【2008年井田・ヤス対談】シズガク魂-理不尽が大切
昭和58年、
あの決勝まで
清水東に
負けていなかった
――当時を振り返る前に、一つお伺いします。三浦さんは井田監督のことを「コーチ」、井田さんは三浦さんのことを「ヤスさん」と呼んでいます。これは当時から変わっていないようですが。なぜお互いをそう呼ぶようになったのでしょう。井田 昭和47年に(静岡)学園の監督に就いたころ。日本協会のコーチングライセンスを取ったんだよ。そのときにもらった「コーチ」と書かれたワッペンをいつも着けていて、それを見て当時の選手が「コーチ」と呼ぶようになったんだな。
三浦 そうなんですか? 僕は入学したときに「『監督』は年寄り臭いから、コーチと呼べ」と先輩が言われた、と聞いたんですけどね。
井田 オレも、ヤスさんが入ってきたときから「ヤスさん」だったな。ヤスさんの親父とも叔父さんとも仲が良かったというのもあるし、やっぱり選手として信頼していたというのもあるな。オレはほとんどヤスさんに怒った記憶がない。いう必要がないくらい、サッカーを知っていたし、誰よりも努力を惜しまなかったから。
――お二人で思い出すのは、何と言っても昭和58年の静岡県予選の決勝。あのとき「3羽ガラス」のいる清水東に1-6という予想外の大差で敗れてしまった試合です。
井田 あの試合は悔しかったなんてもんじゃない。悔しいを通り越して屈辱的だよ。オレ自身が反省したよ。
――当時の静岡学園は非常に良いチームだと評判でした。三浦さんは、全国大会に向けてかなり自信があったんじゃないですか。
三浦 年間を通して良いサッカーができていた年だったので、チャンスだと思っていたんですけどね。
井田 あの年は強かったな。静岡では新人戦で優勝して、インターハイでは負けたけど、東海総体で優勝して、選手権予選でも決勝まで行ったから、出場してもおかしくないチームだった。
――特にあの時代の井田監督は、勝つことよりも良いサッカーをすること、特にショートバスとドリブルで「ゆっくり攻める形」を目指していました。
井田 こだわっていたな。
三浦 当時、僕はユース代表の(合宿で、ロングボールでの展開を教えられたことがあったんです。チームに帰ってきて、ゴールに一番近いやつにロングボールをバーンと出したら、コーチが「ヤスさん、それはユースに行ったときにやってくれ」って言われましたからね。
井田 あの世代はよくボールがつながったからなヤスさんも馬場(芳浩)も川村(尊之)も、みんな国体メンバーでさ。城内FC時代から一緒にプレーしてきた3人だから。コンビがしっかりしていた。
――当時は清水市の高校が強かった時代でした。三浦さんの頭には、静岡学園への進学のほかに選択肢はあったのでしょうか。
三浦 全くなかったですね。城内FCは学園の下部組織という感覚でしたから。学園が準優勝した昭和51年の選手権を見に行きましたからね。中学になったら、清水勢の強さをある程度認めながらも「負けたくない」という気持ちがあって、高校に入ってからは「絶対にオレたちの方が良いサッカーをやっている」「負けているところはない」と思っていました。だからこそ、あの試合も負けてはいけないと。
――その年、選手権以外に清水東とは対戦があったのでしょうか。
三浦 新人我でやったと思います。それも含めて何度か対戦したんじゃないかな。清水東には三羽ガラスがいて、すごく人気がありましたね。コーチから「試合に勝てば、あの女の子たちは全員こっちになびくぞ」「一丁、股でも抜いてこい」「チンチンにしてやれ」と言われて、燃えましたよ。あの選手権予選決勝までは、すべて勝ったと思います。でも、一人も女の子はなびかなかった(笑)
――結果的に大敗しましたが、それほどの差はなかったはずです。
井田 あんな試合になるとは思っていなかった。清水束は武田(修宏)が入ってから良くなった。それまではそれはどのチームじゃなかったと記憶しているけどな。。
三浦 それまでウチが勝てていたのは、まだ武田がなじんでなかったというのもありますね。
決勝の途中で
選手は泣いたけど
オレは十何年も
同じ思いを味わった
――あの決勝は、かなり早い段階で失点してしまったんですよね。井田 ディフェンスのミスだったな。右サイドから。
三浦 立ち上がりにラインズマン、何かの判定でフラッグを上げたんだけど、主審が流したんですよ。それをウチのバックがゴールキックと勘違いして、キーパーに軽く返したところを奪われて、入れられてしまった。そこからみんな動揺したんですよね。
井田 あったな。思いだしたよ。
三浦 清水東は前年を全国大会に出ていたから、そういうところで経験の差が出たのかなと思います。今の学園は昔に比べて経験があるから、そんな負け方はしなくなりましたけど、僕らの時代は苦しみましたね。昭和51年、53年と全国に出て、その後に間が空いていたときだから。
――やりながらパニックに陥る感じ。
