2017年第48回衆議院議員総選挙では、希望の党が結党されると自由党の多数の候補者は合流に向かった。しかし玉城は「希望の党と私の考えは水と油。無所属で普天間飛行場移設反対の公約を貫く」として党籍を残したまま無所属で立候補[29][30]。比嘉を破り、4期目の当選を果たした。

玉城デニー

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玉城 デニー
たまき でにー
生年月日 出生地 出身校 前職 現職 所属政党 公式サイト
選挙区 当選回数 在任期間
当選回数 在任期間
Denny Tamaki in 2009.jpg
2009年の玉城デニー
(1959-10-13) 1959年10月13日(58歳)
沖縄県与那城村(現・うるま市
上智社会福祉専門学校
沖縄市議会議員
幹事長
国会対策委員長
無所属→)
民主党→)
国民の生活が第一→)
日本未来の党→)
(生活の党→)
(生活の党と山本太郎となかまたち→)
自由党
玉城デニー・新時代沖縄
沖縄3区→)
比例九州ブロック→)
沖縄3区
4回
2009年8月30日 - 2018年9月13日
1回
2002年9月28日 - 2005年8月
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玉城 デニー(たまき デニー、1959年10月13日 - )は、日本政治家、元タレント。前・衆議院議員(4期)、自由党幹事長国会対策委員長。元沖縄市議会議員(1期)。本名は玉城 康裕(たまき やすひろ)[1][2][3]

来歴[編集]

沖縄県与那城村(現・うるま市)生まれ。父は沖縄の米軍基地に駐留していた米兵。父の母国であるアメリカに渡航することを前提に母親から「デニス(Dennis)」と名付けられるが、結局母は先に帰国した夫を追うことはなかった。小学校4年生のときに家庭裁判所に申し出て、「康裕(やすひろ)」に改名した。「デニー(Denny)」は子供の頃からの愛称であった[1]
与那城村教育区立与那城小学校、勝連町立与勝第二中学校、沖縄県立前原高等学校上智社会福祉専門学校(福祉主事任用課程)卒業[4]福祉関係の臨時職員、インテリア内装業、音響関係の会社勤務等を経て30歳のときにタレントとして独立。琉球放送ラジオの人気番組「ふれ愛パレット」のパーソナリティ[5]、1998年7月にスタートした沖縄市エフエムコミュニティ放送の「OKINAWAミュージック・タペストリー」の総合プロデュースとパーソナリティ[6]、イベントの司会などを務めた。ラジオでは沖縄の言葉(琉球語)を駆使し、高齢者から絶大な支持を受けた[7]
2001年12月、周囲から翌年4月に控えた沖縄市長選挙[8]への立候補を促される。選挙も政治も何も分からなかった玉城は琉球放送の職員に相談したところ、嗅ぎ付けた新聞社に翌日の朝刊に「玉城デニー、沖縄市長選挙出馬へ」と記事にされてしまう。当時玉城は月曜日から金曜日まで朝8時半から11時までの帯番組をもっていたが、その日で番組を降りることとなった。母親からは「人の口車に乗って馬鹿だね」と言われ鬱々とした日々を送る。
2002年5月に一念発起し、その年の9月の沖縄市議会議員選挙への立候補を決意[1]。史上最多得票でトップ当選を果たした[9]

衆議院議員選挙に立候補[編集]

