覚悟の磨き方・超訳 吉田松陰 PROLOGUE

誰よりも熱く、誰よりも冷静だった天才思想家

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この命をどう使い切るか。

ついに志を立てるときが来た。

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 かつて吉田松陰ほど型破りな日本人はいただろうか。

 時代は、鎖国のまっただなか。

日本がかたくなに孤立状態をつづける一方で、アジアは次から次へと欧米諸国の植民地になっていた。

あの強かった清(中国)までも、西洋化の巨大な波に呑まれて、諸外国に道をゆずりながら生き延びようとしていた。

日本にも転機がやってくる。1853年、ペリーが黒船を連れてやってきたときのことである。

開国させるためには、圧倒的な技術力の違いを実際に見せつけるのがいいだろう。

そう考えたペリーがいきなり大砲三発を威嚇発射すると、江戸(東京)はまさに天地がびっくり返るような騒ぎになった。そのとき江戸幕府と言えば、すっかり沈黙してしまっている。

刀じゃ大砲に勝てるはずがない。日本はもうおしまいだ。武士から農民まで誰もがそう確信し、眠れない夜がつづく中でただひとり、西洋を追い抜いてやろうと意気込んでいる若者がいた。

吉田松陰、25歳。

兵法の専門家であった彼は、しばらく「どうやって西洋を倒そうか」虎視眈々と作戦を立てていた。だが実際に黒船の大砲を目にすると、急にこんなことを思いはじめた。

これは勝てない。

松陰の頭の切り替えは早かった。

いくら敵意を燃やしたって、日本を守ることはできないのだから、むしろ外国のやり方を学んだ方がいい。

発想を逆にしてしまったのだ。

鎖国である。海外渡航などすれば、もちろん死刑である。

だが松陰はそんなことは気にしない。

翌年、再び黒船がやってくると、「日本にとって今なにが一番大事なのか」を明らかにし、すぐさま思い切った行動に出た。

松陰はこう言い残している。

 今ここで海を渡ることが禁じられているのは、たかだか江戸の250年の常繊に過ぎない。

今回の事件は、日本の今後3000年の歴史にかかわることだ。くだらない常識に縛られ、日本が沈むのを傍観することは我慢ならなかった。

 彼はすばらしい戦略家だったが、こういうときはろくに計画も立てなかった。「動けば道は開ける!」とばかりに、小舟を盗むと、荒波の中をこぎ出していって、そのまま黒船の甲板に乗り込んだ。

突然の東洋人の訪問に、アメリカ艦隊は驚いた。

無防備な侍が、法を犯し、命がけで「学ばせてくれ」と挑んでくる。その覚悟と好奇心の異常ぶりを恐れたのだ。同時に、日本の底力を思い知った。

そして吉川松陰のこの小さな一歩が、後の「明治維新」という大きな波を生むことになる。

 松陰は生まれたときから空気のように存在していた「しきたり」を破り、行動を

もって自分の信念を貫くことをよしとした。

そんな情熱家である一方、松陰は大変な勉強冢でもあった。

旅をしながらでも本を読み、牢獄に入れられても読みつづけた。

それもただ黙々と読むのではない。人物伝を読みながら、その人物の清い態度に号泣し、軽率な行動に激怒し、華々しい活躍に踊りあがった。

頭ではなく、感情で学ぼうとする男だった。まるで子どもである。だからこそ学んだことが、ストレートに行動へつながったのかもしれない。

密航で捕まった後の松陰は、江戸から故郷の長州藩(山口県)萩へと送られた。

そしていつ出られるかもわからない牢獄の中で、松陰はそこにいる囚人たちを弟子にすることになる。

すでに何十年と牢獄の中にいる人もいた。生まれたときから、すでに生きる希望を失っているような人も多かった。だが、松陰は身分や出身によって人を選ぶことなく、一人ひとりから才能を見つけようと親身になった。

仮釈放されると、松下村という小さな村で塾をはじめることになる。これが後に伝説となったかの「松下村塾」である。

当時、長州藩には「明倫館」という藩校があり、そこには藩から選ばれた優秀な武士の子どもが集められ、一流の教師がついて、一流の教科書が用意された。

だが下級武士の子どもが集まる松下村塾に教科書はなく、まともな校舎すらなかった。

だから教科書は夜を徹して、弟子といっしよに書き写し、校舎も弟子だちとの手作りで最低限のものをこしらえた。

10畳と8畳の2間しかない塾。

そこで、吉田松陰が教えた期間はわずか2年半である。

そんな松下村塾が、かの高杉晋作や伊藤博文(初代総理)をはじめとして、品川弥二郎(内務大臣)、山縣有朋(第二代/第九代総理)、山田顕義(國學院大學と日本大学の創設者)を送り出した。結果的には、総理大臣二名、国務大臣七名、大学の創設者二名、というとんでもない数のエリートが、「松下村塾出身」となった。

こんな塾は世界でも類を見ない。

松陰はなぜこんな教育ができたのだろうか。

 松陰は「いかに生きるかという志さえ立たせることができれば、人生そのものが学問に変わり、あとは生徒が勝手に学んでくれる」と信じていた。

だから一人ひとりを弟子ではなく友人として扱い、お互いの目標について同じ目線で真剣に語り合い、入塾を希望する少年には「教える、というようなことはできませんが、ともに勉強し圭しよう」と話したという。

教育は、知識だけを伝えても意味はない。

教える者の生き方が、学ぶ者を感化して、はじめてその成果が得られる。

そんな松陰の姿勢が、日本を変える人材を生んだ。

 

松陰はただの教育者では終わらない。

幕府の大老・井伊直弼と老中・間部詮勝のやり方に憤慨した松陰は、長州藩に「間部を暗殺したいので、暗殺に使う武器を提供してほしい」と頼み込んだ。驚いた長州藩は、また松陰を牢獄に入れることになる。

次第に過激さを増していく吉川松陰。

それに対し、松下村塾の弟子たちは血判状を出して懸命に止めようとしたが、松陰はさらにその弟子たちとも縁を切ってしまう。

そしてある疑いで幕府の役人に取り調べを受けたとき、松陰は聞かれてもいない「間部詮勝の暗殺計画」を自分から暴露する。

当時、一介の武士が幕府の役人に意見ができる機会はめったになかったため、暗殺計画を告白することで、自分の考えを伝えるチャンスを得ようとしたのかもしれない。

だが結果的にその機会を得ることはなかった。松陰は捕まり、かの「安政の大獄」の犠牲者になった。

吉田松陰はこうして30歳でその生涯を閉じる。

若すぎる死。

一方で、松陰の志は生き続けた。

松下村塾の弟子たち、そしてその意志を継いだ志士たちが、史上最大の改革である明治維新をおこし、今にいたる豊かな近代国家を創り上げたのだ。

 英雄たちを感化した、松陰の教えはシンプルで力強い。

 学者でありながら、てらいや見栄、観念的なことをとことん嫌ったからだろう。逆境にあるときほど、そんな思想が大きな力になることもある。

 本当に後悔しない生き方とは一体なにか。この本を媒介として、ともに考えられたら嬉しく思う。     池田貴将