三浦 前半はそうでした、ハーフタイムが来ないと修正できない。だから早く終わってくれと思っていましたね。決勝の舞台で、1点、2点でも痛いのに、5点ですから。
井田 選手は泣きながら試合していたな。
――あの試合で、実際に涙がでてきたのはどれくらいからだったのでしょうか。
三浦 どうだったかな…。やはりハーフタイムのときですかね。試合中は泣かなかったと思いますけどね。
――そのハーフタイムで、何を話したか覚えていますか。
井田 もう全然覚えてないな。前半で0-5にされて…
三浦 コーチがハーフタイムで言った言葉、忘れられませんよ。「武士は、散るときは潔く散るんだ」って。
井田 そんなこと言ったのか、オレ。
三浦 もう、半べそで聞いてましたよ。そのとき気の強い後輩がいて、「相手が前半で5点取ったんだから、オレらだって後半で5点取れるんだぞ」って言うんです。「…そりゃそうだけどさ」って思いましたよ。
井田 それでも最後に1点取ったから、少しは溜飲が下がったけどな。
――ハーフタイムで気持ちは切り替えた。
三浦 そうですね、でも選手権に出ることは夢だったから、試合終了が近づいてきて、敗戦か現実になっていくにつれて寂しさが湧いてきましたね。最後の笛を聞いた瞬間は、その夢がかなわないことが現実になって、すごく悔しかった。
井田 選手たちはそのとき限りだけど、オレは十何年悔しい思いをしてきたからな。その積み重ねでやってきたから。いつか個人技中心の学園の時代を築こうと思ってね。こういう選手たちの悔しさ、涙を見てきたから。
――試合が終わってからはどんな様子だったのですか。
三浦 おそらくコーチが「明日から練習だ」って言ったと思います。僕も2年のときの選手権が終わったときは、そう言われたのを覚えていますよ。ゆっくり休め、などと言われないことが逆に良かった。傷心に浸る暇がなかったですから。
井田 俺が覚えているのは、「ここでは負けたけれど、社会人になってから勝て」と言ったかな。そのときはまだJリーグがなかった時代だったから。
――結局、三浦さんは大学を選ばず、ブラジルに行きましたね。
三浦 コーチは。僕のサッカーノートの下にいつも「努力をすればいつかは報われる」と書いてくれていて。それを信じていました。だから、小さいかもしれないけど、どうすれば清水東の三羽ガラスに勝てるのかということを考えて。同じように大学に進学すれば勝てないんじゃないかと。あの試合で負けた悔しきが、ブラジル行きを決めた一つのきっかけだったことは間違いないですね。
――あの決勝も、負けはしましたが消極的になることはありませんでしたね。
井田 学園らしいな。よそのチームじゃ、そうはいかないよ。よそはまず守りから入るからな。
三浦 そう。コーチから「誰々をマークしろ」とは言われたことかなかった。コーチはそういう考えですよね。清商に小野伸二がいた3年間だって、学園は伸二に一度もマークを付けなかったですからね。
井田 それで負けたらしょうがないと思うからな。あの試合も、清水東だから守ろう、という話はしていないはず。「いかに学園のサッカーがやれるか」という発想でずっとやってきたから。
昭和51年の
スタートから
オレの信念は
変わらない
――この大敗を受けて、次の年から方針が変わったことはありましたか。井田 あの試合に限らず、負けたときはいつも考えるよ。「走りが足りないのかな」とか「筋トレが足りなかったか」とか「思い切ってスイーパーを置こうかな」とかな。
いつもそういうジレンマは持っている。だけど昭和51年のスタートから信念は変わらずにやってきた、
――それでも、攻める。
井田 もし厳しいなと思っても、それをやっていくのが学園だった。「負けてもいい。やるだけやれ」って。それで、いつの時代も圧倒的に攻めていた。でも相手のサイドが鋭い突破からセンタリングを上げてドーンと一発でやられたりね。今で言うボールポゼッションは常に80パーセントくらいじゃないか。
三浦 かなり最先端のサッカーをやっていたと思う。今はよく「良いサポートをしろ」と言うけど、サポートがないとプレーできない選手ばっかりになってしまった。良いサポートがなければ自分で持って行けばいい。コーチにはそういうサッカーを教えてもらった。僕らの頃はサイドバックも股抜きを狙うんですよ。さすがにそいつはコーチから「お前はどこでも股抜きを狙うからサイドバックじゃ使わない」と言われていたけど(笑)。
井田 よく覚えているな、ヤスさん。
三浦 コーチは何十年も同じことをやっているから忘れるかもしれないけど、僕ら1回言われたことは覚えていますよ。
――練習も個性的なのでしょうか。
三浦 とにかく休みがなかったですね。12月31日の練習終わりで、監督が「今年の練習は、これで終わりだから、あとはよく休めよ」って言う。でも元日だけ休みで、2日から初蹴り(笑)。
井田 雨でも関係ない。朝も早かったしな。
三浦 朝錬は6時半からなんだけど、コーチがもっと早く来るから、オレたちは来ないわけにはいかないんですよ。
