終戦の年の8月15日、2歳半で沼津
に家族と一緒に疎開していました。8月15日の記憶はまった
くありません。


沼津に疎開していたとはいえ,沼津も安全ではなく、戦災を受けていま
す。南方の島から発進したB29は富士山を目指して北上し、ちょうど沼
津の上空あたりで東京方面へと方向を変えた、と、聞いたことが
あります。


沼津にも焼夷弾を落としてゆき、駅前の町は焼け野原にな
ったそうです。
我が家は町の中心からは離れていたのですが、それでも焼夷弾がい
くつか落とされました。


庭に落ちた焼夷弾を母が必死にほうきでたたいて消していたことを,何
となく覚えています。そして,飛行機の爆音を聞くと、恐怖に襲われる
ようになりました。


戦争が終わって一年後には東京に戻ったのですが、時々,飛行機の爆音
が聞こえると、一歳年下の弟と一緒に家の中を泣きながら逃げ惑ったこ
とを、毎年この頃になると思い出します。


そのほか、食べるものも着るものも学用品も、なかなか手に入りません
でした。


都会には浮浪児と呼ばれていた戦争孤児達があふれていました。白衣の
傷痍軍人が街角に箱を持って立っていました。足を失った人、手を失っ
た人、失明した人、その誰もが苦しみを抱えていました。みんな,その
後どのような人生を送って来られたのでしょうか?


ラジオからはうら悲しい声で「尋ね人」が流れていました。その多くは,
満州で生き別れになった家族や知人の消息を求める人達からの問い合
わせでした。そのような知り合いは一人もいなかったけれど、いつも悲
しく切ない思いに囚われたものです。


私は年齢的に戦争そのものは覚えていません。戦後のこうした情
景はよく覚えています。どこかで「自分は運が良かった」と知ったのかも
しれません。そして、戦争は絶対に嫌だと心の底から思ったのだと思い
ます。