夢を持って 不動心で生ききる 大村智 (致知2017.06)
「智、世の中で一番大事なことは、人のためになることだ」
と、私は祖母から繰り返し言い聞かされて育った

◆世の中で一番大事なことは人のためになることだ
本日は、このようにたくさんの方々の前でお話をさせていただきますことを、大変光栄に存じております。
私は『致知』を長年愛読しており、私の生き方はこの雑誌の影響を色濃く受けていると思っております。そんなご縁で、藤尾社長から講演のご依頼をいただきました
けれども、未熟者の私が人間学を説くのはちょっと荷が重く、まあ「私が歩んできた道にぐらいならお話しできるだろうということで、本日ここに立たせていただくこと
になりました。
私は大学を卒業して都立高校の教員になりましたが、二十八歳の時に発心して研究の道を歩むことにいたしました。「おまえの経歴で研究者になってもあまり将来性がない。このまま教師を続けて将来は校長にでもなったほうがいい」というのが、私の周りの圧倒的多数の方々の意見でした。そんな私が今日までどのように歩んできたのか。生い立ちから順番に振り返ってまいりたいと思います。
私は一九三五年、山梨県の農家に生まれました。詩人の大岡信先生は「眺望は人を養う」と説いておられますが、私が生まれたところは非常に風光明媚であり、また神を敬いご先祖を崇める敬神崇祖の精神も根づいており、そのような素晴らしい風土に育まれて幼少期を過ごしました。
子供の頃、最も影響を受けたのが、農作業で忙しい両親の代わりに十歳まで面倒を見てくれた祖母でした。私はこの祖母から「智、世の中で一番大事なことは、人のためになることだ」と繰り返し、繰り返し言い聞かされて育ったのであります。
父は村の顔役として毎日忙しく飛び回り、母は終戦まで小学校の教員をやっておりましたが、私はこの両親から勉強をするように言われたことがありません。なぜなら、私が勉強をすると農作業を手伝わせることができなくなるからです。
農繁期になりますと、暗いうちから起こされて両親と一緒に野良仕事をし、近所の仲間がゾロソロと家を出てくる頃にようやく解放されて学校へ行きました。父は私に農業を継がせ、多少なりとも村のお役に立つ人間にしたかったのでしょう。私に農作業を徹底的に教え込むわけです。おかげで中学三年の頃には、馬の背中に大きな俵を括りつけることもできるようになっていましたが、これは村の青年でもなかなかできないもので、随分驚かれたものです。
とにかく農作業は厳しく、少年の小さな体でそれをこなすのは大変なことでした。しかしコンラート・ローレンツというノーベル賞学者が「子供の時に肉体的に辛い経験を与えないと、大人になって人間的に不幸だ」と言っているように、厳しい農作業のおかげで徹底的に体力も精神力も鍛えられ、私はとても幸せだったと思います。
いずれ自分はお百姓をやるんだと考え、あまり勉強はしなかった私を、中学校の恩師である鈴木勝枝先生は随分可愛がってくださいました。農繁期に学校を休んで田んぼで働いていると、ぬかるんだ畦道を歩いて来て「きょうは学校でこんなことかあったよ」と教えてくださったり、「将来は村長になるのに、こんな字を書いていたらみっともないよ」と教えてくださったり、いつも気に掛けてくださっていました。
私は後に研究者となり世界中を飛び回るようになっても、この先生にだけはハガキを書こうと心に決め、現地で絵ハガキを買っては近況を報告しておりました。お亡くなりになる前に少し認知症の気があったらしいのですが、私の名前は最後まで覚えておられ、友達から羨ましがられたものです。
子供の時に肉体的に辛にい経験を与えないと、大人になって人間的に不幸だ
◆スキー三昧から一転大学へ進学
お百姓をするには体を鍛えなければならないと考え、高校からはスポーツに打ち込みました。特に力を入れたのがスキーと卓球で、スキーは高校三年の時に山梨県の選手権大会で優勝して以来、長距離で五年連続優勝を果たしました。
同級生は受験勉強に励んでいましたが、私はスキーや山にばかり行って、高校三年の時は一番成績の悪いクラスに在籍していました。ところが、高校三年の春に盲腸の手術をし、療養中に本を読んでいるのを父が見て、「勉強したいなら、大学に行かせてやる」と言ってくれたのです。そうか、そんな道もあったのかということで、夜は数時間しか寝ずに猛勉強を始めました。先生には無理だと言われていましたが、何とか山梨大学に受かったのです。
