすればこの画が撮れるというアイデアが溢れんばかりに湧き出していたのではないだろうか。教会の壁画修理の足場から落下するシーンもでさえ、制作者の非凡なこだわりが感じられる。
それほどイメージ、表層に天才的な実力をみせたからこそ、その天才に見合う機能の部分が弱くみえてしまうのだ。
モダニズムになれた現在の観客は、「どうして?」「なにが?」「あれはだれ?」と徹底的な説明をもとめる。美しい表層がそこにあるなら、その内部にその表層を美しく決定した根本原因がきっちりと存在していなければ気が済まない。その原因を表現する説明責任が、必ずラストで果たされると思い込んでいる。
だからこの映画を見終わって消化不良の観客もおおかったろう。狐につままれた感覚になった人もいたのではないだろうか。
モダニズムという大前提の上で、映画も「表層は機能に従う」ことが絶対であるなら、この映画はカスである。あんなオチは子供騙しのB級ホラーだ。デコメの「デコ」でしかない。
しかし、もし仮にモダニズムの習慣をいったん解除して考えられるなら、赤い影と、ベネチアの暗い街並みと、夫婦の長すぎるセックスシーンと、修復される教会のモザイクタイルと、盲目の霊媒師の見事な目の色がおりなす不気味で美しいイメージの抑揚を、ぞんぶんに楽しむことができるだろう。
ちなみにボクは、モダニズム信奉の呪縛を完全に解くことはできなかったので、最後まで「美しいが、もしかするとカスかも」と思いながら見てしまった。もっと精進したいと思う。










ツタヤの新企画「発掘良品」シリーズの中の1本。ツタヤはこういう企画をもっとすべきだ。リコメンドや口コミなどの横の広がりが伝播しにくい店舗型サービスでは、この手の企画は顧客の信頼を高め、リピートを産み、利益率をおしあげる・・・。と、軽薄なマーケティングコンサルみたいなこと言いましたが、この企画はほんとによい。
そもそもツタヤには「文化を扱って商売をしている」という気概がまったく感じられない。大きなパイをどこよりも大きな地引き網で引き上げようと、つねにスケールで勝負している。
これだけのビジネススケールになった以上、それは基本的にしかたのないことだ。いまさらツタヤに街の古本屋みたいに店主の趣向で品揃えを変えろとか、ビレッジバンガードみたいにターゲットを絞った提案をしろとかいうのではない。
ただ扱う商品が「映画」や「音楽」という文化なのに対して、その「文化産業」に属しているという雰囲気がまったく感じられない。大型といえども紀伊国屋やジュンク堂、丸善などの書店には感じられる「文化を扱う誇り」のようなものがまったくない。社名をみるに、あえて消し去った結果の成功だとも、たしかに思う。
しかし、その業界内でナンバーワンの立場になったものはつぎに何をしなければいけないのか。それは文化産業に限らず言えることだ。つまり、自身が属する文化圏の裾野を広げることだ。映画なら映画文化を広げ、音楽なら音楽ファンを増やし、車なら自動車文化を広め、ワインなら特定の銘柄にこだわらずにワインそのものの魅力をアピールすることだ。
最近元気がない、というかかつてほど人口に膾炙されないが、例えばスターバックスコーヒーはこれでもかというほど「コーヒー文化圏」というものを押し広げようとし、消費者はみなその「文化」の部分に150円おおく支払って満足していた。「To Go」はオシャレだったし、スリーブをつけたスタバの紙コップをもって出社するのはどこか知的なかんじがした。コーヒーを扱う以上、そのコーヒーがかかえる文化ともども広がっていかなければ、最終的なパイのサイズは大きくなりはしない。
ツタヤに欠落しているのはそこだ。映画を手軽に楽しめることで、圧倒的な数のコンビニエンス映画ファンを作り上げた功績はすばらしいが、こうして王者になったいますべきなのは、その文化産業の裾野を、店舗数以外の部分でも広げるべきだ。つまり、ツタヤが常にターゲットとしている「マス」の消費者に対して、いつも店頭を飾っている「マス」以外の商品に触れる機会をあたえることだ。それも限りある売り場面積を考慮し、決してロングテールに走らず、だ。
そういった考えの上で、つねにイライラしながらツタヤをみていた。だからこの「発掘良品」をみたとき、この会社にしかできない文化伝播のためのすばらしい企画だ! と喜んで5本(で1000円)借りたのだ。
しかし残念ながら、これぐらいで「文化を扱う誇り」は根付かないだろう。あくまでもこの会社は「カルチャー」を「コンビニエンス」に提供する「クラブ」なのだ。カルチャーそのものではない。
が、スターバックスコーヒーが2010年4月現在で880店。ツタヤが同じく4月時点で1383店。規模の点で遅すぎたということはない。やってやれないことはないだろう。とりいそぎ社名変更後、まずはあのクローン人間風アルバイトたちを手術台にしばりつけ、瞬きできないよう広げた瞳に目薬をさしつつ、黒澤明全DVDを視聴させて文化への矜恃とサービスマンとしての人間性を持つよう矯正するのだ。それがいい。
そうしてツタヤは、ツタヤにしか持てない矜恃を掲げ、文化の伝道者となればいい。

