八十路、我らなお人生を楽しまん(致知2013.5月号)

井田勝通が「こうでなくちゃ、すごいな渡辺さんと曽野さんは、負けてられないな」という。「二人とも俺より10歳年上。一生青春。一生現役。俺はまだまだ若造。歳とったなど言っておれない」
 
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イメージ 1老境を超えると、人間は二つに分かれるという。老いて熟す人、老いて朽ちる人―。
その分かれ目はいったいなんだろうか。
上智大学名誉教授の渡部昇一氏、八十三歳。
『老いの才覚』がベストセラーになった作家の曽野綾子氏、八十二歳。
老いてますます意気軒昂、旺盛に自らの活動を楽しむお二人に、
それぞれの人生の「知好楽」についてお話しいただいた。
 
渡辺昇一わたなべ・しょういち-昭和5年山形県生まれ。30年上智大学大学院西洋文化研究科修士課程修了。ドイツーミュンスター大学、イギリスーオックスフォード大学留学。Dr.phil.,Dr..phil.h.c.平成13年から上智大学名誉教授。著書は専門書の他に『修養のすすめ』『松下幸之助成功の秘伝75』『賢人は人生を教えてくれる』『日本興国論』(いずれも致知出版社)など多数。
公式ファンクラブに「昇一塾」。
 
曽野綾子その・あやこ-昭和6年東京生まれ。29年聖心女子大学英文科卒業。第15次新思潮に参加、文壇デビュー。数々の作品を生み出す一方、精力的に社会活動も行い、54年ローマ法王庁よりヴァチカン有功十字勲章受章。平成5年日本芸術院賞・恩賜賞受賞。9年海外邦人宣教者活動授助後援会代表として吉川英治文化賞ならびに読売国際協力賞を受賞。7~17年日本財団会長。日本芸術院会員、日本文芸協会理事。現在、日本郵政株式会社社外取締役。著書に『いまを生きる覚悟』(共著/致知出版仕)など多数。
 
ベストセラーこれは絶対分からない
 
渡部 曽野さんとお会いしたのは、昔のTBSの下にレストランがあって、そこで対談したのが最初じゃなかったかなと思います。四十年くらい前でしょうか。

曽野 覚えていないくらいの大昔であることは確かです(笑)。

渡部 曽野さんは美女で有名でしたから、お目にかかる前にソワソワしていたことだけは覚えている(笑)。その頃、曽野さんの『誰のために愛するか』が二百万部を超える大ベストセラーになって話題になっていましたね。

曽野 先生の『知的生活の方法』がベストセラーになったのもその前後だったのではないですか。でも、私も長年作家活動をしていますが、ベストセラーというのぱどうしてなるか分かりませんね。
 
渡部 分からない、それは絶対に分からない。

曽野 皆さんに聞かれるんですが、分かったら誰も苦労しません(笑)。不思議ですね、あれは。波の相乗効果のようなもので。

渡部 時代の波に合うとかね。こっちが合わせることができない要素がある。でも、そういう本を世に送り出せたということは幸運な人間だと思います。

曽野 これは内輪話ですけれど、私か2010年に出した『老いの才覚』という新書本は、結果的に百万部を超えましたが、初版は七千部だったんです。先生はお分かりになると思いますが、新書なら大体一万部あたりからスタートするのが普通でしょう。だからそれは出版社側が「売れない」と判断したということです。
いま高齢者が増えていることを考えれば七千部は少し少ないかもしれませんが、私は初刷り部数には文句を言ったことがないですから「ぱい、結構ですよ」と申し上げました。

渡部 あの本は気がついたらパッとベストセラーになっていましたね。私もある日、本屋に行ってレジのところに山のように積んであるのを見て驚きました。

曽野 ですから、そういうものなんですね、ベストセラーというのは。人間の浅知恵をあざむいてできるんです。 
 
日本人に染みついた乞食根性

渡部 曽野さんがおっしやったように日本はいま老人が増えています。増え過ぎて前期と後期と分けるようになった(笑)。

曽野 私たちは「後期高齢者」に入るんですね。私は厚生労働省は実にいいところで線引きをしたと思うんです。七十五歳を過ぎてクラス会に参加すると半分以上が病気をしています。