クラスからは二人しか国立大学に受からなかったそうですが、大学に入っても私は相変わらずスキーに明け暮れていました。ありがたかったのは、担当教官の丸田銓二朗先生が、いつ研究室に顔を出してもすぐ実験ができるよう取り計らってくださったことです。実験のできない科学者は科学者とは言えず、これは科学においては一番大事なことです。後年、研究の道に進むことかできたのは、丸田先生のおかげです。
◆自分の身を高いレベルに置くこと
スキーでは山梨県代表として国体に二回出場しましたが、私はスキーからも大事なことを随分学びました。私はたくさんの優勝カップをいただきましたが、それはレベルの高い新潟県に行って練習したからで、山梨に帰れば楽々優勝できる力が自ずと身についていたのです。この経験を踏まえて私は、自分の身をなるべく高いレベルに置くこと。人を教育する立場にいるなら、そういう環境をつくってやることか大事だということをいつも申し上げています。
また、私が指導を受けたスキーの名手・横山隆策先生のお話では、かつて新潟県は北海道にどうしても勝てなかったそうですが、北海道へ行って教わるのをやめて自分たちで独自に工夫するようになって初めて北海道に勝てるようになったとのことでした。これは研究にも通じることです。あるレベルまでは優れた人の指導を仰ぐことが大切ですが、それを超えるには自分独自の創造性や個性を生かして戦わなければ勝てないことを、私はそのお話から学びました。
雪のない夏になると地質学の田中元之進先生の元で地質調査を手伝いました。田中先生には随分可愛がっていただき。ある日昼食をご一緒している時にいただいたお話は、いまも心に残っています。
「大村君、どこの大学を出たとか、何を学んだとかいうことは、世の中に出てあまり役に立たないものだよ。一番大事なのは、卒業してから五年しっかり頑張ることだ。そうすると何かを物にすることができる」
後でお話ししますが、この助言によって私の人生は大きく開けていったのです。
◆自分は一体何をやっているんだろう
大学を出たら教職に就こうと考えていましたが、あいにくその年は地元山梨での採用がなく、倍率三十倍以上の東京都の高校教員採用試験に合格し、、東京都立墨田工業高校夜間部の教員として働き始めました。学校では化学を教え、顧問を務めた卓球部を都で準優勝に導くなど、充実した教員生活を送っていました。
小学校の教員として務めていた母の日記に、「教師の資格は、自分自身が進歩していることだ」と書かれていました。これは非常に厳しい箴言で、絶えず進歩しながら教えていくことの大切さを母から教わった気がします。
夜間で学ぶ生徒は仕事との両立が大変で、三十五人入っても卒業する時は二十人、十五人になってしまうのが常でした。私は、とにかくこのクラス皆で一緒に卒業しようというのを合い言葉にして皆を励まし、墨田工業高校で一番多くの生徒を卒業させたのではないかと思っています。
そこでまた学ぶことがありました。学期末試験の時に、時間ギリギリに飛び込んできた生徒がいました。答案用紙に向かうその生徒の手を見ると、油で汚れているのです。それを見て私は大変ショックを受けました。この生徒は仕事をしながらこんなに一所懸命勉強をしているのに、自分は一体何をやっているんだろうと。
そこで脳裏に甦ったのが、先ほどご紹介した、五年が勝負だという田中元之進先生のお話です。よし、では五年間もう一度心を入れ替えて学び直そうと決意して、まず上京して二年目に東京教育大学(現・筑波大学)の聴講生として一年間勉強し、さらに東京理科大学の大学院に進みました。昼間は理科大で勉強し、夕方になると墨田
工業高校で教え、授業が終わると理科大の研究室や東京工業試験所の研究室で実験に打ち込むといった生活をしておりました。
あの頃は、給料をもらうとまず通学・通勤用の定期券を買い込みそれから食料確保のため即席ラーメンを一箱買い込んでおく。あと残ったお金はほとんど学納金や本を買うのに費やして勉強していました。そうして理科大の修士を大学卒業後五年で修了した私は、教師を辞めて研究者になることを決意したのです。
