「もっとうまくなりたい」 リオ世代のゲームメーカー大島僚太
イメージ 1 リオデジャネイロ五輪アジア最終予選を突破し、6大会連続での五輪出場を決めたU-23日本代表。そのチームにおいてゲームメーカーを務める大島僚太(川崎フロンターレ)は誓う。「全ての要素を爆発的に成長させる」、と。
 おっとりしているようで、内に熱いものを秘める青年が、最終予選を前に語ったリオへの思いとは――。
打ち砕かれた自信と芽生えた感情
 昨年、七夕の夜、等々力陸上競技場のピッチでドルトムントと対峙(たいじ)した大島僚太は、打ちのめされていた。
 どこにパスを出しても引っ掛かりそうで、守備に回れば今度はまるでボールが奪えそうにない。
 攻めている時はピッチが狭く感じられ、守っている時は広く感じられる――。それは、サッカーを始めて以来、初めて味わう感覚だった。
「なんなんだ、これはって。強烈でしたね。なんなら勝ってやるっていうぐらいの勢いで向かっていったので、びっくりしたし、めっちゃ悔しかった。へし折られましたね。こんなに何もできなくて、こんなにやられるものなのかって」
 プロ入りして以来、少しずつ積み上げてきた自信が、ガツンと打ち砕かれた。プロになって以降、最も大きな屈辱を味わわされた。ところが、不思議なことにそれとは正反対の感情も芽生えてきた。
 楽しさ、である。
 こんな選手たちとサッカーができて、なんて楽しいんだろう。
 このレベルでサッカーができるようになれば、きっと、もっと楽しいんだろうな。
 そして、思った。これって、あの時の感覚に似ているな――。
5年前のあの時と似た感覚
 2011年2月、川崎フロンターレに加入した大島がキャンプを終えた直後のことである。
 地元・静岡のテレビ局が取材に訪れ、色紙に目標を書くシーンが撮影された。その色紙に大島は「日本代表」と記したが、カメラに向けて発したコメントは、目標とは対照的になんとも頼りないものだった。
「『サッカー選手なら誰しもが目指すと思うので、僕も日本代表にしておきます』って、なんか人ごとのような感じで言ったんです。後で映像を見返した時、さすがに自分でも、なんて欲がないんだ、って思いましたね(苦笑)」
 だが、そうやって控えめにならざるを得ない理由があった。
 高校3年時に川崎の練習に参加した大島は練習試合に出場し、そこでのプレーが高く評価され、プロ入りにつながった。その時のプレーについては自分なりの手応えもあった。だから、オファーを受けた時、驚きながらも「チャレンジしてみよう」とプロの世界に飛び込んだ。
 ところが、実際にチームに加入し、キャンプを終えると、そんな印象が一変した。
「練習試合の時は、先輩たちが『自由にやっていいよ』っていう感じで、優しくしてくれたんですよね。もちろん、加入後もみんな、優しかったですよ。でも、本気度、迫力、厳しさは全く違った。すごいな、勝てないなって、へし折られてしまって」
 自信を木っ端みじんに砕かれた直後だったから、力強く代表入りという目標を宣言することが、できなかったのである。
 だが、同時にこうも思っていた。
 このチームで頑張れば、もっとうまくなれるんじゃないか、もっとサッカーが面白くなるんじゃないか。
 あれから5年が経ち、あの時に思い描いたように大島は今、サッカーが楽しくて仕方ない。
 だから、打ちのめされ、へし折られたドルトムント戦後も確信したのだ。きっとこの先、もっと楽しくなるに違いない、と。
「攻撃も、守備も、技術も、全てがまだまだだって思い知らされましたけど、目指すべき姿が見えたのも確か。その感覚がプロ入りした時と似ていたから、すごくワクワクしたんです」
自信のあるものは何もない
 川崎にとっての2015年は、大島が独り立ちしたシーズンとして記憶されるかもしれない。
 これまでは中村憲剛こそが中盤の王様だったが、今季は中村がサポート役に回り、大島の方がより多くボールに触るゲームもあったほどだ。
 前後左右に動き回って味方のパスコースに顔を出し、トラップだけでマークを外し、味方の足下に次々とパスを入れる。
 ところが、今や自身の代名詞となっているパスに関して、それほど自信がないという。
「結局、昨シーズンはアシストもゼロでしたからね。憲剛さんみたいにFWがワンタッチで決められるようなスルーパスを出せているわけでもないですから」
 パスどころか、自信のあるものは何もない、とさえ大島は言う。
「フロンターレで言えば、パスは憲剛さん、シュートは(大久保)嘉人さん、ヘディングは(谷口)彰悟くんって、その分野に秀でている人がたくさんいるので、僕自身はこれといった武器はないですね」
 だが、武器がないことを悲観しているわけではない。真意は別のところにある。
「僕は、何か一つ突き抜けるのではなく、全部、高めたいんですよ。だから、目指すのは全ての要素を爆発的に大きくすることですね。ボンって」
 胸の前でボールを両手でつかむようなしぐさをして、それを広げながら続ける。
