第14回 輸出増大を図る(上)
松下幸之助(パナソニック創業者)

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 松下電器が貿易をやろうということを決意したのは戦前からのことで、私はすでに昭和7年に貿易部をつくっていた。しかし機が熟し、いよいよ本格的に貿易をやろう、海外発展をやろうということになったのは、昭和30年代に入ってからである。

 そもそも貿易の本質というものは、自国内の求めを満たした上で、それでもなお余裕があれば、それを他に分け与えるというところにあると私は思う。例えば、自分の腹は減っているのに、持っているものを他に与えるということは、これはこれでたいへん意義のあることだとは思うが、自分は食わないで、他人に物を与えたら、そのときはよくても、あとが続かない。いつも他の人に物を与えたいというのであれば、まず自分の腹を満たしておかないと、他人に与える活動すらもできなくなってしまう。貿易というのはこれと全く同じで、自国内を満たしたその上で、海外に出していくというのが、その正しいあり方であろう。

 私はかねがねそう考えていたが、たまたま終戦後まもなくヨーロッパへ行き、ドイツのハンブルクに立ち寄ったことがあった。大戦後まだ4、5年のころで、戦争の傷あとは街々にもかなり残っていたが、見学に案内された自動車工場の昼食を見て驚いた。盛りあがるほどのバターやチーズである。またその夜泊まったホテルで食後、ウイスキーを飲もうとボーイに頼んだところ、何と黒のジョニーウォーカーを持って来た。スコッチのウイスキーはお好み次第である。私はそのとき「敗戦国だというのにこれはえらいな、ドイツというところは何でもあるんだな」と感心した。

 そして続いて戦勝国である英国に行ったのだが、ロンドンのホテルで「ジョニーウォーカーをくれないか」と注文したところ「ない」と言う。「ないとはおかしい。あなたの国でジョニーウォーカーをつくっているのと違うのか」と聞くと、「その通りだ。しかし今、英国は耐乏生活をしているのだ」と言う。「それならつくったウイスキーはどうしているのか」と重ねて聞くと、「外貨を得るために、みな海外に輸出をしている」という返事だった。

 そのとき私は、この英国の考え方、やり方がどうにも理解できなかった。戦争に勝った国ではないか。その勝った国が自分のところでつくったウイスキーすらも飲めずに汲々【きゅうきゅう】としている。一方、負けたドイツではゆうゆうとスコッチウイスキーを飲んでいる。これは2つの国の間に、どこか基本的な考え方の違いがあるような気がしてならなかった。そして何かイギリスの考えに力弱いものを感じたのである。

 ところで、昭和30年代になると、日本は経済的にも相当充足されてきたし、海外へ製品を輸出できる余力もついてきた。同時に、世界の国々からもいわば無言のうちに日本への求めが起こってきた。松下電器の場合も同様である。そこで私は、昭和34年1月、恒例の経営方針発表会で貿易の問題にふれ、社員の奮起を促したのであった。

「貿易についてみますと、年々、貿易額もふえておりますから、これはまことに結構なことでありますが、そのふえ方、ふえる率がいささか遅々としている観があります。これは松下電器が、海外の求める製品、貿易に向く製品を作るのに、いま一つ欠けるところがあったかも知れません。しかし一方では、松下電器の貿易を担当する松下電器貿易の人々にも、深く考え直していただかなければならないと思います。すなわち、貿易会社をやっていくについては、松下電器に、もっと海外にふさわしいものを作らそうじゃないか。そのためにはわれわれは何を考えなければならないか、ということを考える。そしてどんどん提案をし、貿易会社の熱心さには困るという状態にまで、松下電器の幹部を追いつめるというところまでいかなければならないと思うのであります」。

 私は貿易によって、自国も相手国もともに繁栄しなくてはならないと思う。そのためには、相手国の身になって考え、相手国に喜んで受け入れられるものを工夫し、生み出していかなくてはならない。そうした使命感をもって貿易という事業を進めていかない限り、日本にどれほど余力ができたとしても、貿易の本質を全うすることにはならないと思う。私が貿易についてあえて社員の奮起を促したのは、こうした意味からであった。

 その後、松下電器の輸出は急速に伸び、昭和33年の32億円から昭和35年には130億円を突破し、総生産に占める輸出の割合は、6%から12%になったのである。