教師の資格は、自分自身が進歩していることだ
◆朝は誰よりも早く研究室へ
冒頭にお話ししましたように、周囲からは「おまえの経歴で研究者になってもあまり将来性がない」と反対されましたか。運よく山梨大学の丸田先生から声が掛かり、二年間ブドウ酒やブランデーの研究をしました。そのうち、自分が学んできた化学と微生物学の両方が生かせる研究をしてみたいと考えるようになりました。
そんな折に東京理科大学で助教授の採用があると聞き、山梨大学に辞表を出して転籍の準備を進めていたところ、状況が変わり理科大のポジションが空かなくなってしまったのです。
困っているところへ、友人の佐藤公隆君から北里研究所が学卒を一人募集しているから受けたらどうかと勧められました。大学を出てもう七年も経っており、学卒と競って受かる自信はありませんでしたが、幸い二人採用してくれ、どうにか北里研究所に転がり込むことができました。
しかし、これまでのギャップを埋めるのは並大抵のことではないと自覚していた私は、毎朝誰よりも早く研究所へ行き、他の方が出てくるまでに文献を読んだり、一通り実験の準備を終えているようにしました。するとあっと言う間に認められるようになり、研究も順調に運ぶことができたのです。
私の研究は、自然界のあらゆるところから微生物を分離し、それを培養した培養液の中に求める化合物が入っているかどうかを調べていくものです。一方、微生物のほうはその菌株を保存して、分類学的にどのような位置にあるかを研究する。そしてこれは役に立ちそうだとなれば、本格的な研究開発に入るわけです。
当初、私の研究室にはスタッフが五、六人しかいませんでしたが、いまでは七十~八十人の大所帯になりました。二〇一五年までに我われが発見した化合物は四百八十八になりますが、こんなにたくさんの化合物を発見したグループは、世界中で我われのところしかありません。このうちの二十六種類の化合物が実際に使われていますが、ここからはそのうちのエバーメクチンとイペルメクチンにまつわるお話をしたいと思います。
◆大恩人ティシュラー先生との出会い
ご縁があって、私の研究室に日本抗生物質学術協議会の常務理事・八木沢行正先生のご子息が配属になりました。彼が私の部屋で熱心に実験に打ち込むのをお喜びになった八木沢先生は、私にアメリカで勉強するよう勧めてくださり、カナダーアメリカのめぼしい研究所、大学に紹介状を書いてくださいました。一か月ほど学会へ出席しながら紹介先をすべて回り、帰国後、留学先を五つに絞って手紙を出したところ、すべてオーケーの返事をいただきましたが、一か所だけ、給料がよその約半額のところがありました。ただ、電報で真っ先に返事をくださり、よそと違ってポストドクター(博士研究員)ではなく、客員研究教授として迎えてくれるというのです。
それまで苦労をかけてきた家内に相談すれば、一番給料の高いところにしましょうと言うのは分かっている。それでもそのオファーは何か違うなあと。結局一番安いところに行ったわけですが、それかよかったのです。
そのオファーをくださったのは、ウェスレーヤン大学のマックス・ティシュラー先生でした。ティシュラー先生は、アメリカの製薬大手メルクの中興の祖と謳われる大物で、ほどなくアメリカ化学会の会長に就任されました。十六万人もいる会員のトップですから大変忙しく、私の研究姿勢を高く評価してくださった先生は、研究室のマネジメントをそっくり任せてくださったのです。その上、先生の元を訪れる学会の大御所は、ほとんど紹介していただきました。まさに私の大恩人です。
きょう私が締めているこの自慢のネクタイは、先生の形見です。先生がお亡くなりになった時に奥様からいただいたものですが、大事な時はいつもこれを締めて、先生のご恩を忘れないようにしています。
◆よそと変わったことをやらなければダメ
アメリカの研究環境はとても素晴らしく、私はこのままずっとアメリカにいてもいいなと思っていましたが、突如として北里研究所の水之江公英所長から、予定を早めて帰って来てくれという連絡が入りました。私の所属していた研究室のボスが定年退職するので、君に後を継いでもらいたいというのです。私よりも上の方がたくさんおられたのでビックリしましたが、その所長にはお世話になっていたので帰らざるを得なくなりました。一九七二年のことです。
