ライバル

IDA SOCCER NIGHT SCIENCE 夢に向かう君へ

 

 ライバル(Rival)は、日本語では「同等もしくはそれ以上の実力を持つ競争相手。互いに相手の力量を認め合った競争相手」の意味を持つ。しかし、時に日本語では好敵手、宿敵と訳されることがある。

 観る側にはわからない競技者同士の濃密な時間が、ライバルとの激突にはある。それがきっと、観る側には勝ち負けを超えた心を動かすものとして伝わって来るのだろう。

 スポーツを通じて何かを追求する者にとって、ライバルとは「自分を完全なものにしてくれる仲間」と訳せるだろう。

 

勝利の花束は3日で枯れる

 

 真剣勝負を挑む相手は「敵」ではない。「やっつける対象」ではない。そんなこと言っているから

 

だから君は、大切な時に全力を尽くせないんだ

だから君は、苦しくなるとダメな選手になるんだ

だから君は、簡単に諦めるんだ

だから君は、手っ取り早いスタイルを求めるんだ

だから君は、幼稚なんだ

だから君は、ダメな選手で終わるんだ

だから君は、社会に出ても通用しないんだ

だから君は、未だに薄ーい強がりだけで生きようとしてるんだ

だから君には、いつまでたっても運が向いてこないんだ

だから君は、大切な友に距離を置かれているんだ

 

成長させてくれるよきライバル

 

かれらは、全力を尽くし称え合う友人

かれらは、苦しくなった時なにくそと思える対戦相手

かれらは、諦めることは失礼な大切なライバル

かれらは、培ったスタイルとこだわりをぶつけ合う尊敬すべき人

かれらが、俺を大人にする

かれらが、俺を一流にする

かれらが、俺を武器を持った人間にする

かれらが、俺を謙虚にする

かれらが、俺を運を引き寄せる男に変えてくれる

かれらが、俺を尊重を携えた大人に成長させてくれる

 

 彼らこそ最も尊敬すべき友人だ。対戦相手である彼らの存在、それなしに自分を高めてくれる環境は考えられない。そういう大切な大切な友人だ。

 そんながんばる相手に、弱点を突くような姑息なことをして勝とうとすることはしない。勝利の花束は三日で枯れる。彼らとともに枯れないものを掴むんだ。

 

相手をリスペクトする

 

 勝利チームの選手がインタビューに答えて「負けたチームのためにも勝ちますよ」なんて言葉を吐いているのを稀に見る。自らを美化し、自尊心を満足させ、優越感に酔いしれるにはいい言葉だ。

 全力を尽くして幸運にも勝利を得たチームのメンバーが、相手を認めるなら口にすべき言葉ではない。負けたチームの選手は、負けた瞬間から自分が足らなかったことを認め、次の目標に向かうのである。その自分の夢を、勝者である相手に託す訳はないのだ。

 そもそも、夢は他人に託すものではない。例え親であっても自分の夢は子に託すものではない。自分の夢は子に託さず自分で追うものだ。それによってのみ、子どもにも尊敬されるのだ。

 ましてや、夢を追いかけている者同士の対戦である。その結果が勝利であっても敗北であっても、相手をリスペクト出来るのだ。例え力の差があっても、互いにライバルであることを認め合うから良い試合ができ、結果のいかんを問わずにお互いを称賛し合えるのだ。

 あれほどの努力を続けてきても試合に破れ、夢が叶えられなかった自分の先輩たちの姿を見てきたはずだ。その口惜しさを自分に重ね合わせ、自分たちの日々の指標にしなければならない。

 同じように他チームの選手たちの敗北の悔しさにも思いやらねばならない。彼らの送ってきた日常を見もせず、その苦労や思いをいかにも理解しているかのように振る舞うとは、とんでもなく不遜なことだ。

 だから勝利した相手だけではなく、敗北した相手をそれ以上に敬う必要があるんだ。そして、勝ち負けは別にして対戦したチームの良いところを探し学ぶことだ。

 勝利の時の我を見失った「奢り」と敗北時の「言い訳」は、結果が違うだけで、まったく同質のみっともないものだ。

 静学でも奢りから失敗したことがある。全国のサッカーファンから称賛されたあの高円宮杯全国大会で準優勝した年、決勝を終えた翌週から始まった全国高校選手権静岡県予選での清水商業戦でのことだった。

 静学は絶対的優勝候補で、負ける要素がない、力の差は大きいと誰もが思っていた。相手チームでさえそう公言していた。草薙球技場の雰囲気もそんな空気で満ち満ちていた。二回戦なのに五千人の有料観客が入り、ここそこで次の試合の準備がなされ、もっぱら何点差で勝つかといった話題が出ていた。

 何よりも悲劇的だったのは静学の選手自身がそう思っていたことだ。心配したある選手は試合前にこう言ったほどだ。「油断するな」。これは勘違いが大きくチームに浸透していたことを示している。

 試合に挑む思いの差が表れていた。「負ける要素がない」とばかりに相手を尊重できずにいた。そういう時には必ず勝利の神は驚きの結果を用意する。誰も予想しなかった結果に会場はどよめいた。

 敗北後、勝った清商の選手が中学時代からの友人の選手に歩み寄りこう言った。

 「ごめんな。本当ならお前たちが勝った方がよかったと思う。お前らなら全国優勝できるから」

 その言葉で、勝利の神の真意が理解できた。また、相手が勝利した理由も同時に理解できた。

 全国準優勝の経験に浮かれて、幼稚にも自分たちは、相手をリスペクトせずに試合に臨んでいた。ひたむきに挑戦した側の勝利であり、試合前からこの結果は用意されたものだった。

 勝利した清商の選手らは、決して「君たちの分もがんばる」とは言わなかった。対戦相手をリスペクトしていたからだ。

 もし「負けた君たちの分もがんばるよ」、なんて自分を見失った言葉を吐く「友情ごっこ」の勘違い野郎を見たら「ニセモノ」だと思え。それは震災の被災者に「俺のサッカーで夢を与えます」などと吐く選手と同様で、相手に心寄せることのできない、自分を正しく見つめられない資質の奴だ。

 敗者自らが、自分に折り合いをつけて、自ら立ち上がるのをしばらく待つべきだ。そして、いたわりの言葉は、彼らがともに過ごしたチームメートや彼らの指導者に任せるべきだ。それが尊敬であり友情というものだ。

 どんなに強いチームでも負ける。人生でも勝ち続けの人生はない。「運良く勝った」と謙虚に思えることが大切なんだ。

 「弱かったな」「勝てば官軍」「試合は俺たちの方が」といった幼稚さは論外だ。「君たちの分もがんばる」も薄っぺらで違う。「お互いがんばったな」はもう一歩軽い。お互いを尊重・リスペクトしているなら、試合終了の握手があると最高だな。そしてややあって、敗れた選手は敗北を受け入れ、勝利した選手を尊敬を持って称えることができるのだ。

 はっきりしているのは、勝利した選手も明日の君であり、敗北した選手も明日の君だ。

イメージ 1