しかしこの企画の「100人が選ぶ」の100人ってだれなのだろう?

で、その「発掘良品」企画のおかげで近所の小さなツタヤでも借りることができた「わが心のボルチモア」を本日観賞。ポーランドからの移民家族の、3世代にわたる悲喜こもごものものがたり。
3世代だから日本で言うとサザエさんに近いのだろうか。サザエさんは移民ではないが、時代的に戦後であり、テレビの勃興であり、ほのぼのを良しとし、ノスタルジーを許可し、家族のとらえ方が今とは違うところが同じである。
ボクはアメリカに住んだことも移民したこともないので、ほんとうのところこの映画を一番おもしろくみた人がどんな人たちだったのかわからない。移民のおじさんがみたらなつかしく思い涙するのだろうか。だとしたらサザエさんよりも「三丁目の夕日」とかだろうか。こちら、圧倒的に「絵」の美しさがちがう。感謝祭のアバロンの美しさは、むしろこの始まり部分と最後の養老施設のサムを見舞うケイの場面だけをみてその他の中間部分でサムになにがあったか想像するほうが記憶の中ではよい映画になる、と思ってしまうほど美しい。
実際「その他の中間部分」では、そうやって想像したほどドラマチックなことも、ショッキングなこともおこらない。バーの経営と失敗、子供の結婚、孫、息子の商売が上手くいったり失敗したり、死んだと思っていた甥との再会、火事になりそうだったこと、実際火事になったこと、妻の病気、死、10年前が昨日のように感じること。歳をとればみな誰にでもある思い出だ。
監督のバリー・レヴィンソンはそんな誰にでもある思い出をひとつずつ丁寧に描いていく。丁寧に描くから時間が足りない。きっとどのエピソードもカットするのはつらかったろう。だから最終的に長くなってしまった。長くなった分だけ、この映画は「長く感じる」ようになったのだ。
なにか結論があってそこに行くためのプロセスなら観客のついてこれる範囲でカットすることもできる。しかし1家族3世代の物語を淡々と実際にあったように描くとなれば、カットの基準は曖昧で、まして脚本も自分が書いたものなら、いっそうそれは自分の思い出と照らし合わして検証しなければならなくなる。自分が体験した誰にでもあるような思い出を、ウソをつくことなく淡々とえがきながら、誰もがおもしろいと思うように、そのうちのどれかを削る。というとんでもない仕事をしなければならなかったのだ。
その複雑な仕事にバリー・レヴィンソン監督が出した答えは、ウソをついてエンターテイメント性をあげることでも、客観的な基準でくだらないと思われるエピソードをバサバサとカットしていくことでもなかった。映画全体がつねに優しいイメージで覆われているように、きっと自分の思い出からうまれたエピソードをすべて「優しく」あつかったのだろう。それは「優しい映画」という評価で一部は成功を収め、また一部では「長く感じる」失敗の原因にもなった。
ただもう一度言うが、アバロンの描写をはじめとして、単純な街の景色をここまで美しくえがけるのは優しいだけのイメージでは無理だ。またこの画面の美しさがそれ以外の欠点をおおかた補っている。ランディ・ニューマンの音楽もすばらしい。もしあなたが移民の生まれでお爺ちゃんが最近死んだのなら、生涯のナンバーワンの映画になるだろう。