2005年8月、衆院選に立候補するため任期途中で市議を辞職[4]。同年9月11日に行われた第44回衆議院議員総選挙に、沖縄3区から民主党公認で立候補するも、落選。
2009年8月30日に行われた第45回衆議院議員総選挙に、沖縄3区から民主党公認で再び立候補。自民党前職の嘉数知賢を破り、初当選した。民主党では沖縄県第3区総支部長、沖縄県総支部連合会副代表などを務めた[4]
2011年2月19日に行われた民主党沖縄県連の代表選に立候補するも、党本部の「小沢対非小沢」の対立が波及したことにより新垣安弘県議に敗れる[10]
2012年消費増税をめぐる政局では、野田内閣による消費増税法案の閣議決定に抗議して党広報副委員長の辞表を提出し、4月23日の党役員会で受理された[11]。6月26日の衆議院本会議で行われた消費増税法案の採決では、党の賛成方針に反して反対票を投じた[12][13]。7月2日には山岡賢次らを介して離党届が提出された[14][15][16]。民主党は7月3日の常任幹事会で離党届を受理せず除籍処分とする方針を決定し[17][18][19][20][21]、7月9日の常任幹事会で正式決定した[22][23][24]。同年7月11日、造反議員らを中心に国民の生活が第一が結党され、玉城もこれに参加した[25]。なお、もうひとりの民主党沖縄県連所属国会議員である瑞慶覧長敏も同年に離党して無所属となり(その後落選)、これ以降県連は国会に議席を有していない。
同年12月16日に行われた第46回衆議院議員総選挙では、嘉田由紀子滋賀県知事が代表を務める日本未来の党の候補として沖縄3区から立候補。小選挙区では落選したが、比例九州ブロック復活当選した。公明党比例区順位4位の新福愛子と九州ブロック最後の議席を争い、当選が決まったのは全国480人中479番目であった[26][27]。また、九州で唯一日本未来の党が獲得した議席であった[28]。同年末、未来の党の分党に伴い生活の党の結党に参加。
2014年第47回衆議院議員総選挙では、翁長雄志沖縄県知事が推薦する「オール沖縄」の候補として生活の党公認で沖縄3区から立候補。日本共産党社会民主党沖縄社会大衆党緑の党そして基地の県内移設に反対して自民党を除名された「新風会」の支援を受け[要出典]、自民党新人比嘉奈津美(比例九州ブロック復活当選)を破り、議席を取り戻した。
2017年第48回衆議院議員総選挙では、希望の党が結党されると自由党の多数の候補者は合流に向かった。しかし玉城は「希望の党と私の考えは水と油。無所属で普天間飛行場移設反対の公約を貫く」として党籍を残したまま無所属で立候補[29][30]。比嘉を破り、4期目の当選を果たした。

沖縄県知事選挙[編集]

2018年8月17日、故翁長雄志知事が生前に玉城と金秀グループ会長の呉屋守將を後継指名していたことが判明。8月18日までに呉屋が立候補を固辞すると[31]、8月19日、翁長を支えてきた県政与党や団体でつくる「調整会議」は玉城の擁立を目指す方針を固めた[32]。8月28日、玉城は立憲民主党枝野幸男代表、国民民主党の大塚耕平共同代表、日本共産党志位和夫委員長、社民党又市征治党首、無所属の会の岡田克也代表らと会談。野党5党派は支援を確約し[33]、8月29日、玉城は翁長の死去に伴う知事選挙への出馬を正式に表明した[34]
基地問題については「故・翁長知事の遺志を受け継ぎ、辺野古に新たな基地は造らせない。普天間飛行場の閉鎖・返還を一日も早く実現するよう政府に強く要求する」とした[35]。また、子どもの貧困対策を最重要政策に掲げ、「保育料の無料化」、「子ども医療費無料化の拡大」、「待機児童ゼロ」、「子育て世代包括支援センターの全市町村への設置」などを掲げた[35][36]。経済振興では、「アジア全体を市場とする臨空・臨港型産業の集積」、「国際医療拠点形成に向けた健康医療分野やバイオ産業の育成」、「外国人観光客の誘致を促進する情報通信環境の整備やクルーズ船の寄港、拠点化、母港化整備」、「縦貫鉄軌道の導入」などを打ち出し[35][36]、他にも複数の政策を掲げた(政策・主張の欄を参照)。
同年9月13日、沖縄県知事選の公示に伴い立候補を届出、同時に衆議院議員を辞職(失職)した[37]。9月30日の投開票の結果、当選[38]

玉城デニー氏へのデマ[編集]

インターネット上を中心に玉城自身に関する事実誤認のデマが拡散しているとし、これを名誉毀損として刑事告訴の手続きに入った旨を代理人の弁護士が述べている。告訴対象となるデマの内容については明らかにされていない[39]

略歴[編集]

政策・主張[編集]

2018年沖縄県知事選挙で掲げた政策[編集]

  • 経済振興
    • 1人あたりの県民所得を現在の216.6万円から271万円へ(2021年度までに)[36]
    • 縦貫鉄軌道を導入[36]
    • 観光振興へ「東洋カリブ海」構想などで入域観光客1,200万人へ[36]
    • アジア経済戦略構想を継承・発展させる形で、アジア全体を市場とするパーツセンターなど臨空・臨港型産業集積の促進[35]
    • 国際医療拠点形成に向けた健康医療分野やバイオ産業の育成[35]
    • 県内産業の競争力を強化するとともにアジアにおけるビジネスの拠点をめざし、 国家戦略特区等を活用した規制緩和や制度改革に取り組む[41]
    • 新たな財源として「観光・環境協力税」を観光客などから集める制度を導入する[41]
    • 10年間で新規就農者3千人増[36]
  • 子育て・福祉