ブラジル・サッカー復活の鍵は“過去”にあり――第3回「“フッチボル”の本質と真髄」
サッカーダイジェストWeb編集部

“美しさ”を追求し、なおかつ負けることを良しとはしない。
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ペレの出現により、ブラジルはどん底から立ち上がり、「サッカー王国」としての地位を確立した。その偉業は現在公開中の映画でも描かれたとおりだ。では、現在のブラジルが2年前の夏以来の「暗黒のトンネル」から抜け出すには、何が必要なのか――。

王国復権のためのヒントを探る連載の最終回。ペレがブラジル代表にもたらしたものの本質とは? ~第3回(全3回連載)


 “サッカーの王様”ペレによって、ブラジルは悲願の世界制覇を果たし、そこから「サッカー王国」として世界に君臨することとなった。
 1970年メキシコ・ワールドカップで3度の優勝を果たし、ジュール・リメ・カップの永久保持という栄誉を授かったブラジルは、ここから常に勝者であることを宿命付けられたのである。
 それだけでない。勝利以外に、内容も求められた。見る者を魅了するファンタジーを披露した上で結果も出さなければならないのだ。これほどの難問を常に国民から突きつけられる代表チームは、他にはないだろう。
 ゆえに、94年アメリカW杯、2002年日韓W杯のチームは、世界制覇を果たしたにもかかわらず、その評価はあまり高くない。スペクタクルなサッカーを展開した82年スペインW杯のチームに対しても、「勝たなければ意味がない」という厳しい声がぶつけられた。
 かつてオランダのヨハン・クライフは「醜く勝つより、美しく負ける方が良い」と語ったが、ブラジル人は“美しさ”を追求し、なおかつ負けることを決して良しとはしない。内容に対する論争は、勝ってから初めて始まるのである。
 華麗なプレーを愛しながら、超現実主義的な一面を持つ。ムダなファンタジーは削ぎ落され、効率性が優先される。他のどの国よりも攻撃的なイメージがありながら、実際は守備の重要性をどこよりも認識している――。
 そんなふたつの対照的な顔を持つブラジル・サッカーの歴史は、19世紀の終わりに始まった。英国系ブラジル人のチャールズ・ミラーが、留学先のイングランドからサッカーボールを携えて帰国したのが、全ての始まりだと言われている。
 当時、ブラジルには多くの英国人がビジネス目的でやって来ており、それによってこの競技は都市部を中心に、スムーズかつスピーディーに浸透していった。労働者、学生と広まり、子どもたちのあいだでもボールを蹴るのが流行となったのである。
 1900年代に入ると、ブラジルに欧州との繋がりを断ち切ろうというムーブメントが起こり始める。とりわけ文化的な面でのアイデンティティーを求める傾向が強くなり、そのなかでサッカーが単なるスポーツの枠から外れることとなった。
 一部のインテリ層や政治家からは嫌われたサッカーだが、彼らの言う「野蛮な競技」は時とともにブラジル人の心を掴んで離さないものとなる。そして間もなくプロクラブ、プロリーグも創設され、数百万もの人々がこの競技に熱狂した。
 英国から伝来したサッカーが、これほどまでにブラジル中に浸透したのは、前述のような普及しやすい環境が整っていたこと以外に、黒人たちにフィットしたことも挙げられる。
 かつて奴隷としてアフリカらから連れてこられた黒人たちは、冷酷な地主への対抗手段としてカポエイラという蹴りを駆使する格闘技を編み出したといわれるが、その基本をなす動きは、“ジンガ”と呼ばれた。
 その後、カポエイラが禁止されたことで、ダンスのフリをし、音楽をつけるなどしてカモフラージュしながらもこの格闘技を守り続け、また同時にジンガも、彼らのあいだではごく自然な動きとして浸透していった。


