選手権という存在
大切な価値

時代遅れの遺物であるかのように語られることさえある高校選手権だが、今なお多くのサッカープレーヤーにとって大切な目標となっている大会であることは間違いない。
過度な注目による有名選手の増長が嘆かれることも多いが、その陰には大きな注目を集める大会を目指すことでモチベーションを保つ無名選手がいることも忘れるべきではないだろう。
高校選手権という舞台自体の存在によって救われた選手も多いのだ。
ジュニアユースからユースへ上がれないと宣告された子でも、「じゃあ、選手権目指して頑張るか」と思うことでサッカーヘの情熱を保ち続けることができる。
そのことの意義は、日本のサッカー界全体にとって決して小さいものではない。
4,000を超えるチームがエントリーするこのオープントーナメントの価値は、サッカー界として大切に守っていくべきものだろう。
時代のうねりの中で
中学年代で代表に招かれる、あるいは各地区トレセンで注目を集めたような有力選手のほとんどがJクラブ下部組織へと入っていく時代である。
さらに近年は新しくサッカーにカを入れる私学が急速に増えたことで、戦力の分散化傾向に拍車がかかった。
選手権本大会ヘエントリーする選手のうち、トップレベルの占める割合は確実に減少している。
ただどんなにJクラブがタレントを集めようとも、漏れも出れば、新しく伸びてくる選手も出てくるのが面白いところである。
今年も各地に魅力的な選手がいるし、まだ芽が出始めたばかりの未開の選手も多数いる。
4,000チームの底力というのは、やはり馬鹿にできるものではない。
近年は大学経由で大成する選手が増えてきたが、そのほとんどがクラブではなく高校サッカー出身者である。高卒でプロへ入る選手の数は拮抗しているにもかかわらず、これは4,000という数に埋まって発掘し切れない素材が嵩校サッカーに多数いることの逆説的な証明だろう。
トレセンや代表歴といった「実績」に目が眩んで、選手を見つけ切れないJスカウトヘの警鐘でもある。高校選手権予選は、雑多で玉石混交な高校サッカー界の象徴ともいうべきステージだ。
破天荒なサッカーをするチームがあれば、異常に緻密なサッカーを展開するチームもある。
上のステージでプレーするには致命的に何かが足りないが、一芸だけ図抜けているような選手がいる。
この大会を最後にサッカーそのものから離れるという選手も少なくないので、一つひとつのプレーヘの思い入れも半端ではない。
「負ければ終わり」という極限の興奮状態の中で選手は自分を追い込み、チームを駆り立てる。
自然、試合は驚愕の結末の連続となる。「負ければ終わり」に対する批判の声は理解できるのだが、同時にこの極限状態の中で選手が勝ち取っていくものがあるのも事実だろう。
リーグ戦の価値を浸透させる重要性は100%同意するし、全部が全部「負ければ終わり」になっているのは間違いなく問題だ。
ただその一方で、こういう大会があってもいいとは思う。
すべては国立へ行くために。
多種多様な想いの交錯する、その季節が今年もやって来た。
LGOLAZO 2008.09.20