サッカー人として

生身の人間の価値

三浦知良

[日本経済新聞]

生きている誰もが、自分の存在価値というものをどこかで証明したいと思っている。仕事で認められたい。自分が何者であるか、自分自身に納得させたい。

 

プレーが何らかの反応を引き起こすたびに、自分の存在意義のようなものを僕は感じ取れる。「励まされたよ」「共感した」。それは発した言葉、文章を通じた形をとるときも。いい仕事、理想のプレーができたときの充足感といったら、おカネにも代えがたい。あれを上回るものに僕は人生でまだ出会えていない。

 

理想のプレーができている時、ピッチで僕は真っ白で。ことさら何かをなし遂げようとするわけでもなく、体が自然に動き、嫌なことも頭から全て消え去る。幸せな無心。これこそサッカー選手冥利に尽きる。

 

真っ白な精神状態、いわゆる「ゾーン」に入ったプレーは、「良かったよ」という感動なり、小さな反応なりの渦をつくる。そこで僕は自分が何者であるかに気づく。サッカーは仕事であると同時に、自分が何者かを自分自身に示してくれる一番の場所だ。

 

ボールを蹴り始めたころから、何歳になっても変わらない。悲しい災害が僕らを足止めし、ウイルスが僕らから自由を取り上げたとしても、あの感覚を奪うことまではできないんだ。

 

ITや人工知能(AI)が進化し、人がしてきたことを何でも機械がしてくれるようになればなるほど、逆に、生身の人間がすることを人々は欲していくんじゃないかな。クリアで澄んだ音を手軽に聴ける時代には、歌手の生の震える声を聴きたくなる。アスリートの放つ熱にさらされたくなる。演劇、職人の握る寿司、手料理などもそうだね。

 

勝ち負けを巡って、スポーツで白熱する。生身の人間に触れて、興奮して、スカッとして。選手の情熱みたいなものを、熱量の一部として見る側も受け取る。つられるように、自分の内なる感情を吐き出せる。

 

コロナは人の行動を拘束し、人と人を触れ合えなくする。そういう時だからこそ以前にも増して、生身の人間によるスポーツ、歌、芸術を、人々は求め続けると思うんだ。

 

だとしたら、僕らはしっかりと応えたい。J1再開の7月4日は、生身の人間の価値をサッカーが示す、そんな一歩にしたい。

 

(元日本代表、横浜FC)