「サッカーに関しては、苦手なことがあるのがすごく嫌で、何かできないことがあるのが悔しいんです。だから、他のチームを見ると、ボランチがヘディングでバーンって跳ね返したりするじゃないですか。それなのに僕は『彰悟くん、お願い!』って。それも悔しい」
 プロたるもの、何か一つ突き抜けた武器がなければ生き抜けない、とはよく言われることだが、大島の考えは違う。
 例えば、爆発的なスピードを売りにしていても、相手チームが引いて守り、スペースを消されてしまえば、そのスピードは宝の持ち腐れとなってしまう。
「そうした不安があるまま試合に出るのが、嫌なんです。あいつ、あれを消されたら何もできないなって思われるの、恥ずかしいじゃないですか。だから、何でもできるようになりたいんです」
 振り返れば、プロに入ってからの5年間は、全ての要素を磨いてきた5年間だった。とりわけ最近は守備力を高めている。攻撃しかできないボランチと思われるのが嫌だからだ。ボール奪取に関して、今では中村やGK西部洋平からも「良くなった」と認められるようにもなった。
「高校時代やプロに入ったばかりの頃は、守備の仕方を知らなかったんですけど、今は奪い方のコツがつかめてきて奪うのが楽しい。だから守備の項目も大きくなってきたんじゃないかって思います。あとは、いろいろな要素をコツコツと伸ばしながら、どこかでボンって全部が大きくなるようなきっかけがあるといいんですけどね」
苦い記憶として刻まれているあの大会
 今ではほとんど思い返すこともないが、苦い記憶として大島の心に刻まれている大会がある。
 12年にUAEで開催されたU-19アジア選手権である。
 3大会ぶりとなるU-20ワールドカップへの出場が期待されていたが、初戦でイランに0-2で完敗すると、クウェートに1-0、UAEと0-0という成績で辛うじて決勝トーナメントに進出したものの、準々決勝でイラクに1-2で敗れてしまう。
 大会を通じ、ロングボールを蹴り込んでくる中東勢に付き合うように、ボールを蹴り返して応戦し、2列目に入った大島は、頭上を飛びかうボールを眺めるしかなかった。
 チームには確固たる戦術がなかった。中東対策、アウェー対策も万全ではなかった。何より、出場権を勝ち取るんだという団結力が圧倒的に足りなかった。
 そんなチームが、勝てるわけがなかったのだ。
「ふわっと大会に入って、気が付いたら負けていたという感じ。果たしてみんながどれだけ本気で勝ちたかったのか、今思えば疑問が残ります。僕自身もとにかく何もできなくて、自分に腹が立ったし、応援してくれた人にも申し訳ない気持ちでいっぱいで…。だから今回は、悔いは残したくない。とにかくやり切りたい、出し切りたいんです」
 そうきっぱりと言うと、いつものはにかむような笑顔で続けた。
「でも、なんか今回は力が出せそうな気がするんですよ。今は普段の生活から、みんなが行動に移そうとしている。本気で(リオ五輪アジア)最終予選に臨もうとしているのがすごく感じられる。僕らの世代も下の世代も、世界大会に行けなかったじゃないですか。その世代が集まって、やってやるっていう雰囲気になっているんです」
僕らには次がない
 さらに、大島自身の気持ちを駆り立てたのが、最終予選のレギュレーションである。
 北京五輪、ロンドン五輪と過去2大会の最終予選は3グループに分かれ、各グループでホーム&アウェー方式によって争われてきた。
 だが、今回は方式が変更され、セントラル開催のトーナメント戦によって行われた。それはまさに、大島や同世代の選手たちが涙をのんだU-19アジア選手権と同じ方式なのだ。
「前回の最終予選の時、負けた後で『次は絶対に勝ちたいと思います』って言っているのを見たんですけど、僕らには次がない。準々決勝や3位決定戦で負けたら、それで終わり。そんなシビアな戦いだからこそ、突破したらより達成感があると思うんですよね。こういう大会方式になったのも何かの縁だと思うので、その縁をしっかり結果に結び付けたいと思います」
 一見おっとりしているように見えて、内に熱いものを秘めた青年は、ミッションを成し遂げた時、果たしてどうなってしまうのか。
「普段、あまり満足することがないんですけど、今回に関しては、すごく満足すると思いますね。相当うれしいんじゃないかな。そんなエンディングをイメージしつつ、でも、ハイになりすぎず、冷静に、熱く」
 これまで苦汁をなめさせられてきたイラクや韓国を破ってオリンピックへの切符をつかみ取った時、それが自身にとってのターニングポイント――〝ボンって大きくなるようなきっかけ〞になるのではないか――。
 そんな予感が大島にはある。
[PROFILE]
大島僚太(おおしま・りょうた)
1993年1月23日、静岡県生まれ。静岡学園高から11年に川崎フロンターレに加入したプレーメーカー。正確なトラップとパスでボールを動かす風間サッカーの申し子的存在で、チームの攻撃を組み立てる。U-23日本代表では遠藤航と共に年長者としてチームを引っ張る。
〈サッカーマガジンZONE 2016年2月号より一部加筆修正をして転載〉