地味な努力家・大島僚太が挑む初の国際舞台 川崎エースナンバー10の存在感を示せるか?
Text by 元川 悦子 

「本大会に向けて気合が入ってきた? まだリーグ戦の疲れとかをリカバリーするトレーニングですし、そんなにみっちり厳しくという感じではないです。
本番に向けてどういうところを上げていく? オーバーエージの人もいますし、そういう人たちとの連携はチームとして必要かなと思うので、練習をやっていけばいいのかなと思います」
7月19・20日に千葉県内で行われたリオデジャネイロ五輪代表の国内最後の調整合宿の際、ボランチ・大島僚太(川崎)は普段通りの淡々とした物言いを繰り返していた。彼はどんな時も感情をむき出しにしたり、一喜一憂したりしない。ある意味、若者らしくない飄々とした振る舞いに徹するのが、大島僚太という選手の特徴と言える。
川崎フロンターレの先輩・中村憲剛も以前、「僚太には『お前が五輪代表を引っ張らないといけないんだぞ』とか声をかけても『はい』とアッサリ言うだけ。あいつはホントにガツガツしたところを見せないんですよ」と苦笑していたが、大先輩の言葉にも動じないところは強心臓の証拠だろう。こういう選手がリオ五輪のような大舞台で大仕事をやってのけるのかもしれない。
6月のキリンカップ2連戦(ブルガリア&ボスニア・ヘルツェゴビナ)でA代表に初招集された時、キャプテン・長谷部誠(フランクフルト)が「久しぶりの静岡(出身)の選手なのでいろいろ話してみたい」と興味を示したように、大島はサッカー王国・静岡の出身だ。静岡市立清水船越小学校時代に地元の少年団である船越SSSに入り、中学から名門・静岡学園へ。しかし当時はプロになれるような選手だとは誰も思わなかったという。
「中学に入ってきた頃の大島は大人しくて、まともに人の目を見て喋れないような子供だった。ただ、とにかく真面目でコツコツとリフティングやフェイントの練習を繰り返す選手で、意欲的にテクニックを磨くことで少しずつレベルアップしていった。それでも高校3年になるまでプロから注目を浴びることは全くなかった。
大島にとって転機だったのが、高3だった2010年秋の高円宮杯全日本ユース選手権(U-18)。この大会でベスト4入りしたことで急に川崎のスカウトの目に留まり、急きょプロ入りすることが決まった」とかつて静学を率いていた井田勝通前監督(現バンレオール岡部GM)が説明していたが、確かにそれまでは地味で目立たない存在に他ならなかった。華々しい経歴とは無縁のプレーヤーだっただけに、選手層の厚い川崎で試合に出られるかどうかも微妙だと見られていた。
そんな彼にとって追い風となったのが、2012年4月に風間八宏監督が就任したこと。同指揮官はご存じの通り、ボールキープの重要性を誰よりも認識し、止める蹴るの基本をしっかりこなせる選手を重用した。静学で6年間みっちりとボールコントロールスキルを磨いてきた大島はそのお眼鏡に叶い、試合出場機会を一気に増やす。強豪・川崎でピッチに立つようになったことから、2012年秋にはAFC・U-19選手権(UAE)にも参戦。世界切符獲得に挑んだ。遠藤航(湘南)や久保裕也(ヤングボーイズ)、岩波拓也(神戸)ら現在のリオ五輪代表にも名を連ねる面々とともに戦ったこの大会で日本は惨敗。大島もアジアの壁に直面した。
こうした悔しさをバネに川崎でコンスタントにピッチに立ち、中村憲剛、大久保嘉人、小林悠といった日本代表クラスの先輩たちとともにプレーした大島は、自信と余裕を徐々に身に着けていく。エースナンバー10を背負った今季は持ち前のパスセンスに加え、ゴールに直結するパンチ力、守備面でのコンタクトプレーの強さも加わった。一方で手倉森誠監督率いるリオ五輪代表候補にも選ばれ、2014年アジア大会(仁川)ではキャプテンマークも託されるほど絶大な信頼を寄せられた。その後、原川力(川崎)や井手口陽介(G大阪)ら他のボランチ陣の台頭もあったが、やはり手倉森監督の信頼は変わらず、今回の五輪代表最終メンバー18人にも滑り込むことに成功する。このように着実に成長への階段を駆け上がることができたのも、静学時代から定評のある「真面目さ」と「努力を惜しまない姿勢」の賜物だろう。
今回のボランチ陣は遠藤航、原川、井手口と大島の4人。Jリーグなど高いレベルの経験値を踏まえると、遠藤航と大島が軸を担うと見られる。そこで普段通り、淡々とプレーして自分の持てる力を出せれば、彼は必ずチームの勝利に貢献できるはずだ。1月のアジア最終予選ではやや不完全燃焼に終わった分、ナイジェリア、コロンビア、スウェーデンという強豪と対峙する五輪本番ではこれまで積み上げてきたものを出し切ってほしいものだ。