当時の日本はまだ発展途上で、貧乏な日本の研究所に戻れば、アメリカと同水準の研究を続けられなくなります。ただ、私は日本人の頭脳は素晴らしいと思っていて、お金さえあれば絶対大丈夫だと考えていました。
そこで知恵を絞りまして、向こうの会社に共同研究の提案をして、研究資金を出してくださいと掛け合ったのです。私はその資金を使って日本で研究をする。成果が出たら御社にライセンスを渡すから、儲かった分から特許料を払ってくださいと。これを私の米国の友人は「大村方式」と名づけました(笑)。
留学する時は一番給料の安いところを選びましたが、帰る時はティシュラー先生の勧めもあり、一番たくさんの研究資金を出してくれるメルクと契約を結びました。留学する日本人はたくさんいますが、このように研究費を確保して帰って来るなんて人は恐らくいないでしょう。まさに人生の分かれ道だったと思います。
では、研究費の支援を得て帰って何をやるか。当時の自分の研究室では、まだそんなに大きなことに取り組める状況ではありませんでした。相撲では昔、舞の海という小さな力士か曙という大きな横綱を倒しましたが、もし舞の海が曙と同じことをやっていたら勝てなかったでしょう。私の研究所も同様に、よそと変わったことをやらなければダメだと考えました。当時は人の薬を開発して、その使い古したものを動物にも使っていましたが、私は動物用の薬を先に探してみることにしたのです。
そういう中で一緒に仕事をするようになったのが、ウィリアム・キャンベルさんという非常に優秀な研究者です。動物が感染する寄生虫の研究をしており、彼と開発したエバーメクチンとイベルメクチンによって、私たちはノーベル物理学・医学賞を受賞したのです。
◆世界で三億人を救った画期的な薬
この薬は、まず動物用の画期的な抗寄生虫薬として一九八一年に売り出され、二十年間ずっと売り上げトップに君臨し続けました。これは人間にも非常に安全で効果の優れた寄生虫薬ということで、一九八七年にフランス政府の認可を得ました。
この薬のかつてない効果を少しご紹介しますと、カナダの牧場で、ダニで皮膚が侵されカサカサになった牛に、二百マイクログラム/キログラムという少量を一回皮下注射するだけですっかり治ってしまう。それから、フィラリアを媒介する蚊の発生する夏の間、犬に飲ませるとフィラリアに感染しなくなり、昔は八、九年で亡くなっ
ていた犬が、十何年も生きるようになりました。
人間にとってはもっと大事なことがあります。一九七三年にロバート・マクナマラという世界銀行総裁が、「西アフリカ諸国の人々の健康と経済的な見地から、最も重篤な病気はオンコセルカ症である」と発表しました。オンコセルカ症はブヨが媒介する線虫によって発症し、皮膚に酷いかゆみを起こしてミクロフィラリアが目に入り、これが死滅すると失明する大変な病気です。私も現地に行ってみましたが、集落の五人に一人はこの病気のために目が見えないのです。そうなると農業もできないから経済発展もできない。これを何とかしようということで一九七四年に撲滅運動が始まるんですが、なかなかいい薬がなかった。 それからもう一つ、リンパ系フィラリア症という蚊が媒介して罹る病気があります。西郷隆盛も罹ったと言われていますが、これか酷くなった人の脚を見ると、何を履いているんだろうというくらい腫れ上がっています。世界人口の二割、十三億人以上がこの病気の蔓延地域に住んでいて、二〇〇〇年当時には八十三か国で一億二千万人、日本の人口と同じくらいの大が感染していました。
そこへこのイペルメクチンが生まれたわけです。この薬を「メクチザン」という名で無償供与することになりました。それによってこれらの病気は激減し、リンパ系フィラリア症は二〇二〇年、オンコセルカ症は二〇二五年には撲滅できると言われています。
非常に安全な薬ですから、現地にお医者さんや看護師さんがいなくても、村人がちょっと講習を受ければ投与できます。二〇一三年には他の病気の大も合わせると、世界中で三億人もの人がこの薬を飲んでいます。
かつて私が現地を訪れた時の子供たちも、いまでは立派な青年になっています。テレビのインタビユーに、「この薬のおかげでもう目が見えなくなることはない。だからいまは、村人のために一所懸命頑張っています」と答えているのを聞いて胸が熱くなりました。
