第6回 昭和2年の恐慌
松下幸之助(パナソニック創業者)

イメージ 1 話は昭和の時代に入る。当時は電熱部門を設けたり、アイロンを造りはじめたり、先の砲弾型の代わりに今日の角型ランプを売り出したことなどがあったが、それよりも思い出深いのは不況の時のことだ。私にはこれがいろいろの面でかえってプラスになった。
 昭和2年の銀行パニックでは松下電器もご多分にもれず被害を受けたが、これが住友銀行と結ばれた機縁になったのは妙なことである。当時の取引銀行は十五銀行が中心で、受取手形の割引が7、8万円、これに対して定期預金が3万5000円余あった。同年4月、銀行の取付け騒ぎが始まったが、私は5大銀行の一つである十五銀行がまさかと思って預金を引き出す気持ちになれずにいた。ところが21日朝「十五銀行支払停止」の新聞見出し。「アッ」と思い「やはりダメやったか」とがっかりした。
 さて新たに金融の道を講じなくてはならない。ところが幸いなことにこの2カ月ほど前に住友銀行の支店との間に取引の契約ができていた。この契約のいきさつは一生忘れることのできないものである。
 話は大正15年末までさかのぼるが、そこの支店の行員伊藤君という人に取引を始めてくれと強い勧誘を受けていた。
 十五銀行を中心にと考えていた私は、もちろん断り続けたが、熱心な同君は10回近くもすすめに来た。この熱にほだされた私は条件次第で取引を始めようと考えるようになり、「では取引開始に先立って2万円の随時貸出契約を結んでくれるかね」と切り出した。これには先方も困り、前例がないからなどとこの条件を容れなかった。しかし私は取引は一にも十にも信用だ。住友のような大銀行が貸付の約束をしないようでは本当に信用していないことだと考えて、この条件を頑張り通した。すると今度は支店長から「あなたの言い分はまことに道理ですから一度調査させてください。その結果、本店と相談してご希望にそうようにします」と言ってきた。こうして前例のない2万円貸出を前提とした取引を始めたのが、なんとパニックの起こる2カ月前であったのだ。
 さて取付け騒ぎ、支払停止などが起こってみると、自分はいかに住友といえども先の約束はムリだろうと思い、念のためたずねてみたら「約束を変えねばならない状態ではありませんから、いつでもご利用ください」ときた。これにはうれしいと同時に約束履行を疑った私が恥ずかしくてたまらなかった。このように運が強いというか、あの困難なときに一方に流通の道が開かれたのであった。さらに住友銀行には同4年に500坪の工場を建てる際、15万円の資金を無担保で借りたこともあった。
 もう一つの思い出は、4年末に経済界の活動が政府の引き締め政策のためいよいよ苦しくなり、私のところも製品の売れ行きが半減、倉庫に入りきれないほどの品がたまったときのことである。しかも工場建設後で資金も不足していた。当時従業員の待遇では全国一とまでいわれた鐘紡ですら、賃金引き下げで争議を起こしていたくらいだ。
 このとき私は病いで床についており、従業員を半減したらどうかと、ある人から相談を受けた。私も対策は思案に余っていたが、この相談を受けたときパッと頭の中にある考えがひらめいた。「生産は即日半減するが従業員は1人も減らさない。このため工場は半日勤務とする。しかし従業員には日給の全額を支給する。その代わり全員で休日も廃止してストック品の販売に努力する」。このようにして持久戦に持ち込み、世の動きをみよう、半日分の工賃の損失は長い目でみれば問題ではあるまいと考えたからである。
 即日全員にこの方針を告げると皆大賛成、全員協力して販売に努力した結果、おそろしいことに、わずか2カ月ばかりのうちに在庫は全部売りつくしてしまい、再び工場の稼働を旧に復することができた。
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第6工場(13の熱電本社工場)イメージ 2