大丈夫だ 2015 サッカー人として・三浦知良
17日の日本対カンボジア戦は人工芝で行われ、「やりづらかった」という選手の反応を新聞で読んだ。そういった適応力が問われる状況では、最高のピッチも劣悪なピッチも、いろいろ経験していることが有利になるんじゃないかな。
思い返すとブラジル時代、ありとあらゆるグラウンドでサッカーをしてきた。たんぼみたいに足を取られる場所もあったし、芝があるのは四隅だけ、中央ははげていたところも。クロアチアでは雪上、というよりアイスバーンで紅白戦をした。そこでプレーするクロアチアの選手がまた、うまい。つまり、できる選手はどこでもできる。
ブラジルでの駆け出し時代は試合に出られず、「試合ができるなら、どこでだってやるよ。行く、行く」と前のめりだった。サッカーをできる喜びの方が勝っていた。やはりあの日々が自分のバックボーンだね。
アスファルトでサッカーをすれば、地面は硬い。だから危ない。でも子どもは適応力があって、硬ければどうするか、そこで生き抜く手段を見いだしていく。「転んだら痛い」と察し、自分で自分の身を守るすべを覚える。そんなブラジルのストリートサッカーが、昔より裕福になったら減ってきたと聞く。だからいいFWが育たなくなったと指摘する声もある。豊かさの皮肉というか、日本でも中高生年代の代表の関係者がぽやいていた。中東へ遠征するといつものプレーが全然できなくなるらしい。普段、へんてこにバウンドしない芝で慣れているから。
真面目にいろいろ細かく敏感になるのは日本人のいいところでも悪いところでもあるような。「アスファルトは足に負担がかかる」と聞けば、少し走るだけで痛い気になってくるとか。僕はといえば「まあ、大丈夫だろ」とゴーサインを出すタイプ。物事に取りかかるときに「よくないんじゃ……」と後ろ向きなのと「大丈夫だろ」と楽しめるのでは、結果も違ってくる。
子どもの頃、言われてね。「いい勉強机を買ってもらわないと、勉強できないのか?」。その気ならベッドの上でもどこでも勉強はできる。与えられる条件って不備も不満もあるものだけど、「これでもできる」とやってみたら、どうでしょうか。
17日の日本対カンボジア戦は人工芝で行われ、「やりづらかった」という選手の反応を新聞で読んだ。そういった適応力が問われる状況では、最高のピッチも劣悪なピッチも、いろいろ経験していることが有利になるんじゃないかな。
思い返すとブラジル時代、ありとあらゆるグラウンドでサッカーをしてきた。たんぼみたいに足を取られる場所もあったし、芝があるのは四隅だけ、中央ははげていたところも。クロアチアでは雪上、というよりアイスバーンで紅白戦をした。そこでプレーするクロアチアの選手がまた、うまい。つまり、できる選手はどこでもできる。
ブラジルでの駆け出し時代は試合に出られず、「試合ができるなら、どこでだってやるよ。行く、行く」と前のめりだった。サッカーをできる喜びの方が勝っていた。やはりあの日々が自分のバックボーンだね。
アスファルトでサッカーをすれば、地面は硬い。だから危ない。でも子どもは適応力があって、硬ければどうするか、そこで生き抜く手段を見いだしていく。「転んだら痛い」と察し、自分で自分の身を守るすべを覚える。そんなブラジルのストリートサッカーが、昔より裕福になったら減ってきたと聞く。だからいいFWが育たなくなったと指摘する声もある。豊かさの皮肉というか、日本でも中高生年代の代表の関係者がぽやいていた。中東へ遠征するといつものプレーが全然できなくなるらしい。普段、へんてこにバウンドしない芝で慣れているから。
真面目にいろいろ細かく敏感になるのは日本人のいいところでも悪いところでもあるような。「アスファルトは足に負担がかかる」と聞けば、少し走るだけで痛い気になってくるとか。僕はといえば「まあ、大丈夫だろ」とゴーサインを出すタイプ。物事に取りかかるときに「よくないんじゃ……」と後ろ向きなのと「大丈夫だろ」と楽しめるのでは、結果も違ってくる。
子どもの頃、言われてね。「いい勉強机を買ってもらわないと、勉強できないのか?」。その気ならベッドの上でもどこでも勉強はできる。与えられる条件って不備も不満もあるものだけど、「これでもできる」とやってみたら、どうでしょうか。
