「反抗していたことが馬鹿らしく感じた」。“自由だった”井手口陽介の価値観を変えた母の病気
2017年09月01日

31日(木)に行われた『2018 FIFAワールドカップロシア アジア最終予選』オーストラリア戦、日本代表は2-0で勝利し、6大会連続となるW杯出場を決めました。そんな大事な試合で、日本の勝利を決定づける豪快なミドルシュートを決めた井手口陽介選手(ガンバ大阪)。井手口選手自らが語るルーツとは。
文●元川悦子 写真●浦正弘、Getty Images
『ジュニアサッカーを応援しよう!Vol.41』より転載
※この記事は2016年7月1日に掲載した記事を加筆・再編集したものです。
井手口陽介
母に『ああしろ、こうしろ』とは何も言われなかった
――サッカーに触れるようになったきっかけから教えてください。
お兄ちゃんが2人(長男・正昭さん=ホアンアイン・ザライFC、次男・稔さん)がいてサッカーをやっていたので、試合をよく見ていたことですね。保育園くらいからお母さんに連れられて行って、横でボールを蹴ったりしていました。
――最初にチームに入ったのは?
小1でアビスパ福岡のスクールに入ったのが最初。そこは週1回でした。当時、家が博多区にあって、練習場のある雁ノ巣(東区)は遠いんで、お母さん(亜紀子さん)が片道1時間くらいの距離を車で送り迎えしてくれました。
小3の時にはスクールで一緒だった子に誘われて、中央FCというチームにも入って、週2回通いました。それ以外の日はお兄ちゃんと結構遊びでボールを蹴ることが多かったと思います。パス交換とかをよくやっていました。でも練習という感覚ではなかったですね。
――中央FCではどんな活動をしていたのですか?
小3から5・6年生のチームに入って練習できたので、すごく楽しかったですし、一生懸命やっていました。試合にはガッツリは出てないけど、たまに連れて行ってもらう感じ。福岡では強い方で、県大会にも行っていたと思います。
――当時のポジションは?
僕自身はずっとFWをやっていました。とにかくゴールに向かって点を取るタイプのFWだったかな。特別にシュート練習をしたりはしませんでした。その頃、憧れていたのは、(元ブラジル代表の)ロナウドとか(元フランス代表のティエリー・)アンリ。点をいっぱい取るから好きだったんだと思います。
――Jリーグの試合を見に行くことは?
あんまりですかね。ちょいちょいスタジアムに行くだけで、そんなに毎週ってほどは行かなかった。アビスパの熱狂的なサポーターということもなかったです。
――中央FCには何年生まで所属していたんですか?
小5だったと思います。中央FCが小5の時にストリートSCと東福岡という2つのチームに分かれて、僕はストリートの方に入りました。そのストリートも人数が少なかった。そういうこともあって、小6の時に油山カメリアーズFCに移りました。
そこのクラブは同学年が 15~16人。技術練習を中心としているチームで、コーンを使ってドリブルする練習も多くやったりするようになって、自分の意識も変わりました。家の前にある公園で自主トレもやるようになりましたね。それまでのチームは走ったり、ゲームばっかりだったんで、プラスになった部分は多かったです。
――今の井手口選手は運動量豊富なボランチと言われますけど、小学校時代の走りも少なからず役立ったのではないですか?
自分ではあんまり意識したことはないですけど、ムダではなかったのかな。チームで走るだけじゃなくて、当時はよく家の裏の川沿いをお兄ちゃんと一緒に走っていましたから。お兄ちゃんに誘われたり、時には自分1人で行って、疲れたらやめる感じで、1時間も走らなかったと思いますけど、心肺機能は多少は強くなったのかな。今、 振り返ってみればよかったのかなと思います。
――小学校時代の一番の思い出は?
油山はフットサルもやっていたので、そっちの試合にも出たことですね。雨の日は体育館でボール蹴ることもあったんで、すごく楽しかったです。フットサルはサッカーとは違った部分があったので、すごく新鮮でしたし、技術も磨かれました。
――小の時はU12ナショナルトレセン九州にも選ばれていますが?