シドニー・ルメットの「デス トラップ」をDVDで観賞。しかしDVDを見て「映画を観た」というのは語彙的にも映画ファン倫理的にも間違っている気がする。ただしくは「かつて映画だったものをDVDというメディアで再構築してみた」ぐらいじゃないだろうか。
かつて「音楽を聴くときは部屋を暗くして黙想しながらでないと正しく視聴できない」と言う極端なひとがいた。その感覚で言うとDVDは「映画でない」のだろう。
当時はボクも若くてその言葉にふむふむとか思っていたが、今おもえば例えばジャック・ジョンソンとかスカタライツとかもそうした方がいいのだろうか。クラシックならわからないでもないが、パンクもそうすべきなのだろうか。レゲエも暗くした方がいいのか。ジャンルによるのだろうか。うどんを食べるのに作法も探求もないが、そばには多くの乗り越えるべき障害があり、みな求道者のような顔でざるやせいろをすすっている。そんな違いだろうか。そのあたりもよく聞いておけばよかった。
とにかくDVDで「映画を観た」というのは間違っているが、うどんみたいな映画ならややかまわないのだろう。うどんはおいしければよいのだ。
先日、子供をつれて「仮面ライダーW FOREVER AtoZ/運命のガイアメモリ 同時上映 天装戦隊ゴセイジャー エピック on the Movie」という長い名前の映画をトーホーシネプレックスでみた。わざわざ出かけて1800円払ってスクリーンでみたわけだが、DVDで十分だった。10メートルスクリーンとドルビーサラウンドの意味がほとんどなかった。
メディアもいろいろ、映画もいろいろ、ってわけか。

で、デス トラップ。
4度連続して不人気劇を書いてしまった劇作家ブリュールは、テレビでの酷評に耐えきれず泥酔し帰宅する。オールドイングランド郊外のすさまじくいい家は奥さんの金からでたものだ。
窮地に立つブリュールは、かつての教え子クリフォードが送ってきたスリラー劇作品のできのよさに驚き、クリフォードを殺してこの作品を自分のものにしようと計画する。
必死に止めようとする妻をなだめたりすかしたりして、クリフォードが知人もなく、作品を誰にも見せておらず、コピーさえとっていないことを聞き出し、殺人を実行しようと言葉巧みに小道具の手錠をはめてしまう・・・。

シドニー・ルメットは「十二人の怒れる男」や「評決」、「セルピコ」のように基本的にリアリズム作家と言われることが多い。
しかしこの「デス トラップ」はその真逆だった。登場人物の少なさ、台詞の過剰な巧妙さ、役者のコミカルなオーバーアクション、ありえない筋書き、意味深すぎる舞台装置など、演劇的な演出が多く、実際、主人公は劇作家で、物語も始まりの10分程度と最後の数分以外はすべて主人公の家の中からカメラが出ない室内劇となっている。
現実がいつのまにやら舞台劇と入れ替わり、霊媒師が脚本家となって大喜びしているラストなどはそのもっとも端的な反リアリズムの作法だ。
だからどちらかというとこれは同じシドニー・ルメット監督の「オリエント急行殺人事件」の方に近い気がする。ポアロのあの芝居がかった台詞まわしは、ブリュールのプチブルくさい身のこなしと共通するものがある。オリエント急行のぴかぴかした調度品に飾られた車内と、武器や拷問具を飾った書斎と風車のあるブリュールの家も、その毒気と落ち着かなさでは共通している。しかも両者ともに室内(車内)からカメラがでることはほとんどない。
しかも「オリエント」に比べてこちらはもっとフィクションを全面におしだしている。フィクションというよりは「芝居くささ」といったほうがいいぐらいだ。それはすなわち、舞台劇を映画劇に移し替えることで生み出されるおもしろさであり、違和感でもあり、この映画のひじょうにユニークなところなのだ。

