理不尽と思えるものに価値がある(静学スタイル・井田勝通・P189)

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 今の時代は「何でも平等が第一、差別はあってはいけないこと」という固定観念が非常に強い。学校でも社会でもそういう意識を強引に植え付けようとしているところがある。
 だけど、もともと人間社会というのは、生まれながらにして不平等だ。
 総理大臣の子供として生まれるのと、難民の子供として生まれるのでは、環境は全く違うのは事実。正直、生い立ちで人生の半分以上は変わるかもしれない。
 男女の性別だって差はある。
 一緒に勉強したり、スポーツをしたりする意味では男女平等でいいけど、やはり男には男、女には女の世界はある。
 男だけで真剣に戦っている場面で「○○さん」とか敬称つけて呼び合うなんてありえない。呼び捨てで十分なんだ。
 サッカーにしても、相手がファウルをしようとも、ハンドをしようとも、審判がゴールという判定を下せば1点が入る。取られた側がいくら食い下がったところでゴールが取り消しになることはないし、勝敗が変わることもない。
 そういう理不尽さを理解したうえで、前向きに取り組んでいけるかどうか……。
 そこで、人間の価値は決まってくると俺は思う。
 俺も、これまで理不尽なことを山ほどやってきた。
 学園の初期の頃は、静岡から久能山の海岸まで選手を走らせるなんて日常茶飯事だった。今は久能山のあたりはいちご狩りのメッカになっているけど、昔は砂浜で海岸線が何キロにも渡って広がっているところだった。体力トレーニングをやるために週1回は行って、マラソンやダッシュを繰り返したけど、選手が半べそをかこうが泣き言を言おうがお構いなしたった。何か反抗的なことをしてきたら、竹の棒でぶっさらっていた。
 当然、水なんか飲ませなかった。みんなトイレや顔を洗いに行くふりをして飮んでいたけど。それをこっちも分かって飲ませていた。そのくらいの許容力は持っていたつもりだ。
 宮原真司がちょうどキャプテンの時には、三島から選手を歩いて帰らせたこともある。
 選手権の静岡県予選直前の練習試合で、日大三島と予行練習のつもりでやらせたら、1ー3で負けた。その戦いぶりを見た俺は頭に血が上って、「お前ら、ここから学校まで歩け」と言い放ち、そのまま車で先に帰ってしまったんだ。
 高校生たちは三島から歩き出したけど、一晩では到底、帰りつける距離ではない。お寺の境内で野宿をして、翌朝5時くらいに起きて、富士川近くの浜辺を歩いて、最終的には翌日たどり着いたんだ。さすがにそんな状況だから、父兄も学校に集まってきて、結構な騒ぎになったけど、俺にかみついてくるような親はいなかった。
 今なら大問題になっているところだろうけど、昭和の頃は、清水東でも清商でもどこでもこれに近いことはやっていた。
 そこまでして、根性と体を鍛えていたんだ。
 子供というのは突き放さなければ強くならない。
 どんなに理不尽な状況でも、強く逞しく戦えるような人間にしたければ、指導者も親もある時は″突き放す″という選択をしなければいけないんだ。
「獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす」
 昔のことわざにこういう言葉がある。
 獅子は生まれたばかりの子を深い谷に落とし、這い上がってきた生命力の高い子供のみを育てるという言い伝えの「獅子の子落とし」から転じて、本当に深い愛情をもつ相手にわざと試練を与えて成長させることを意味している。
 子供というのは、甘やかさないことが肝心。
 俺も息子がいるけど、手取り足取りやってあげたことは全くない。
 そもそも息子とは親子いう感覚はないし、「勉強しろ」なんて一言も言ったことはない。「勉強しろ」と言われる子供ほど勉強しないから。
 そんな俺が、学園に入ってくる親に課した「子育て五ヶ条」というのがある。
 それが、次の通りだ。
一、子供に期待をかけるな。
一、怒る時は厳しく。
一、子供の意志を尊重せよ。
一、なぜかを考えさせよ。
一、社会に出たらつき放せ。

 俺から見たら、ごく普通のことばかりだけど、最近の親にはなかなか難しいみたいだ。
 でも、よく考えてみてほしい。
 昔の日本では、15歳が成人式だった。
 その時点でちょんまげを結って、「立志」という大人になるための儀式をやっていたんだ。
 現代社会でも、成人式を18歳にする動きが進んでいるけど、そうなると18歳から酒もタバコも認められるようになる。(実際はそうはならなかった)その分、早い段階からきちんとした大人の振る舞いができるようになる準備をしなければいけない。
 小学校6年生くらいから目標に向かって努力する環境を作っていかないと、間に合わないんだ。
 今の日本では、60パーセント以上の子供たちが「この国は将来、豊かにならない」「夢がない」と回答している。他の国から見れば考えられないほど悲観的だ。
 そういう子供たちが力強くチャレンジしていくように仕向けるためにも、親が子供を突き放して、自分の足でしっかり立って、未来を切り開いていけるような逞しさを身につけさせないといけないんだ。
 この国はあれもダメ、これもダメというのが多すぎる。
 木登りもブランコも、運動会の騎馬戦も棒倒しもダメなんてあり得ない。
 「組体操は骨折するからやらせないでください」と親が言ってきて、「はいそうですか」と受け入れる学校なんて馬鹿げている。
 全ては、先生の責任逃れでしかない。
 生きるということは、積極果敢に挑戦することであり、奪い合うことなんだ。
 何もかもが平等で平和なんていうことはない。
 理不尽を知らずに生きていけるほど、人生は甘いものじゃない。
 そこは、強く言っておきたいところだ。