渡部 曽野さんが『老いの才覚』で指摘されているとおり、ただ老人が増えただけでなく、年の取り方を知らない老人が増えています。

曽野 だからこの頃時々、間もなく死ぬのはいいことだなと思っています。日本が実につまらない国になってきたからです。精神がとっても安っぽくなっています。
 戦後の日本の精神的なものを破壊したのは日教組だと私は考えています。彼らは「要求することが人間の権利である」とはっきり言っていましたもの。人間には要求する権利と同時に与える義務があるのです。その片方を完全に落としましたから、受けることだけを要求する乞食根性の日本人ばかりになった。若い人たちだけじゃあ
りません。還暦を超えた人たちも乞食根性が染みついています。
 
渡部 やはり敗戦によって情けない国になったと感じますね。僕らの少年時代は日本人に生まれたというだけで胸が膨らむような誇りがあった。それがいまは、なんとかアメリカとうまく付き合って、一人前の国家の顔をしようという体たらくです。

曽野 昔はどんな小さな借家に住んでいても毅然とした魂を持った人たちがいました。
 
渡部 いましたねえ。うちの近所にも焼き菓子屋のおばあさんがいました。亭主は先に亡くなって、息子も戦死。生活が困っていることは、近所はみんな分かっているから町内会の人が市に補助を頼んだんです。そうしたらそのおばあさんは「お上の世話にはなりたくない」と。誰が見てももらってしかるべきなのに、「嫌だ」と拒むんです。
 それがどうですか、いまの世の中、死んだ親をミイラにしてまで国から年金をもらっている。

曽野 昔は病気やら様々な理由で働けない不遇な人はいくらでもいました。その人たちに対して母はうちの古着を使って、お布団を縫ったりしてあげていました。
 貧しい人の周囲も簡単に「国からもらいなさい」というのではなく、自分のできる範囲のことをしてあげていたのです。

人も国家も世界中か恥知らず

曽野 世界に転じますと、私か不思議なのは、いまだに韓国に「慰安婦でした」と名乗り出てくる女性がいることです。
 
渡部 もし本当に従軍慰安婦という存在があったなら、日本人の女性にだっていたはずです。しかし一人も出てこない。

曽野 仮に「そうであった」と皆が思っていても本人は隠すし、周囲もその人の名誉のために言わないものでしょう。
 これはヨーロッパの方から教わったのですが、日本人は割と気楽に「渡部先生はどちらで終戦を迎えました?」なんて聞きますが、あちらでは私たちより上の世代には絶対に戦争の時にどこにいたかを聞いてはいけない。特にフランスやドイツ、中でもベルリンにいたりしたら必ずひどい思いをしていますから、その傷には触れてはいけないんだそうです。そういった恥や誇りというものが、韓国の人にはないのだろうかと不思議です。

渡部 儒教の国というのは意外と恥知らずなんですな。

曽野 カトリックに娼婦が多いようなものでしょうか(笑)。
 このように、いま国家として恥知らずな国が多くなったように感じますが、私はそれは社会主義が育てたと思っています。
 
渡部 日本は明治以降、どこからも援助を受けずに近代化を進めてきました。不平等な条約は戦争までして正してきたわけです。ところが戦後、世界中が恥ずかしげもなく援助を要求してきます。
 やはり社会主義的な思想になると、もらわないとダメなんでしょう。だから基本的に社会主義は人間を堕落させると思います。
 しかも、よく働いて子供も立派に育てた人も、いま日本は家庭が崩壊していますから、結局最後は一人で養老院に入ることになる。そうなると、フリーターやニートで社会にぶら下がって生きてきた人も落ちゆく先は同じになるんです。これはよくない。

曽野 そのとおりですね。私は努力していい成果を挙げた人にはそれなりに報いがあるのが当然だと思います。その基本を侵すと、社会がおかしくなってくるのかもしれませんね。

年々歳々、人の記憶力は強くなる

渡部 価値観が変わったといえば昔は養老院に入ることは一家の最大の恥でした。いまはそれが当然のようになっている。

曽野 そこに関しては、私もどちらかというと賛成派で、自分も入ろうと思っています。
 私は母と夫の両親の三人を看取りましたが、いまの人は無理だと思います。主人の姉は子供がいなかったのでホームでお世話になりましたが、最近ではそれでもいいのかと思うようになっています。

