釜本邦茂(20)杉山隆一さん 憧れであり最高の相棒 「恥じぬ選手に」成長の力に
日本経済新聞
私の憧れであり目標でもあった杉山隆一さんを初めて見たのは兵庫県西宮で全国高校選手権をやっていた頃だ。中学3年生の私は先輩に「高校で一番の選手を見せてやろ」と静岡の清水東の試合に連れて行かれた。泥田のようなグラウンドで運動靴を履いてバランスを崩さずプレーする杉山さんを見て「すごい人やな」と圧倒されたのだった。
その第一印象は大人になっても変わらなかった。運動神経の塊の杉山さんはダンスを踊ってもボウリングをやってもプロ顔負けだった。
お互いが所属する三菱重工とヤンマーは日本リーグで張り合っていたが、個人的にはポジションが違う杉山さんをライバル視したことはない。ストライカーといえば聞こえはいいが、欲しい時に欲しいボールが来ないと何もできない悲しい種族。最高のパスをくれるウイングの杉山さんは最高のパートナーだった。
代表では杉山さんの突破力と私の決定力を絡ませるために、セットで練習することが多かった。たくさんの約束事を要求し、確認し合いながら練習を積み上げていった。シュートを外すのはその約束事と信頼を台無しにすること。すごいと認めた人に対しては常に胸を張れる自分でいたい。そういう思いが私を成長させてくれた。選手としてそういう人を持てたことは本当に幸せだった。
杉山さんや私に「なぜ海外でプロにならなかったんですか」と当時も今も聞く人がいる。1975年1月に西ドイツの「皇帝」ベッケンバウアーを擁するバイエルン・ミュンヘンと試合をした時は「こんなメンバーと一緒にやれたら最高やな」としみじみ思った。肝炎が治った後はちょくちょく外国のプロチームの誘いを受けたのも事実。
私の場合、海外挑戦に踏み切れなかったのは体の心配とともに、日本国内の環境が移籍を促すように整備されていないことも大きかった。
そもそも「アマチュアスポーツの総本山」といわれた日本体育協会がサッカーの日本代表と海外のプロチームの対戦を正式に認めたのは66年になってからだ。相手はスコットランドのスターリング・アルビオン。たかだかプロと試合をするのを承認させるだけでも日本サッカー協会は大変な苦労を重ねたと聞く。
当時はスポーツをして金銭を得ることを堕落とか不潔と見なす、アマチュアリズムの考えが全盛だった。サントスと試合をした72年でも、札幌冬季五輪開幕直前に金メダル候補のオーストリアのスキー選手が「用具メーカーの走る広告塔になっている」とやり玉に挙げられ、大会から追放される事件があったほど。
そんな調子だから、日本サッカー協会の選手登録にもアマチュアのカテゴリーしかなかった。海外のチームとプロ契約を交わし、夢破れて帰国したらどういう扱いを受けるのか。アマチュアに戻ってプレーするのか。認められず宙に浮いた存在になるのか。何もかも不透明だった。
日本サッカー協会は私が引退した2年後の86年にプロ登録を認めるようになるが、厳密に国際間の移籍などの法整備がなされるのは93年のJリーグ発足を待たなければならなかった。それ以前に「海外へ行く」「プロになる」というのは、戻るあてのない旅に片道切符を持って出るようなものだった。

筆者に多くのゴールを決めさせてくれた杉山さん(左)