賢星(中島=横浜F・マリノス)や朝陽(増山= ヴィッセル神戸)がいたことは覚えてます。朝陽は保育園が一緒で、隣の小学校やったんで、ずっと一緒でした。朝陽は今のままでしたね。賢星は小学校の途中でマリノスか ら来て、福岡県トレセンでも一緒にやりましたけど、すごくレベルの高い選手でした。 彼らだけじゃなくて、みんなうまかったです。
――クラブが何度か変わって、お母さんのサポートも大変だったと思いますが。
どのクラブもお母さんに車で送ってもらったので、弁当を作ってきてもらって、帰りの車の中で食べて、また家に帰ってから夜ご飯を食べる形でした。僕が高学年の頃は上のお兄ちゃんは大阪の大学に行って、真ん中のお兄ちゃんも高校生で帰りが遅かったので、お母さんと一緒にいる時間が長かったですね。でも特に『ああしろ、こうしろ』とは何も言われなかった。ホントに自分が好きなようにやらせてもらってたし、自由にできたかなと思います。
「サッカーを楽しく感じられるゆとりはあった方がいい」
――小学校を卒業した後、ガンバ大阪ジュニアユースに進むことになりますが、セレクションを受けたきっかけは?
お母さんに「受けてみる?」って言われたのがきっかけです。1次試験はミニゲームをやりましたね。4対4とか5対5だったかな。その後、別の日に2次試験があったんだけど、あんまり覚えてない(笑)。ただ、2次を受けた後、梅津(博徳・現ユースコーチ)さんに呼ばれて「合格」と言われました。その時はアビスパも一応、受けてたんですけど、合格と聞いてすぐに断りました。
――井手口くんがガンバ大阪に入ったのは2008年。トップチームがアジアチャンピオンズリーグでアジア制覇していた頃ですが。
それまでガンバに対しては特に意識していなかったですね。ヤットさん(遠藤保仁)のことは知っていましたけど。
――大阪での生活は?
上の兄ちゃんが大阪にいたので、お母さんと3人で住むようになりました。最初に困ったのは言葉の喋り方。最初は結構周りからイジられましたけど、時間が経つにつれて、何となく慣れました。
――ガンバでの練習については?
最初はレベルが違うなと驚きました。同期には大地(鎌田=フランクフルト)とかプロなっている選手もいて、みんなうまかったです。 僕は入学した時は160㎝くらいで小さかった。でも梅津さんには練習をすごく楽しくやらせてもらったし、自分がよければ中 2・中3の練習に混ぜてもらえた。1つ上には小川直毅くん(現FCティアモ枚方)や内田裕斗くん(現徳島ヴォルティス)もいましたし、同期より上の人とやってる方が技術もスピードも違うんで、すごくプラスになったと感じています。
中1の時には1つ上のJFAプレミアカップに連れて行ってもらえて、全国優勝を経験できました。それまでは全国制覇なんて考えたこともなかったので、ホントによかったと思いました。
――中学時代は思春期特有の悩みが生まれる年頃ですが、井手口くんの場合は?
練習をサボったりすることはあったと思います(苦笑)。ちょっとヤンチャというか、なかなか難しい時期でしたね。その時の監督は鴨川(幸司=現ガンバ大阪ジュニアユース監督)さんだったんですけど、何か言われても僕 はあまり気づかなかった。練習に行かない日は遊んだり、寝たりしてたのかな……。
ただ、自分としては、そんなにサッカー 一辺倒になっても息が詰まるだけだと思うし、多少は別のことをやる方が僕にとってはいいのかなという気がしていました。
――上のお兄さんも横浜FCに入ってプロサッカー選手になった頃ですが、何かアドバイスなどはありましたか?