渡部 でも僕は最後まで自主自立、なるべく人様のお世話にならずに老いてゆきたいと思いますね。

曽野 もちろん、それが人間の基本です。私は女性の場合しか分かりませんけど、生活の真っただ中にいなくなるとボケてくるような気がします。
 私は小説を書くよりお料理のほうが忙しいんです(笑)。物を捨てられない質なので、「あれ、冷蔵庫に大根のしっぽがまだあったな」ということだけで気になって仕方が、ない、もしかするとこういうのが頭の運動にはいいのかもしれない。
 料理というのは総合的な頭の使い方ですね。あれやってからこれやって、と段取りつけますでしょう。それは上陸作戦と同じだと私は勝手に思っていましたが、脳の茂木健一郎先生も「料理をしているとボケない」とおっしやっていました。

渡部 一般的に人は老いると記憶力は衰えるといわれますが、私は語学力も暗記力も年々歳々伸びていると自分では感じているんです。
 五十七、八歳からいろいろな本を暗記し始めて、六十半ばで手ごろなものがなくなって、岩波の『ギリシャ・ラテン語引用語辞典』を全部暗記しようと手をつけました。ラテン語の部八百五十㌻なんて、始めた頃は生きているうちに覚え切れるのかと思いましたが、無事終わって、いま二回目が終わったところです。

曽野 まあ、凄い。私、若い時だってできません。

渡部 しかも、これがラテン語だけの話じやないんですね。
 前に書棚を片づけていたら、菅原道真の律詩が出てきたんです。「こんなのもあったな」と思って片づげたのですが、なんか頭に残っているような気がするんですよ。それで書き出してみたら、ほとんど合っていた。
 要するに、僕はラテン語の暗記を続けていたらラテン語だけではなくて、暗記力そのものが強くなっていたんです。だから人は年を取れば取るほど記憶力が増していく。想像を絶して強くなるんです。

曽野 確かにいま私も書くことが楽ですね。座ったら書ける。だからいまが一番書くのが早いです。
 それはやはり六十年間、十五万枚、六千万字を書いてきたからでしょうね。これは一種の職人芸です。私は若いうちに職人芸を身につけておくべきだと思います。書くことにはある種の思考や哲学の部分は必要なんですが、それを支えるのは書くという職人芸です。

壮にして学ばないから老いて朽ちる

渡部 いまの曽野さんのお話で思い出しだのは、佐藤一斎の、
 「少にして学べば壮にして為すあり。壮にして学べば老いて衰えず。老いて学べば死して朽ちず」
ですね。まさにそのとおりで、若いうちからテーマを持って学んできたことが、中年、老年の時に開花するんです。しかし、多くの人は「壮にして学ばない」。いい学校を出て、いい職場に入って、そこで毎日忙しく仕事をしていればなんとなく学んでいるような気がするけれど、実際は学んでいない。処理をしているだけなんです。
 定年後にすることがないという人がいますが、やはり壮にして学ばなかったから老いて衰えるのです。学者の世界にもそういう人がたくさんいます。

曽野 “先生商売”をなさっている方も学ばないんですか?

渡部 学ばない人が少なくないですね。生徒は毎年変わりますから、昔学んだことをずっと繰り返し喋っていればいい。できる生徒も「この先生、実はバカだな」と気づく頃には卒業していきますから、手を抜こうと思えばどこまでも抜くことができる。楽なものですよ。 ひどい例になると最終講義ができない先生がいますから。最終講義とは大学での自分の総決算であり、なんの話をしてもいいんです。恩師の話でも、これまでの研究のまとめでも、これから取り組もうとしていることでも、なんでもいい。しかし何年間も勉強してこないと、気後れをして関係者や教え子たちの前に立てなくなるんでしょう。少なくともそういう先生を私は二、三人知っています。
 
曽野 私は「聖書」を教わりに神父様のもとに十七年通いました。「新約聖書」はギリシャ語ですから、神父様からギリシャ語で教えてやろうという意図がちらと見えましたので、「私はど近眼ですからギリシャ語でやったら目が潰れます」と予めご辞退して、「ただ、見栄を張って“私はギリシャ語も知っているんだぞ”と言える部分だけ教えてください」ってお願いしたのです(笑)。それがうまくいきました。
 そこで教えてくださったギリシャ語の単語の一つに「ヘリキヤ」という言葉がありました。これは「寿命」という意味の他に、「背丈」と「職業に適した年齢」という意味があるんだそうです。要するに、寿命をどうすることもできないように、背丈もどうすることもできない。そしてその職業に適した年齢をどうすることもできないと。これ、なんとなく分かりますよね。例えばスポーツ選手ならそれにふさわしい年齢がありますもの。