日本では糞線虫症といって、沖縄で何万人もの人が感染していた病気がありますが、琉球大学の斎藤厚先生の研究でイペルメクチンによって治ることが分かり、間もなく撲滅できます。沖縄の医師会から感謝状をいただきましたが、私がやったわけではない。微生物がつくってくれた薬なのです。
それから疥癬。これはダニによる病気で、皮膚科の先生が一番手こずる病気なんですが、イベルメクチンを一回飲むだけで半分の人は治ってしまう。治らなくても二回飲めば九十五%以上は治ってしまうのです。皮膚科の学会で講演を頼まれた時には、皮膚科の革命だと称賛していただきました。
金がないから何もできないという人間は、金があっても何もできない人間である
◆研究を経営する
さて、私の郷里・山梨の出身者に小林一三という大先輩がいらっしゃいます。阪急電鉄や東宝、宝塚歌劇団などを起こした大実業家ですが、この方が「金がないから何もできないという人間は、金があっても何もできない人間である」と言っています。
この言葉を聞く度に思い出すのが、先ほどお話しした、アメリカから帰国する時にメルクと交渉して研究資金を確保したことです。ところがしばらくしたら、また困ったことか起こりました。
北里研究所は設立五十周年を迎えた時に学校法人北里学園を創立し、そこに北里大学をつくりました。ところが大学を発展させるために資産を大学へどんどん費やしてしまって研究所が倒産寸前になり、私の研究室も解散してくれというわけです。解散したら十分な研究を続けられなくなりますから、私は非常に厳しい覚書を交わし、私の研究を通じて賄った資金で研究室を十年もたせてみせよう。それでもダメだったら手を上げようと肚を括りました。
幸い五、六年で特許料が入るようになってどうにかクビが繋がりましたが、もしあそこで研究室を閉めていたら私はノーベル賞をいただけなかったでしょう。世の中にはそういう厳しいことがありますが、そこで踏ん張らなければ成功への道は歩めない。小林一三の言葉は、そのことを示唆しているように私は思います。
しかし、その後も北里研究所の経営状態は思わしくなく、私は教授を辞めて副所長になり、背水の陣で研究所の立て直しに臨みました。経営を研究するという言葉はしばしば耳にしますが、その頃の私は、「研究を経営する」という言葉をよく使いました。
これにはまず、質の高い研究者を育成すること。そして優れた研究アイデアの着想・考案、そのための資金の確保、そしてそこから得た成果を社会に還元することが大切だと考えました。
中でも人を育てるのは大変なことで、研究所の研究環境のレベルを上げなければ優れた人は育ちません。そのために私は、海外から優れた研究者を呼んで若い研究者に話をしてもらいました。セミナーに来てくれた方々はホームパーティーに招いて家内の料理でもてなしました。狭い家でしたけれども、何度もパーティーを開いてできるだけ大勢の方を招いて交流を続けてきました。
セミナーは三十年で五百回も開き、三分の一はノーベル賞受賞者を初めとする著名な海外の研究者にご講演いただきましたか、日本の大学や研究所でこれだけセミナーを続けた人はいないと思います。おかげさまで若い人たちも成長し、百二十人が博士になり、そのうち三十一人か大学教授になっています。それによって研究を一層発展
させ、また研究所も経営を立て直すためのいろんなことができたわけです。
経営には全くの素人であった私は、家内の伝で紹介いただいた井上隆司先生、研究所の監事を務めていただいた東洋曹達工業元会長の二宮善基さんや、東京海上火災保険元会長の渡辺文夫さんから、いろいろなお話を聞きながら経営の勉強をさせていただきました。後で友人から伝え聞いた話ですが、渡辺さんか「大村に大企業の社長をやらせてみたい」とおっしゃっていたそうで、私は渡辺さんから勲章をいただいたような誇らしい気持ちになったものです。
経営に当たっていつも心掛けてきたのが、「実践躬行」と「至誠惻怛」です。実践躬行は、言うだけでなく、自らやって見せなさいということ。至誠惻怛は、誠を尽くし、労りの心を持つという意味で、幕末に備中松山藩の藩政改革を成し遂げた山田方谷が、長岡藩の河井継之助に贈ったという逸話があります。私は、この二つの言葉を
