【掃除と挑戦】

 

自分が今いるコミュニティ領域に対する感謝、愛着、参加している責任感、充足感のレベルを示す。

選手が、汚さない、けがしてはいけないという感謝の獲得にこそ掃除の目的がある。

その感謝の意志が共有部分の掃除に現れる。

一般的に、人は匿名性が保証されている・責任が分散されているといった状態におかれると、自己規制意識が低下し、『没個性化』が生じる。

その結果、情緒的・衝動的・非合理的行動が現われ、また周囲の人の行動に感染しやすくなる。

ある街の家でその周りに落書きがあり、付近にごみが捨ててあったりした場合、同じ街でも綺麗にされた家の場合と比べ、郵便受けから金券を窃盗される割合は2倍近く上回る。

廊下や階段の小さなゴミがほっておかれ、壁に穴が空き、落書きやシールが貼られるとき、そのチームは希望がない。

練習場にペットボトルやすね当て、パンの袋が放置されるとき、その集団が彷徨しはじめているときだ。

弱い時、コミュニティ、練習場や寮は間違いなく汚いのである。

共有する夢が希薄であったり喪失しているとき、

ゴミを片付けない、コミュニティを我が物顔で落書きをする、破壊する、パシリが始まる。

そういう幼稚な弱い選手を、薄汚れた心を持たせたまま卒業させてしまった過去の経験に心が痛む。

時々、薄汚れた負け犬の宿命を背負わせたまま、奴の未来が薄汚れてしまう高い確率を計算する。

そのいやな想像は当たる。

「俺のせいじゃない」と納得させようとしても、

「ダメな奴は必ずいる」と落ち着かせようとすることもある。

が、

そう思うことは育成の確信の揺らぎであるのだ。

共有部分の掃除は、きわめて高度な人としての社会的行動だ。

毎日、10時前に15,6歳のみんなが共用部分を掃除をしている景色のある生活。

そんなチームは絶対に崩れない。

育つ伸びるチーム。

それが

無理やりではなく他人が見ていなくとも崩れず、

空気のように普通にできるようになれれば、

もはや敵はいなくなる。