渡部 料理人なんか高校を出た後だと本当に極めるには遅いといいますね。

曽野 らしいですね。私の知り合いで、ある官庁でいわゆる出世をなさった方がいるのですが、ご実家は骨董屋さんをされていたそうです。後を継ぐのが嫌で普通に勉強していたのですが、中学二年頃に、勉強が嫌になり「親父さん、俺、やっぱり骨董屋になるわ」と言ったら、「馬鹿、もう遅い」と言われたとおっしやっていました。
 職業にはそれに適した年齢というのが厳しくあるのだなと思いましたけれど、その点、小説家はいくつになって始めてもいいし、いつまでも続けられます。老いてから「老いぼれの記」なんていうのを書いてもいいんですから(笑)。

強制によって志と覚悟が生まれる

渡部 僕が人生は度胸だなと思ったのは、うちの息子が音楽をやると言った時、家内はそれでは飯が食えないと反対したんですよ。
 でも僕は反対しなかった。音楽が好きなら、生活のほうはゴミ集めの仕事でもなんでもして収入を得て、夜とか休みにでもやればいいと。それでやりたいようにさせましたが、結局、いま本当の音楽家になってどうにか食べていっているようです。

曽野 うちの孫息子もギリシャ哲学をやっています。これも食えない職業です。でも私は「ギリシャ哲学をやった方を数人存じ上げているけれど、飢え死にした人はいないから大丈夫じゃない」と保証してます(笑)。どんな職業についても、普通の生活感覚をもって働いていれば、いまの日本において飢え死にすることはないでしょう。
 そもそも小説家だって「食える職業」ではないですからね。

渡部 曽野さんが作家になろうと思ったきっかけは?

曽野 消去法で、私はど近眼ですから絵も描けないし、音感がないから音楽もダメ。スポーツもできない。そうすると物を書くことしかできなかった。だから逆に、なんでもできる方はお気の毒だと思いますね。迷うでしょう。

渡部 物を書くのは小さな頃からお得意だった?

曽野 母がいささか変わっておりまして、小学校一年生の頃から私に作文の個人教授をつけたんです。
 理由はもっと変わっています。あの時代は電話もない時代ですから、「いい恋文が書けるように」と。そしてもう一つ、「あなたがろくでもない男と結婚して、食うに困って一家心中を考えた時、親戚が憐れんでお金を貸してくれるような無心の手紙が書けるように」と(笑)。いま思うとこれはなかなかの卓見です。
 そういうことで、毎日曜日に作文を一つ書かないと私は外に解放してもらえないんです。日曜日の朝になるとうんざりしておりましたが、そういう修業をして、小学校六年生の頃には、嘘でも本当でも自由に物を書けるようになっていました。

渡部 最初は嫌いだった?

曽野 大嫌いでした。それでも、やっているうちに途中から好きになりました。
 だから、私は「教育とは強制」と考えているんです。それで政府の委員会で「十八歳になったら全国民に奉仕活動をやらせればいい」と申し上げたら、「教育とは自発的でなければならない」と日本中から叩かれました。

渡部 そうでしたね。

曽野 私は「それは違います」と言い続げました。教育は幼い時と、その道を初めて学ぶ時は強制から始まるんです。
 心配しなくとも、嫌ならそのうちやめますから。私も作文の他にピアノと踊りもやらされましたが、ピアノはすぐやめましたし、踊りのほうも途中でやめましたが、まあ恥知らずにはなったんです。いまでも「踊れ」と言われたらすぐに盆踊りには加りますから。
 だから三つやらせれば二つは脱落する。ボランティアも三人いれば二人は嫌々でも、一人が興味を持ってその後も続けていけばいいのではないかと。そんなものですから、教育とは強制でいいというのが私の考えです。

渡部 同感ですね。僕は戦時中、勤労動員で駆り出されたでしょう。山形の最上川の堤防づくりやらなんやら、言ってみれば強制労働です。それで結論は「俺は絶対に肉体労働には就きたくない」と(笑)。
 