以下、「デス トラップ」をみてボクが勝手に近いと連想した脳内リコメンドシステムの結果表示。

ロバート・アルトマンの遺作「今宵、フィッツジェラルド劇場で」
舞台、長いシーン割り、室内劇。そのあたり似ている気がする。

モンティ・パイソン
「デス トラップ」の要所要所にも録音された笑い声をいれていいのではないかと思うほど、この映画はフィクションを大前提としていた。またなぜかイギリスっぽいシニズムを感じる。

オリエント急行殺人事件
上にも書いたが、ポアロの芝居がかったキャラクターは、途中で登場してきてもあまり違和感がないように思うのだが。

三谷幸喜「ラジオの時間」
こちらはもともと室内劇の極地「グランドホテル」がお好きなようだが、そこまで舞台劇と映画劇の融合を徹底していないところが、かえって似ている。ま、ここでは演劇ではなくラジオなのだが。

なんにしても、よい脚本、よい役者、それと少しのすぐれたアイデアがうまく揃えば、おおげさな仕掛けも、最近よくあるとってつけたような「衝撃のラスト」も、莫大な資金もそれほど必要ではないのだと、あらためて思った。必見。

















巨匠マーチンスコセッシ監督の、日本公開では「ディパーテッド」以来のフィクション映画ということで、かねてからボクの「見るリスト」入りしていた作品。しかも「謎解き」。これはマストでしょう、と思いつつ、DVDで観賞開始。

はじまって1分。船上の描写がおかしい。ひと昔まえの特撮映画のように、船と海の合成がなんかメタメタ。「はて、これは一体・・・」と思いつつ監督名を確認する。たしかに「マーティン・スコセッシ」とある。なにかの間違いだろうと思い直し、主人公のディカプリオが島に上陸し、夢を見るまで普通に見る。
すると、夢の描写がなんかヘン。よく言うと「豊穣なイメージ」なんだろうが、飛び散るA4の紙切れがやたらと目立つ。死んだ奥さん(ミッシェル・ウィリアムズ)の台詞も、夢の舞台であるマンションも、その向こうに見える湖畔の風景も、やたらと目立って、とってつけたようだ。
これは真面目やってこうなってしまったのか、それともあえてこうしているのか、まったくわからない。
しかも夢の描写のカラフルさと、基本的にグレーな島の画の対比が、あきらかに失敗してちぐはぐな印象になってしまっている気がする。

不思議に思いつつ先をつづける。
映画に対する不信感が決定的になったのは、2度目の夢の描写と、夢 in 夢の2段夢オチをなんのひねりもなくここまで素直に描いてしまっているのを見てからだ。
そこからは不信感があら探しになってしまう。
立ち入りを禁じられているC棟に入っていくシーン。なんの緊張感もなく、妖しい雰囲気も、それを演出するための雨漏りや鉄柵それ自体がぶちこわしている。
強度の精神病者が収容されている檻へ主人公を引き込もうとする患者たちも、なんだかデュランデュランのPVにでてくるダンサーみたいだ。
ナチスの強制収容所の描写も軽すぎる。
なかでも相棒を救おうと断崖をおりるシーン、長いわりにドキドキするわけでもなく、かといって落っこちた相棒だと思ったのが人間の形みたいな岩だったから、収拾もつかない。同じだらだらさでまた登って行く。またそれを追うカメラ。しかもディカプリオが「はあはあ」と息切れしているのがなんかつらい。

ラストの「衝撃」は、見た人のたぶん半分ぐらいは途中で、やばいのはディカプリオじゃないの? と気づいていたと思う。しかしそれは問題ではない。はじまって30分で気づいたとしても、それで見るのをやめてしまうわけではなく、「すぐわかったよ」とかえって喜んでもらえるのだから。
問題なのは「ディカプリオこそが病気でした」とそう落とされても、ディカプリオの「狂気」が一向に身近に感じられず、彼に感情移入できないままなので「あら、たいへんね」ぐらいしか思わないことだ。
オチを聞くとなるほど、と前シーンを思い出して納得する楽しさはある。そのための伏線、しかけ、台詞は山のようにある。だから見返すと「なるほど、なるほど」の連続である。
しかし、逆を言うと全部が伏線なので、肝心の彼の「狂気」や物語に光があたらないまま結末にむかってしまう。膨大な伏線が時間を追う毎に積み重なっていき、そのすぐ後にオチがくる。トリックや仕掛け、オチ、どんでん返しなど、映画の装飾が装飾しようとするもの、その中心になるはずの「物語」が装飾のための伏線に浸食されてしまっている。
そうしてその「物語」とは、スコセッシ監督お得意の「狂気の物語」であったはずだ。

