昭和58年度卒 三浦泰年

静学スタイル column 教え子たちからのメッセージ 

感謝しかない井田コーチの「生涯一指導者」という生きざまに憧れる

 

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 井田コーチとはウチの父親が静岡高校の同級生だったこともあり、僕とカズ(三浦知良)は小さい頃から関わりがありました。幼稚園の送り迎えをしてもらったのは覚えていないけど、そんなこともあったようです。小・中学校時代は城内FCで過ごしましたが、代表をやっていた叔父(納谷義郎氏)が井田コーチと同じ志を持っていて、「個人技主体のサッカーをやるんだ」と毎晩のように2人で熱く語り合っていました。今でこそ個人技のサッカーは珍しくないけど、当時は異端と位置づけられる存在。そこでプレーした僕らはまさに「学園予備軍」だった。ハッキリ言って、井田コーチのために、学園のために、サッカーをやってきたような感じでした。

 自分が学園のサッカーに強い憧れを持っていたのは、紛れもない事実です。昭和51年度の選手権準優勝、53年度の2度目の出場を目の当たりにし、カズと2人で高校サッカーのテーマソング「振り向くな、君は美しい」を流して、その瞬間にテレビ画面に流れていた映像の真似をすることもあったくらいでした。だから、実際に学園に入れた時はメチャクチャ嬉しかった。自分が入ったのは商業科でしたが、ある意味「スポーツ科」と言ってもいいような扱いだったんで3年間サッカーに集中できた。アッという間の3年間だった気がします。

 学園名物の朝練は6時15分のクーパー走からのスタート。1年生の時はグラウンドにトンボをかけないといけないんで、5時に起きて学校へ行き、整地作業をしながら寝ていたこともありました。井田コーチは5時半からランニングしていて、「なんでお前らは、俺より遅いんだ」と言われたこともあります。走りが終わって、リフティングを始めた頃に明るくなってくる感じ。インステップ、インサイド、アウトサイド、もも、ヘディングの5種類を5ヵ所でやりながら、時間制限のある中、50m移動するようなメニューが中心でしたが、本当に一生懸命でした。授業の後も夜8時くらいまで練習するのは日常茶飯事。まさにサッカー漬けの日々でした。

 そんな高校時代、コーチにサッカーノートを出すと、決まって書かれている言葉がありました。

 「努力は必ず報われる」と。

 結局、僕らは3年間、一度も高校総体も選手権にも出られず高校時代は努力が報われなかった。当時は清水全盛期。清水東には健太(長谷川=現カンパ大阪監督)、大榎(克己=清水エスパルス前監督)、堀池(巧=現順天堂大学監督)の三羽ガラスがいて、彼らの追っかけからは「大榎さんをいじめないで~」と言われたり、坊主頭だった僕らに向かって「何、あのハゲ」と反旗を翻されたりしましたけど、最後の最後まで彼らに全国切符を持っていかれました。

 その後、僕はブラジルに行ってプロになり、指導者になったわけですけと、そうやってサッカーに向き合う時間か長くなればなるほど、その言葉が自分にとって非常に重要なものになりました。

 プ囗になり、日本代表入りも果たすことかできた僕は、周りから見ると「報われた人生」なのかもしれない。でもそれ以上に、一つの目標に向かって努力することの大切さが分かったんです。その言葉が必要不可欠になった時、自分はもう報われているんじゃないか。そう思えるようになりましたからね。カズも井田コーチに努力を教わった1人だと思います。

 僕が2年の時、1つ下のカズが「高校を辞めて、フラジルヘ行きたい」と強い決意を口にしました。それを聞いて、弟を後押ししようと思った僕は、カズと一緒にコーチのところを訪ね、「ブラジルへ行かせてやってほしい」とお願いしました。