曽野 そういう体験から出たことが、確固とした結論なんですよね。

渡部 そう、志と言ってもいいし、覚悟と言ってもいい。

曽野 やらせてみなければ本当に好きか嫌いかなんて分からないんですよ。いま自分の好きなことが分からないといって仕事に就かなかったり、就いても早々に辞める人が多いといいますが、自発性なんかに任せるとそういうことになるんだと思いますね。

生涯を賭けない仕事はすべて偽物

渡部 お母様のお話をお聞きして分かりましたが、曽野さんはやはり幼少期の家庭の教育がよかったんですね。

曽野 私は本当にいい教育を受けたんです。母だけではなく、聖心という修道院の学校にいましたので、毎日祈ることで死に対する教育を受けたと思っています。
 また、この世が儚いものだということも徹底して教えられました。だから「安心して暮らせる社会」なんていう言葉は、間違っても使いません。東日本大震災以後、テレビや新聞で頻繁に使っていますが、そんなものは詐欺師が使う言葉です。

渡部 当時のカトリックの学校の教育がよかったのかもしれませんね。関係者の腹の据わり方がいまとは全然違うというか、戦時中、上智にいた神父さんは麹町が焼ける時、その火を背にしてバイブルを読んだといいます(笑)。

曽野 当時のシスターは自分の一生をすべて神に捧げていて、異国赴任を命じられれば二度と生きて本国には戻らなかった。聖心で教えていた先生方も、リバプールから発つ時が、イギリスは一生の見納めだったわけです。
 そういうシスターだちの生き方から、私はどんな仕事であっても、生涯を賭けなければ何事もなし得ないと学びましたね。生涯を賭けない仕事は全部偽物です。

渡部 そのシスターたちの姿から曽野さんは『不在の部屋』を書かれたんじやないですか。

曽野 そうです。あの作品は昔の修道院を描きましたが、バチカン第二公会議以来、二度と本国の土を踏まないと思ってヨーロッパを出てきたシスターたちが帰るようになりましたし、昔みたいな大部屋ではなく一人部屋を与えられて、要するに修道院のルールが甘くなったのです。
 それで私か感慨深いのは、命の危険がある修道会のほうがむしろ志願者が続くことです。   
 
渡部 あれは不思議ですね。

曽野 アフリカはマラリアなどの病気の危険性もあるし、テロの可能性もある。そういう地域に修道者を送る会は後継者が続きますが、そうじゃないところは続かないんです。
 私も詳しくはないのですが、フランスの植民地時代、「暗黒大陸になんとかして神の光を差し込ませるのだ」と、マリのトゥンブクトウを目指して宣教師がたくさん行きましたが、あの危険な時代が一番志願者が多かったそうです。皆殺しにも遭いましたが、その後も志願者は後を絶だなかった。
 それがいまは危険なら行かない、やらないという調子になって、却って魅力がなくなったらしいです。

渡部 そういうパラドックス的なことが起こるんですよ。

曽野 そうですね、まさにパラドックスです。人間には安全を求めるのと同時に自分の信じたものに対して命を賭けたいという、本質的な希望があるんだと思います。

分に応じた考えができないと不幸になる

渡部 昔アメリカにノーマン・ピールという牧師がいました。『積極的考え方の力』が大ベストセラーになり、ポジティブシンキングで世界的に有名になった人ですが、後に自分か出た神学校に講演で訪れたらすごく冷たい扱いを受けたそうです。なぜかと言えば、「神学校はポジティブシンキングなどと個人を対象にしてはいけない。社
会を変えるのだ」と言っていたそうですが、気がついたらその神学校はなくなってしまったと。

曽野 背負っちゃったんですね。社会なんて人間が変えられるものじゃないんです。
 私も毎年アフリカに行きますが、いま目の前にいる一人を助けられたらいいな、というだけの話であって、アフリカを助けよう、社会を変えようなんていうのは、私から言わせれば思い上がりです。人間は分に応じたものの考え方ができないと不幸になる気がします。