勝てば誇りとし、負ければ己を否定するほどの極端な行動に…。
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 「ゆらゆらした、揺れる動き」という意味を持つジンガは、サッカーにおいても活かされ、ブラジル人、とりわけ黒人選手のボールを持った動きは、他のどの国の選手とも異なるものとなった。
 それは単なる動きというだけでなく、ブラジル独自の技術体系の根幹をなすものであり、いわばこの国のサッカーの本質と真髄を語る上で欠かせない要素であると言えよう。
 独特のリズムと独自のアイデアによるボールさばきやフェイントで互いを騙し合うことで、それぞれの技術力が高まり、娯楽性も増していった。ここには、見た目は華麗なダンスなのに、強烈な破壊力を持つカポエイラと相通ずるものがある。
 白人優位社会のブラジルにおいて、サッカーだけは、この黒人によって生まれた“文化”が取り入れられ、国内リーグでは多くの黒人スターが生まれていった。そして少数ながらも、代表チームに黒人選手が招集され、勝敗を左右する重要な役割を担った。
 社会においては虐げられる有色人種にとって唯一ともいえる成り上がりの手段であり、白人にとってもブラジル人としてのアイデンティティーを感じられるサッカーは、この国にとって真に重要なものとなった。
 それゆえ、ひとつの勝敗が大きな喜びと悲しみを国民に与えることとなり、勝てば彼らはそれを誇りとし、負ければ途端に自信を失い、己を否定するほどの極端な行動を取った。50年ブラジルW杯などは、まさにその象徴的なものだろう。
 自由奔放な個人の技術に頼ったこれまでのスタイルを否定し、ブラジル・サッカーの本質であるジンガをも捨て去ろうとした当時のブラジル。監督が決めたフォーメーションと戦術に従い、体力、走力を重視し、ひとりの持つ時間を短くしてパスで崩す欧州スタイルを取り入れようした。
 こういった動きは、何もこの時だけの話ではない。
 78年アルゼンチンW杯では、元軍人のクラウディオ・コウチーニョ監督が、オランダのようなトータルフットボールを目指して選手に陸上選手の要素ばかりを要求し、90年イタリア大会ではセバスチャン・ラザロニ監督が超守備的な5バックを採用したりもした。
 ブラジルといえども、世界のサッカーの潮流を無視することはできない。74年西ドイツW杯では、3度の優勝に胡坐をかき、世の流れに目を向けなかった結果、新勢力オランダに2次リーグで無残な敗北を喫することとなった。
 テレ・サンターナが魅力的な集団を作り上げた82年大会、続く86年メキシコ大会でも勝利を挙げられなかったことで、90年大会時の監督であるラザロニが現実的になったのは、ある意味当然の動きとも言えた。しかも当時、世界は守備的なサッカーに移行しつつあったのだ。
 5バックはあまりに極端だったとはいえ、根本の部分は94年アメリカW杯のカルロス・アルベルト・パレイラ監督に引き継がれ、ブラジルは堅い守備を軸に、「魅力のない中盤」と揶揄されながらも、ロマーリオ、ベベットの2トップの力で世界制覇を果たしてみせた。
 サッカー界の流れに沿ったチーム作りとそれに合う選手選考が成された時、それがスペクタクルに欠けるものだったとしても、ブラジルは必ず好成績を挙げてきたのだ。

どこへ行こうとも、必ず伝統のスタイルに戻るのがブラジルだ。
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 振り子が大きく振り切れるような歴史を辿ってきたブラジル。無残な敗北を喫した際には超現実主義者の側面を押し出し、それまでと全く異なる様相のチームを作ったりしてきたからだ。

 しかしこれは、必要とあれば全てを受け入れるという柔軟性とも捉えられる。そしてダメならば、また方向転換したり、元に戻したりする。こういった姿勢は、伝統に縛られがちな欧州では見られないものだ。
 ただ、どこに行こうとも、その後には必ず伝統のスタイルに戻ってくるのも、ブラジル・サッカーの歴史である。50年の敗北で打ちひしがれて全てを否定したものの、58年に栄光をもたらしたのは、彼らの魂に植え付けられたジンガや個々の技、即興性といったものだった。
 いかに現在、サッカーにおいて戦術やフォーメーション、そしてフィジカルの重要性が高まる一方だといっても、選手が単なるアスリートと化したのでは、ブラジルは欧州、そして南米のライバルに対しても、アドバンテージを得ることはできないだろう。
 ところで現在、ブラジルの人材不足がたびたび叫ばれている。ネイマールを除けば、かつてどの年代にも多々存在した、いわゆる“クラック(天才)”が見当たらない。能力はあるが、小粒な選手ばかりだというのである。
 これには、ブラジルのクラブの状況が影響している。欧州に優秀な選手を売ることで生計を立ててきたクラブが、ある時から、より効率良く外貨を稼ぐため、最初から欧州クラブのニーズに合った選手を“製造”したのである。
 また、育成組織やシステムが整えられ、より厳しい選考基準が設けられたことで、一部のエリート以外にはチャンスが回らなくなった。プロの舞台に立てるのはクラブで“培養”される選手ばかりで、独学で技を高めたような“天然”の才能を見る機会はないという。
 子どもたちが自由奔放な環境のなかで技術を身に付けるとともに、ブラジル・サッカーの本質と真髄を身体に染み込ませた、かつての時代にいたようなクラックが出現することはもうないのだろうか。
 しかし考えてみれば、欧州クラブのニーズに合った選手を大量生産した結果、実際に多くのブラジル人選手が欧州クラブでレギュラーポジションを奪っており、また堅実かつ戦術眼に優れた守備的MFやDFの数は世界でもトップクラスにある。
 狙い通りの選手を生み出しているのだから、人材そのものが枯渇しているということはないと言えるだろう。問題なのは、方向性の設定である。
 もちろん、今からそれを設定し直したとしても、かつてのように魅力的なタレントの宝庫とするには、しばらく時間がかかるだろう。それは致し方のないことだ。日々変化しているサッカー界ではあるが、一朝一夕で事を成し遂げることは不可能である。
 2年前の自国開催のW杯、そして昨年、今年のコパ・アメリカと、恥をかかされ続けているブラジルだが、間もなく開幕するリオデジャネイロ・オリンピックでは、初の金メダル獲得に挑む。唯一の希望の星であるネイマールを中心に、開催国というプレッシャーに打ち勝って偉業を成し遂げることができれば、良い流れに一気に拍車がかかることだろう。
 現在、ブラジルの“フッチボル(サッカー)”は、その歴史において何度も経験してきた“産みの苦しみ”を味わっている最中なのである。(了)