これがあの「タクシードライバー」や「キングオブコメディー」と同じ監督だろうか。
狂気のトラヴィスはいまでもボクのヒーローだ。
「シャッターアイランド」は2時間を超えているが、その半分でもよかった。もしあの船上のシーンが「わざと」なのだとしたら、へんな引っかかりを持たせて観客に距離をとられるよりは、潔くカットすべきだった。主人公の水嫌いが子供が殺された湖に由来している、という伏線よりも、観客を引き込む方に注力すべきだった。
途中でわかる人が多かったとしても、原作では結末部分を袋とじまでしているあのラストを大切にするために、トラヴィスなみの狂気に重点をおくべきだったと思う。

だから見終わって、この映画のPRが不思議なほどにやたらと「謎解き」に重点をおいている理由が分かった気がした。
この映画そのものの魅力が「謎解き」にしかないからだろう。
しかしこの前日、ボクは観客をあっと言わせ、2時間たのしませるためには、大げさな「島」という装置も、過剰な伏線も、まして観客のためにならないむりやりな演出も必要ないということを、シドニー・ルメットの「デストラップ」を見て知ったのだ。

が、それはまた次回。




シャッター・アイランド (ハヤカワ・ノヴェルズ)/デニス・ルヘイン


デンライナー・ゴウカ


仮面ライダー電王のデンライナー・ゴウカです。息子に請われて作成。
4両編成。「食堂車」は作っていません。


先頭車両。赤いクリアパーツがなかったので電王の目っぽい感じがでませんでした。


2号車。犬。


犬がクチを開けたところ。ドギーボマーとかなんとかいう舌型ミサイルを発射します。
犬型の頭部が回転するので、角部分は1X1スタッドの円錐形パーツを使いました。だから閉まった状態で上から見ると隙間ができるのが非常にくやしい。


3号車。サル。


モンキーボマー発射。本物はふたが開いたところにサルっぽいデザインが見えるようですが、今回は省略。列車というより小物入れみたいになってしまいました。


4号車。キジ。


フタが開いてキジ型ミサイルが出てきます。


全部つなげて開けてみたところ。
この後ろにさらに亀型のイスルギが合体できるようになっていますが、そちらはまた今度。
デンライナー・イカヅチ1
仮面ライダー電王の乗る電車「デンライナー」シリーズのイカヅチです。
息子がこのおもちゃをほしがるのでレゴで作りました。
出来(見た目)はまったくよくないですが、本人もよろこんでいるし、家計的にも助かるしで、レゴってやっぱりステキな玩具だと再認識した次第です。
ボク自体は仮面ライダー電王ってみたことないんだけど・・・。

デンライナー・イカズチ2
竜の首がボョーンとのびるギミックはテクニックのビームで。

デンライナーシリーズの「ゴウカ」と「イスルギ」も作りましたので、近日アップします。
house1
赤い屋根の小型別荘です。
「理想の家を作りたい」と思ってやりはじめたものの、面倒になってこんなに小さくなってしまいました。
ただ、家の中と外の境界がはっきりしていない、外でメシくうようなタイプの家にはしたかったので、テラスというかアルコープというか、そんな部分は作りました。
ちなみに2階部分へははしごで登ります。
しかも2階部の床は窓の下枠と同じ高さなので、ほんとにこんな家に住んだら命がいくつあっても足りないです。
どこにも表現されてませんが、寝るときは寝袋で寝ます。

house2
1階には台所と椅子だけがあります。
一人しか入れません。ガスはプロパンです。