【練習の虫】・静学サッカー部初の「全日本」川口勝さん

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★★幼なじみは不遇のストライカー!!

 今から36年前、キャプテン翼ブームが起こる少し前、川口勝というサッカー野郎がいました。その男、マアちゃんとは幼なじみのいたずら仲間でした。50年ほど前の小学生の頃から暗くなるまで現・順心高校グランドの片隅でひとりシュート練習をしているのを覚えています。
 藤枝市立青島東小、青島中(長谷部誠出身校)から就任ほやほやの井田監督率いる静岡学園高校へ… 静学初のU-17日本代表に選ばれました。
 そして大阪商業大学サッカー部にひっぱられU-20日本代表に…1978年の全日本大学サッカー選手権決勝戦ではマアちゃんの2ゴールが決まり大商大が全国初優勝しました! 
 そして釜本監督権選手率いるヤンマーディーゼル(現セレッソ大阪)に誘われ入団、日本代表にも選出され、海外遠征にも同行し将来の日本を担う選手と嘱望されていました。
 し…しかし残念ながら入団2年目にして突然不治の病を発症…….享年23才の若さでした…..
 マアちゃんが走り続けた23年間の不屈の精神は今でも受け継がれていると思い…願っています! あらためて短い間だったけどマアちゃんありがとう。

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【OB 初の全日本 故川口勝さん】 元大阪商業大学サッカー部監督 上田亮三郎著 「やらなあかんことはやらなあかんのや!」より抜粋 

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 初めての大学日本一が忘れられないのは、ある選手が強烈な印象を残したからなのです。それは法政大との決勝で2得点を決めた川口勝という選手です。  

静岡学園で井田勝通監督(当時)が、初めていいチームを作った時の選手でした。静岡学園がまだ全国大会に出たことのない頃の選手なのです。  

めちゃくちゃ足が早くて、頑張るヤツがいると聞いていました。でも家が貧しくて、静岡学園でも授業料免除だったそうです。静岡学園からは1年前に後藤元昭という選手を送ってきてくれていた関係もあり、井田監督から彼を大学進学させたいと言ってきて、一回プレーぶりを見てくれと言われて見に行きました。  

確かによく動く選手でした。でも体格はすごく痩せていました。「ウチの大学でも、できることなら授業料免除で、生活も少しでも助けられたら助けることを考えよう。ウチにこさせなさい」ととったのです。  

本人も、親も、家が貧しいから進学なんて考えていなかったのです。だから勉強もしていなかった。受験したらやっぱり成績も悪い。スポーツ推薦でとろうと思ってもとれないくらい悪かったのです。合格判定会議で30分間くらいもめました。学部長が、「この子はどうしても要るのか?」と私に振ってきました。「必要です。伸びると思うし、伸ばしたいんです。ウチのチームもコイツとともに伸びていきたいと思っています。私もそれくらいの気持ちでやっていますし、本人もやる気になっています。任せてください。たった1人だし、点数の問題だけじゃないですか。もちろん勉強も頑張らせます。くそ暑い中、くそ寒い中でも、家が貧しくて食い物もどうか分からない状態なのか痩せおとろえています。それでも頑張っているヤツなのです。勉強くらいちょっとやったらやれます」と一生懸命に説得しました。会議では、そこまで言うならと合格にしてもらったのです。  

川口はとても入学できないところをとってもらいました。その経緯は本人にも両親にも伝えました。「だから頑張れ、サッカーだけじゃなくて勉強もやぞ」と川口には言い聞かせました。アイツは大学4年間で追試を1回も受けていません。勉強も頑張ればできたのです。  その後卒業が近づくと、鬼武監督・加茂コーチが率いるヤンマーディーゼルから川口を欲しいと言われました。最強だった当時のヤンマーにとってもらったわけです。その年は日本代表にも入って海外遠征にも行ったのです。  

ところが次の年でしたか、白血病になってしまいました。やっぱり小さい時の栄養面の原因があったんでしょう。大阪の病院で、とうとう命も危ないというところまで悪化してしまいました。彼の母親も来て、夜は寝ないで付きっきり看ておられました。いくら休んでくださいと言ってもダメでした。  

ある日、私は西京極で試合があったのです。もういつ亡くなってもおかしくないと言われていたのですが、「勝、今から試合へ行って来る。絶対に勝って帰って来るからな、待っとけよ」と言って病院を出ました。試合を勝利で終えて、「勝ったぞ‥」と伝えようと帰ってきたら、私か到着する30分前にすでに亡くなっていました。家内は私と一緒に試合に行くはずだったのですが、「勝のそばにいてやってくれ」と言って病院に残していました。勝が亡くなる時、ベッドの横にいたのは家内だけだったのです。家内から、勝が「監督さんはまだですか」と言っていたこと、「川口君は、最後まで弱音を吐かなくて偉かった」と聞きました。  

初めてウチが日本一になった決勝戦は、3年生の川口が後半にあげた2得点で法政大を倒しました。2点目はハーフラインのところからドリブルでとった点でした。そういう川口の思い出もあって、この試合は一番印象深いのです。  

静岡の藤枝駅の近くに、川口のお墓があります。静岡へ行くといつも寄ることにしています。 「勝、来たぞ」とね。ずっと忘れることができないほど、それくらい頑張ったヤツです。  

この間も、ウチの選手が単位をとれていないというのが多いんで、川口の話をしたのです。もう故人だから実名も出しました。「とてもじやないがとれない、と言われたのをとってもらったのに、追試を1回も受けずに4年で卒業して、しかも日の丸をつけたんやぞ。そんな先輩がいることを、お前らは頭の中に入れておけ」とね。  

山野らの1学年下ですね。川口が頑張るから、みんなも頑張らなアカンというのがありましたね。そういうのが1人、2人いると、チームの貴重な戦力になります。そういう選手を作りたいものです。彼みたいな選手が1チームに3、4人いたらとても楽だと思います。