「努力」してきたかは「結果」が決めるもの 「結果」が出るまで続けることが「努力」

 

「努力は報われない」、でも「報われた時には努力をしている」

「頑張ったけどダメだった」と長々言い訳を言う部下がいる。

「誰が頑張れと言った。お客様にいい仕事だと信用してもらい、最低の利益を確保する結果を出せといっているんだ」とどなることがある。

様々なところで「努力したのに認められない」という者が多い。

少々挑戦しては「努力は無駄」と開き直る者も時にはいる。

努力は主観であり、他人に認めてもらうべき性質のものではない。

結果を出す人は、例外なく努力を続けてきた人であることだけは間違いはない。

あるうつ病心理カウンセラーの言葉から

努力がすべて報われるわけではないことは、誰しも知っていることです。

冷静になって、客観的に考えれば分かっているです。

人が評価される時、幸せを感じる時、それはその直前まで有意識・無意識関係なく「努力をしている」という事実がある。

評価できる「努力」をしてきたのかは、結果が決めるものです。

なので、日ごろの自分自身の行動を考える時に気を付けておきたいこと。

それは「成功」や「達成」に一番必要なものは「努力」ではなく、成功に至るプロセスや達成に至るプロセス。

そして、成功や達成ができた人は結果として「努力」を怠らなかったという事実なのです。

「努力をする」=「報われる」ではなく、「報われた人」=「努力をしてきた人」ということをもっと強く考える必要があるかもしれません。

「努力が報われる」というフレーズは、いろいろなところで、いろいろな人たちが話している一般的な言葉です。

義務教育でも高校受験や大学受験、部活やサークルなど、ひいては飛び込み営業などがメインになっている会社でも「努力は報われる」と言われることがあります。

言葉の意味を振り返って

さて、では質問です。

努力している人が好きですか?

努力しているだけで結果が出ていない人が好きですか?

努力しているように見えて結果が出ていない人が、自分より評価が高くても我慢して笑顔でいられますか?

「努力が報われる」という言葉の魔力はとても重要です。

「言霊」といったフレーズと一緒に使っている人たちもいます。

言葉が持つ「イメージのチカラ」は大きいと思っています。

では、あなたは人生の中で「努力が報われたこと」はどれだけあるのでしょうか?

社会人では、努力する途中の人と、自分に役立つ成果を出す人のどちらを評価するのでしょうか?

実生活から考える「努力」

巧くいっていない人への相談を通して感じること。

それは「努力が正当に評価されていないことへの不満」を強く抱えているということです。

そう、努力という主観的なものを、他人に評価されたい(主観的な)欲求によって判断しようとしているため、

時間をかけ続けても、結果的には「誰にも理解してもらえない」という思いにしかならないわけです。

この思いの背景にあるものの1つが「努力は報われるべきもの」という主観なのです。

重要なことは、その人が何を「努力をしていること」と認識しているのかを知るということです。

探っていくと、練習にむらがあったり、生活がぐちゃぐちゃであったり、本を読んでなかったり・・・・・。

そして、今、何を「努力すべきもの」として評価しているのかを正しく持たすことに非常に重要な役割があります。

我々に投影するならば、

これはたとえば部員、寮生に対して揺るがぬ共通のテーマでなければなりません。

時にはできないと思われても構いません。人には個人差があり、得意不得意の分野はそれぞれ違うからです。

成功するまで努力を続ける人を育てるところに育成指導者の使命があるのです。

そして、結果が出せる道を示せる「深い知性」が育成指導者として決定的なのです。

ポリシーなしの情念だけでは青年の指導の資質は与えられないのです。

強がりだけで自分に結果を問わない指導者は長い物にすり寄る指導者と同様、不要なのです。

努力は報われるべきだと思います。

気持ちの大部分を使い、時間の大部分を使って仕事や生活に自分自身を投下するわけですから、

報われないという状態は本当にさみしいものです。

しかし、努力だけで結果がなければ、受験も就職活動も、仕事の成果も業績も得られずに、

本当に自分の欲しいものは手に入らないのです。

今一度、常に心に置いておくべきこと。

「努力をする」=「報われる」ではなく、「報われた人」=「努力をしてきた人」であるということです。

そして、そんな人間を育てる育成指導者の知性の優劣がその重みを増すのです。