渡部 僕は若い頃にスイスの法学者カール・ヒルティの著作を読んで大変な影響を受けました。ヒルティは非常に道徳的なことを説いた人ですが、すべて身の丈に合ったことしか言っていないんです。
 だから自分が一時に面倒をみられる孤児は一人だと。一人の孤児が成長すると、今度はまた別の孤児の面倒をみるという具合に、常に一人の面倒を見続けました。
 じやあ俺は何かできるかなと考えて、教授時代にポケットマネーで麹町にワンルームマンションを借りて、私のゼミの学生たちに自由に使わせました。これが私の身の丈に合わせてできることだと思ったからです。立派な慈善活動などは私の身の丈を超えていると思っていました。
 文学部の研究者が困るのは、集まって勉強する場所がないことです。だからたまり場にして、互いに教え合ったり、輪講したり、学校の単位とは関係のないラテン語やオールドーイングリッシュを勉強したりして、どんなに遅くなっても構わない。時には泊まり込んで勉強してもいいと。私は一度も訪ねたことがないのですが、そういう空間を学生たちにつくってやりました。
 それでつい先日、東北大学で私がつくった学会の二十周年の会があったのですが、教え子たちも集まって、いまや立派な大学の先生になった彼らが口を揃えたのが、「あの部屋がよかった」「あの部屋のおかげだ」ということでした。

曽野 素敵なお話ですね。それはどのくらいお続けになったのですか。

渡部 子供たちが独り立ちしてから私か退職するまで、十年以上やりましたかね。うちの子が留学していた時、だいたい月に十数万円かかっていたんですよ。だから四人目の子供がいると思ってやればいいかなと。

曽野 とはいっても、なかなか実践できる人は少ないでしょうね。

渡部 僕が入学した頃、上智と言えば名もない小さな大学でした。いや、大学とも呼べない塾のような小さな学び舎で、日本人の英語学の先生はいなかったんです。私が第一号となりましたが、学界の人脈は明治以来脈々と続いているからそう簡単には割り込めない。僕にはなんの政治力もなかったのですが、うちのゼミの教え子たちがいまや旧帝国大学をはじめとして日本全国の大学で英語学者として教壇に立っています。それがあの部屋のおかげだというなら、無駄な出資ではなく、むしろ意義ある投資だったと思います。
 僕は上智大学には非常にお世話になりましたので、こうして何人もの英語学者を育てることができて、一つのご恩返しになったのかなあと思っています。
 
知好楽の原点
 
渡部 僕は大学院の卒業式の時のスピーチで必ず『論語』の、
「子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」
を用いてきました。
 「物事について知識があっても、それを好きな人にはおよばない。もっと言うなら、その事を好きであっても、それを楽しんでいる人にはおよばない」という意味ですが、英文学で大学院を出るくらいだから、多少の知識はあるだろうし、好きであるには違いない。しかし、大部分の人はそのうちやめてしまう。それは楽しむところまで行かなかったからである、というようなことを縷々述べているのですが、我が身を省みますと、いま本当に勉強が楽しい。専門の英語学に限らず、学ぶこと自体が楽しくて仕方がないんですよ。

曽野 本当に楽しいですね、老いてからの学びは。こんなに生きてきてそれでもまだ知らないことがあるというのが、また楽しい。

渡部 その原点を考えてみると、旧制中学時代に遡(さかのぼ)ります。僕に山形の片田舎で英語を教えてくれた佐藤順太先生との出会いです。
 この方は専検を通って高等師範に進まれて、既に退職していたのですが、戦争で教師が不足していたんでしょう。私の中学の英語の講師として戦後引っ張り出されたわけです。この先生の授業を受けて、僕は英文法が魔法のように感じられました。文法をしっかり身につけ、それに則って単語を一つずつ追っていくと、どんな偉大な
哲学者の思想であっても、田舎の少年が追体験できる。これには恍惚となりますよ。
 それで佐藤先生に敬愛の念を抱き、高校を卒業した時、「先生のおかげで英語の道に進みます」とお礼状を出したんです。するとお返事が来て、家に遊びに来いとある。お訪ねして書斎に招かれ、一歩入って息をのみました。和漢の木版本が書倹飩(しょけんどん)に入れて天井まで積んである。分厚いアメリカの辞書も置かれていて、イギリスの百科事典も並んでいる。隅には碁盤が置いてある。「いいなあ」と思いました。万巻の書に囲まれて気の向くままに本を読む。時には息を抜いて、碁を楽しむ。こういう生活がしたい、こういう老人になりたい、
と思ったんです。この思いは強烈でした。

曽野 それが問題の始まりだったのですね(笑)。先生は古書の蒐集(しょうしゅう)家としても有名ですが、なんでも本のために家を新築された……?