 「99%、ムリだ」

 それが、コーチの答えでした。それでもカズは決心を変えなかった。

 「1%でも行きたい」と意思を通したんです。

 そのやり取りを見ていて、僕は井田コーチの親心を感じました。普通なら「100%ムリだ」というところを、「99%」と言ったのは、「1%の可能性がある」ということを言いたかったのかなと思いました。その可能性に賭けて、誰よりも努力したカズは、日本のレジェンドになった。48歳まで現役を続けている選手なんて、後にも先にもカズー人ですよね。

 それだけ努力の大切さ、サッカーの楽しさを心底、知っている。そのきっかけを与えた井田コーチは「サッカーを長く続ける選手を作れる第一人者」と言って過言ではないと思います。学園出身で30代半は以降まで現役を続けている選手は少なくないですから。

 カズからコーチに手紙か来るたび、お金を送っていたという話は正直 知りませんでした、でも井田コーチは僕にもお小遣いをくれたことがあります。

 それはユース代表候補に選ばれた高校3年の時。ユース代表かデュッセルドルフで合宿をしてから、クロアチアのリエカの国際大会に参加することになっていて、その選考合宿に僕が呼ばれたんですが、コーチは「お前は絶対にムリだ」と言うんです。

 そう言われると自分も奮起して、候補合宿ではかなりガンガンやりました。でも、戻ってきた後に学校に届いたスポーツテストの結果が悪かった。

 「おい、ヤス、お前の結果はまるでラジオ体操だな。1と2ばっかりた。絶対に代表に選ばれるわけない」

 こんな皮肉を言われたのをよく覚えています。

 「でもサッカーの方は大丈夫ですから」と僕が反論すると、コーチは驚くべきことを言ってきたんです。すると井田コーチは「じゃあ、もし入ったら、餞別で10万円くれてやるから」と。

 最終結果は合格。代表遠征参加が正式に決まりました。井田コーチは試合会場の藤枝東のグラウンドで「ヤスがユース代表になったから10万円餞別だ」とみんなの前で大金を渡してくれました。本当にそういう約束を守るのが井田勝通という人。心から感謝しています。そういう男前のところは尊敬しますし、モチベーションを上げるのに長けた人だなとしみじみ感じます。

 プレー面に関しても、コーチはほとんど細かい指示をしませんでした。試合の時のフォーメーションや選手の配置は決めますけど、試合が始まってからの判断はピッチに立っている僕ら選手に任せていました。だから、高校3年の時に言われたのは1つだけ。

 「ヤスさん、冷静に」。本当にそれだけでした、

 同い年の平岡(和徳=現熊本大津高校監督)がいた帝京に古河のフェスティバルで勝った時にも「学園、メチャ強いな。それに、お前のところの監督は面白いな。お前のこと『ヤスさん』って呼ぶんだ」と言われた。当時、選手をさんづけで呼ぶのが流行っていただけなんですけど、そういう行動を一つ取っても、普通の高校サッカーの監督とは違いましたね。

 井田コーチは選手を1人の人間として尊重し、真正面から向き合おうとしたから、戦術や約束事、規律でがんじがらめにしなかったのかもしれない。選手へのアプローチは上手だなと思いました。

 その頃から30年以上の月日が経過していますが、井田コーチは今もピッチに立って、小・中学生にテクニックの重要性を教え、徹底的にリフティングやボールコントロールを叩き込んでいる。そのバイタリティは想像を絶します。生涯一指導者という生きざまを貫いているのは、やっぱり憧れます。

 コーチには感謝しかありません。ただ年齢も年齢なので、月並みですが、体に気をつけてほしい。それを伝えたいですね。

 

 

 

1965年生まれ。地元、城内FCでサッカーをはじめ、高校時代は静

岡学園高校でチームの中心として活躍し、18歳のときには全日本ユース代表にも選ばれる。卒業後は、ブラジル・サントスで武者修行をしたのち、読売クラブに加入。Jリーグ発足時は清水エスハルスでプレーし、以後数々のクラブを渡り歩き、2003年に現役引退。引退後は、指導者としての経験を積み重ねていき、東京ヴェディ、チェンマイFC(夕イ)などの監督を歴任。