いつも心に留めて改革に打ち込みました。
研究所の立て直しには内部改革を進め、また新規事業を起こしたりと大変なエネルギーが要るものですから、一時期体調を崩したこともありました。しかし、研究で入ってくる特許料によって四百四十床の新総合病院を建設したり、将来に向けた研究基金を用意したり七ながら借金は完全に解消し、その上で二百数十億円の金融資産を確保して、経営効率化のために北里大学との統合を果たすことができたのです。そして、この統合を機に学校法人北里研究所となったのであります。
◆よき人生は日々の丹精にある
研究所の改革の際、三十年前につくった北里研究所メディカルセンター病院は、四百四十床の病院ですが、設計の段階から院内に絵画を展示できるように考えました。また、ここではロビーの椅子を取っ払うとコンサートができるようになっています。それから何と言っても有名なのは、館内にたくさんの絵を飾っていることです。画家の岡田謙三の奥様がこの事業に非常に感銘を受けてくださり、謙三が残した絵を百五十点近く寄付いただいています。
アウシュビッツから生還した『夜と霧』の著者ビクトル・フランクルは「芸術は人の魂を救い、生きる力を与えるものだ」と言っていますが、私は病院に音楽や絵を取り入れることで、患者さんや病院を訪れる人、働いている人たちの心が豊かになってほしいと考えました。まだ、ヒーリングーアート(癒やしの芸術)という言葉も聞かれなかった頃です。
ある時懇意にしている画家の櫻井孝美さんから伺った話ですが、離婚され、お子様か病気で命を絶とうとまで思い詰めておられたお母様か、病院に飾ってあった櫻井さんの絵をご覧になって、このままではいけない、この子を何とか立派に育ててやろうと立ち直られたそうです。芸術にはそういう力があるのです。
病院に併設した看護専門学校にも、美術館のようにたくさんの絵を飾っていますが、病気に苦しむ患者さんと接する看護師さんたちに、ぜひとも心優しい人になってほしいと私は願っています。
オソコセルカ症の撲滅運動に取り組んでおられたWHO(世界保健機関)の部長さんから贈られた、目の見えない親の手を引く子供の人形があります。これをいただいた時に彼は「あなたのイベルメクチンでオンコセルカ症が撲滅できれば、この人形がゴールドになるから、大事にとっておいてください」と言ってくれました。
薬というのは、使っているうちに耐性になった菌や虫が現れたりして効かなくなることがよくありますから、その時はそう簡単にはいかないだろうと思っていました。しかし幸いにして、イベルメクチンはその後もたくさんの人を救い続け、いよいよ撲滅の見通しが立ってきたことで、私はノーベル賞を受賞することができました。人
形は見事にゴールドになったのです。
研究者としてここまでこられたのは、私を導いてくださったたくさんの先生方、研究仲間、そして家内、文子のおかげです。
家内は、研究で忙しい私の代わりに、子供の養育から冠婚葬祭、交流する研究者のもてなしまで一手に引き受け、私か研究に専念できるよう心を砕いてくれました。北里研究所メディカルセンター病院を設立する際、地元医師会の反対で計画が難航した時には、署名運動を起こして設立の後押しをしてくれました。十七年前に亡くなった時には、世界中の仲間からお悔やみの言葉が寄せられ。私はそれを綴じて『大村文子の生涯』という本にしました。本の巻末には、「病気がちでありながら 絶えず前
向きに生き 人生を楽しみ 人のために尽くした 文子の短くはあったか その生涯を讃えながら筆を置く」と認めました。
「よき人生は日々の丹精にある」これは、生前懇意にしていただいていた臨済宗僧侶・松原泰道先生が百一歳の時に贈ってくださった言葉ですが、こうしてこれまでの歩みを振り返ってみると、胸に迫ってくるものがあります。
私の居間には、その泰道先生の「生ききる」という言葉、そして東大寺の別当を務められた清水公照先生の「不動心」という言葉を飾っています。私はこれからの人生で、これまで支えていただいた方々に、社会に、些かなりとも貢献してまいりたいと考えています。そのためにも夢を持って、不動心で生ききりたいと願っております。
「よき人生は日々の丹精にある」百一歳泰道