井田 ヤスさん、馬場、川村の3人は早かったよな。オレも当時は若かったから、早く来て一緒に走っていたな。
三浦 「お前らは6時でいいけど、オレは5時半に来て走っているからな」なんて言うんです。そう言われると、来ないわけにはいかないじゃないですか。で、真っ暗の中を、本当に走っているんですよ。しかも前夜は飲んで(笑)。朝錬メニェーに移動リフティングがあるんだけど、できないと50メートルうさぎ跳び。うさぎ跳びが嫌だから、絶対にうまくなる。
井田 今なら訴えられちゃうな。「筋が切れちゃう」「骨折する」ってうるさいから。
三浦 でも僕は38歳まで現役でやれたわけじゃないですか。カズは1年しか高校にいなかったけど、41歳の今も現役。何をやっても、ケガをするヤツはする。昔の理不尽な練習は大事なんです。
井田 「理不尽」ってのがいいね(笑)
三浦 大人になって思うんです。サッカーというのは理不尽だと。理由なんかない。今の選手は「何でこの練習をやるんですか」「何で走るんですか」ってよく言うんですよ。理由なんかないと。走れと言われれば走る、うさぎ跳びといわれればうさぎ跳び。監督が言ったことなんだから、やればいい。
それが僕の考え方ですから。サッカーというのは理不尽。
努力することが
大事なんだと
大人になって
分かった
――井田監督のような個性ある監督がなかなかいなくなってきています。昔は個性的な監督が各校にいました。
三浦 Jリーグの監督より、選手権に出てくる監督の方が、強烈でしたよね。個性派ぞろいだった
井田 酒が好きだったり、麻雀が好きだったり。そういう個性も違ってたよ(笑)
三浦 学園サッカーを認めてくれる人もいれば、中には徹底的に否定する人もいましたけどね。
井田 オレはいかに面白い選手を育てるかが勝負だと思っている。世界はそれを欲しがっているんだから、面白いと思った選手を試合で使って、一度失敗したらもう終わり。では良い選手は育たない。長い目で見てやることも大事だな。
――指導者の見る目の確かさも重要です。
井田 センスをいかに見抜けるか。センスがないとなかなか実践では使えない。よく「なぜ戦術ボートを使わないんですか」と聞かれることがある。でもそれは畳の上の水泳といっしょ。グラウンドの中で、このときはこうしろ、良いパスだ、良いドリブルだ。失敗したり、うまくいったりして覚えるものだろ。試合になれば何も言うことはない。それがオレの考えむだから。
三浦 今の選手はボードで説明きれるのになれて、分かったような気になるんです。ボード上の磁石なら1秒も掛からずに移動できる距離が、ピッチではどうなのか。
井田 戦術をよく知っていて、いろんな言葉を使って教えられる指導者は多くなったけど、結局ピッチの状況は刻刻と変化するわけで。それに柔軟に対応できるかが重要だからな ロマーリオは形がメチャクチャだけど、どんなシュートを狙っても必ず枠に飛ぶし、キーパーの逆を突くもんな。それがホントのストライカーだよ。
三浦 海外のストライカーを見ると、トラッブミスをしても決めてしまいますよね。
――日本の選手は、思ったところに止められないと、次のプレーができなくなったりします。
三浦 そういう意味では武田は違いましたね。スネでトラップしていましたから(笑)でも足が速いから抜けちゃうんですよ。あれはずるかった。それにやられちゃいましたからね。
――井田監督は三浦さんを1年生のときから使っていました。いずれはモノになる、というのは入学してすぐに分かるものなんでしょうか。
井田 大体分かるね、良いと思えば使うし、すぐに結果が出なくても我慢して使っていました。ただ、モノになるかどうか、最後は本人次第。自分の目標に対してどれだけハングリーになれるか。それはヤスさんもカズも、努力の才能があったということ。より上を目指すという意識は、一流になるためには絶対に必要な気持ちで、それがないとサッカー選手としても人間としても本当の輝きは出てこないでしょう。お客さんは、その輝きが見たくて足を運ぶんだから。
――井田監督から言われた言葉で、一番印象に残っているのは。
三浦 やはり「努力すれば必ず報われる」ですね。ただ、あの試合で大敗してしまったように、努力しても報われないことも僕は知っている。だから結果で報われる、報われないじゃなくて、努力することが大事なんだということが大人になってから分かりました。僕はサッカー人生において準優勝がすごく多かった。「努力しても報われない」の方が合っているんじゃないかと思ったこともあります。でも報われることを信じて努力すること自体が好き。ということでしょう。
井田 そう。その努力が知らず知らずのうちに人間をつくっている。人生は勝つことより負けること、失敗することの方が多いものなんだ。でもそのことに価値がある。人間の幅とか強さとか、要するに背骨・バックボーンができる。それを若いうちに経験できれば、それが何よりも財産になるんだからな。