渡部 はい、七十八歳の時にこれまでの蔵書を並べるためだけに家を建てました。

曽野 凄いですね(笑)。本は何冊くらいおありですか?

渡部 さあ、数えたことがないから分かりませんが、洋書だけでも一万点以上はあると思います。一点数百冊というのもあります。本というのは重いんですよ。ですから鉄骨七十㌧使いました。いまも毎日本が増え続けていますが、新築して本をすべて並べてみましたらね、これを使わないで死ねるか、という気持ちになります(笑)。
 それなら病院に入って医者にお金を払うよりずっといいなと思っています。

人生は最後の一手まで分からない
 
曽野 学校での学びも大きかったと思いますが、私の人格形成に一番の影響を与えたのは戦争と両親の不仲だったと思います。家庭内がとてもいびつでしたから、それがよかったと思います。小説家にとっては貧乏も戦争も歪んだ家庭環境も、何もかも肥料でした。
 父は別に酒乱でもない、外に女をつくる人でもない、借金を踏み倒すような人でもない。けれども母とは絶対に気が合わなくて、人をなじるところがありました。
 おかげで私は家庭内暴力というものを小さい頃から知っています。いま政府が虐待を受けている子供が訴えやすいようになんてやっていますが、いくら制度ができても子供はほとんど訴え出ませんよ。やはり親をかばうんです。そういうこともあの環境で学びました。
 父は慶應義塾を出て、見かけはとってもいい人なんです。だから外見と内面は違うということも子供の頃から叩き込まれました。おかげて私は人生や人間に対して甘い考えはありません。いい教育だったと思います。父にはうんと感謝しています。
 そしていま、年を重ねて人生が楽しいと感じるのは、人生の出来事はすべて関係があるということが見えてきたからじゃないかと思います。この世に独立したものはない。いままで全く関係がないと思っていたことが、ここでこう繋がるのかと見えるようになってきた。だからいま前にも増して世の中のことが面白くなってきました。

渡部 僕はこの頃、人生というものはすごく大きな碁盤のようなものだと感じていて、最後の最後に石を置くまで勝負は分からない。僕も碁のことはそこまで詳しくないのですが、変なところに石を置くと石がみんな死ぬことがあるでしょう。逆に危ない局面だったのがみんな生きることもある。
 同じように、渦中にあっては非常にマイナスだと思う出来事も、 ある瞬間ガラッと変わって精神の財産になることがありますね。

曽野 まさにそうです。いまの方はマイナスはマイナス、それを肥やしにしている人が少ないような気がします。
渡部 僕がこの頃しきりに感じるのは、平凡な話ですが、なんでもありかたくなってきた。
 例えばタクシーに乗る。僕は夕クシー運転手にはなれないから、やってくれる人がいてありかたい。僕の本も出版社の人がいて、書店の人がいてくれるから、読者の皆さんの手元に届く。もう、秘書なんて一日中僕のためにメールを打ったりFAXを送ったりしてくれているから、本当に拝みたくなるくらいありかたい。

曽野 なんでもない、些細なことがありかたく感じますね。

渡部 一方で、このありがたい人生は日本という国があっだからこそ享受できたと思うんです。
 やはり僕は世界のどの国が潰れても、日本だけは残ってもらいたい。というのは、いまのところ日本は世界で一番いい文明をつくりつつあると信ずるからです。

曽野 私は意地悪ばあさんですから(笑)、日本は自滅するなら自滅すればいいと思うんです。例えばよく「戦争を語り継ぐ」なんていいますが、絶対に語り継げるものじゃないんです。体験は移し植えられないんです。だから私は語る気はありません。
 日本人が自分たちで考えて、自滅するならするでしょうし、立ち上がるなら自分たちで立ち上がるでしょう。

渡部 これは曽野さん流の、愛ある叱咤ですね(笑)。
 私はこの日本が平和で宗教戦争もない、そんな国家があり得るということを世界に示して「世界の師」となる国となってもらえたら思い残すことはない。そのためにも自分自身が老いてますます意気軒昂に仕事をし、もう何年残っているか分かりませんが、人生を最後まで全うしたいですね。

曽野 私は本当に楽しい人生を送らせていただきました。いいこと、楽しかったことをよく記憶しておいて、いつもその実感とともに生きています。これだけ面白い人生を送ったのだから、いつ死んでも構わない。そういう一日を積み重ねていきたいと思います。