釜本邦茂(19)ペレ来日 間近で見る「王様」に触発 好調続かず W杯出場逃す
日本経済新聞
ミュンヘン五輪に出られなくなった1972年は外国のスター選手が国内のサッカーを盛り上げてくれた。特に5月にサントスFCとやって来たブラジルの王様ペレの威光は絶大だった。
S席で2千円の前売り券は発売4日間で完売。皇太子ご夫妻を始め約5万5千人が26日夜の東京・国立競技場を埋めた。ブラジルにいたら口さえきけたかどうか分からないペレを前にして、吉村大志郎やジョージ小林は試合前から様子が変だった。
ウオームアップでとんでもないことが起きた。日の丸を持って現れたサントスの選手めがけて何百人という子供が乱入、ペレのユニホームを剥ぎ取っていった。おかしくなっていたのは吉村やジョージだけではなかった。
試合中のペレはピッチの真ん中辺りでぶらぶらしていたが、いとも簡単にボールとともに前を向く体の使い方はさすがだった。王様のマークについたのは山口芳忠で、小城得達さんがスイーパーで備える二段構え。「スッポン」の異名をとる山口は密着マークで善戦したが、74分と76分に連続ゴールを奪われた。
包囲を破る際にペレは山口の頭上にボールを通し、爆発的な速さで振り切った。宿舎に戻った山口は飯が喉を通らない。精気を王様に吸い取られたかのようだった。
ペレは試合終了の笛を待たず、主審にも告げずにピッチから突然消えた。子供たちの乱入をかわすためとはいえ今ならあり得ない。ペレだから許されたのだろう。
2カ月後の7月、マレーシアのムルデカ大会で私は15メートルのオーバーヘッドのダイレクトシュートを決めた。生涯のベストゴールの一つで、ペレの動きに触発されたものだったと思っている。この頃、代表の銅メダル組は横山謙三さん、小城さん、森孝慈、山口と私くらいで、藤口光紀、奥寺康彦ら若手が徐々に使われるようになっていた。
私自身の好調は長く続かなかった。その年の暮れに日本リーグと天皇杯で左、右と足首を痛めた。それが尾を引いて73年5月のワールドカップ(W杯)西ドイツ大会予選は準決勝でイスラエルに敗れた。場所はまたも韓国のソウル。延長で0―1で競り負けた試合で私は決定機にシュートを浮かしてしまう。足首の痛みで腰が回り切らなかった。
メキシコ五輪の後は70年W杯、72年五輪、74年W杯と予選3連敗。この暗く長いトンネルは96年アトランタ五輪予選を突破するまで続く。
イスラエルに負けた後、小城さんに「もうちょっとやらな」といわれた。「あれ以上やれといわれるなら代表を辞めないと」と私がいうと「なら、辞めてもいいよ」。この手のやり取りが当時は普通にあった。特にメキシコ五輪組は所属チームでお山の大将ばかり。アルコールが入ると皆が言いたい放題だった。2006年W杯ドイツ大会でチームの団長を務めた時、選手がサッカーの話をあまりしないことに少し驚いたものだ。
ソウルから帰国後は足首の治療に専念した。日本リーグ得点王は日立の松永章が持っていた。そしてこの年の天皇杯優勝を置き土産に杉山隆一さんが現役を引退した。71年ミュンヘン五輪予選で敗れた後は三菱のプレーに専念していた先輩がついにピッチを去った。32歳だった。
ペレ(中)の日本での引退試合(1977年9月)。右端が筆者
