清水の田舎、興津で老舗和菓子屋ふなじうしほ屋を営む山口実さん。
隣町に住んでいたオレの回りは、すでにみんな食べていて生ドラは超有名だったが、
ナマドラの発想の産みの親だとは知らなかった。
そして山口さんはナマドラ発売の数年後から、
そのいそがしい職人としての仕事とともに、6年間、もう一つの顔を持った。
当時、清水市は小学校単位のサッカースポーツ少年団があり学年ごとチームを持っていた。
そして学年ごとにお父さんコーチが監督を務めた。
山口さんはその長男の学年チームを6年まで受け持った。
その指導はハンパなかった。
毎日夕方になったら暗くなるまで少年をしごく(笑)
国道52号線からもその声が聞こえたという話もある(笑)
土日は仕事を奥さんに任せ、練習試合を繰り返す。
「休みもまったくなかったですね」と教え子の神谷君も言う。
他の少年団とは比にならない練習時間と量と厳しさだった。
とても我が少年団は相手にならなかった。
戦うというところでいつも四つ折り・八つ折りだった。
興津のそのチームは常に県大会上位の常連だった。
落っこちる者もいたが、頑張るというしつけを持った選手が育った。
それもメンバーは確か上級生になると12人しかいなかった。
それでも魂で勝つチームだった。
仕事も鬼だが子供に対しても鬼だった。
見ていて当時の清商に匹敵する厳しさだなとオレは思った(笑)
ナマドラを買いに行くとサッカー関係者のオレに奥さんは冷たかった(笑)
これだけ時間も割いて、店も忙しいのに、きっと家庭も戦いだったのだろう(笑)
その最後まで親が任せ山口さんに鍛えられた12人は噂によれば、
例外なく全国各地各界で活躍はじめる31歳になっている。
その一人、長男の勝くんは大学、専門学校、老舗和菓子屋への修業を経て今、店の後継者として頑張っている。
今一人、神谷君は日刊スポーツの記者として奮闘している。
そして6年間をやり遂げ山口さんはサッカー指導とはきっぱり手を切った。
思うに仕事と指導、2つの仕事は大変な矛盾だったのだろう。
厳しい親父が、街々にいるということが未来のために必要。
オレは当時、山口さんに触発された。
甘い親が多い中でこんなに厳しく他人の子を鍛える姿に。
将来考えるとホント必要なこと。
そして、サッと手を引くこともカッコよいなと。
決して自分の名誉とかじゃなくこの人はやっていたんだと。
そんな山口さんの事、もう地元でもあまり知らないこと。