ウチの兄弟はあまりサッカーの話はしないんで(苦笑)。僕は『コツコツ地道にやらなきゃサッカー選手になれない』といった堅苦しい考え方をしたことがないです。お兄ちゃんも普通にやってるタイプで、自分に似てると思います。
それでもプロになれたのは、つねに楽しむ気持ちを持っていたからじゃないかな。「自由に」って言ったらヘンですけど、サッカーを楽しく感じられるゆとりはあった方がいいと思います。
ただ、プロになってからはそうもいかない面もありますね。試合に出られなかったらやっぱり悔しいし。その分、練習でガンガンやって、使ってもらったら「俺はできる」 というところを見せたいと思いながら、今は取り組んでいます。
――中学時代のポジションは?
いろいろやりました。サイドハーフもやったし、FWもボランチもやりました。最初は前の方がいいかなと思っていたんです けど、徐々にボランチの方がしっくりくるようになりました。いろんなポジションをやって楽しかったし、それぞれの位置で『どこでボールを受けたい』といった感覚や要求が分かるようになった。自分がいつどこに パスを出すべきかをよく考えるようになりましたね。
“価値観”変わった母の病気
――プロになるまでの間に、サッカー人生の大きな転機はありましたか?
ユースに上がって高校に通い始めた頃は、まだ思春期から抜け切れてなかったんですけど、高1の終わり頃にお母さんがガンになってしまったんです。初期ですぐ手術して治ったんですけど、そこから自分が大きく変わりました。お母さんに反抗したりしてきたことが馬鹿げているように感じたし、自分がサッカーを一生懸命やることが一番の恩返しになると思った。そうすれ ばお母さんも元気が出るかなと考えました。『もう心配かけるようなアホなことはやめよう』と決心したんです。
自分はユースからは寮に入ったんで、当時、お母さんと別々に暮らしていましたけど、治療期間は練習を休ませてもらって病院へ行ったりもしました。そうやってサポ ートすることで、人間的にも大人になれたのかなと。その後は練習に打ち込むようになりました。
――その結果、高校3年生だった2014年にトップ登録を果たし、2015年4月の松本山雅戦でJリーグデビューを果たしました。
お母さんは僕がプロになれて、Jリーグ デビューできた時が一番うれしかったのかなと感じます。今もベンチに入った時には毎試合スタジアムに来てくれています。
今年は1月の最終予選にも出ることができましたけど、この先、A代表や海外で活躍しているところを見せられたら、もっと親孝行だと思いますね。
自分の直近の目標に8月のリオデジャネイロ五輪出場があります。それを果たすために、守備のところはもちろんですけど、ボランチとして攻撃で前線に飛び出していったり、ゲームを作ったり、決定的なパスを出すという部分をもっともっと増やしていかないといけない。今はそこが課題です。
――今のガンバ大阪は遠藤選手、今野泰幸選手という日本代表としてワールドカップの舞台を経験した選手たちがボランチを形成しています。その2人から盗もうとしているところは何ですか?
ヤットさんなら攻撃ですね。ボールの持ち方やったり、見てるところ、ボールの置き方というのは見習うことがたくさんあります。今さんだったら守備の部分で、カバーリングやいつボールを奪いに行くのかという部分はすごく勉強になります。2人のセットは今のJリーグでは最強だと思います。
今シーズンの目標はあの2人からスタメンを取ること。自分がどのくらい前進しているのかはよく分かりませんけど、得点に絡む回数をもっと増やさないといけないと思います。いずれは点の取れるボランチになりたい。それが僕の理想です。
――海外で目標にしている選手はいますか?
最近では(フランス代表のエンゴロ・)カンテ(チェルシー)、(ブラジル代表の)パウリーニョ(バルセロナ)、(チリ代表のアルトゥール・)ビダル(バイエルン)ですね、特にカンテは小柄なのに激しくボールを奪いに行けるタイプ。自分も170㎝と小さいので、すごく参考になります。自分も高いレベルを目指して頑張っていくつもりです。