1.礎・堀田哲爾が刻んだ日本サッカー50年史(抜粋)
第4章 スタイルの多様性
 遅攻の衝撃①
 
イメージ 1 納谷義郎以上に、堀田たち清水勢と激しく火花を散らしたのが、井田勝通だった。
 
 井田は当初は義郎とともに城内FCの指導に携わっていたが、一九六九(昭和四四)年に創立、四年目でサッカー部の歴史も浅かった静岡学園高校に目を付けると、「ただでもいいから指導をやらせてください」と校長に直談判し、一九七三(昭和四八)年一月から携わった。
その年の四月に正式にコーチに就任すると、月二万円の給料も支払われるようになった。当時の井田からすれば金の問題は二の次で、とにかく指導の場を与えられたことへの喜びが勝っていた。
 
 城内FCのコーチ時代から義郎とは目指すべきサッカーの方向性は一致していたという。 「根本的に南米、とりわけブラジルにこだわっていた。
ワールドカップのペレのプレーに衝撃を受けて以来、どうしてこんなことができるんだろうってブラジルに興味を持って、ああいうサッカーが日本人でできないかというのが俺の中のテーマだった。
でもそれをコピーしてそのまま取り入れるんじゃなくて、日本人に合ったやり方をするにはどうやればいいのかを追求した」
 
 コーチに就任した年の七月には、日本蹴球協会のヨーロッパ研修に帯同するチャンスに恵まれた。
 
 井田は機関誌『サッカー』(一九七三年一二月号)に当時のレポートを寄稿している。
 
 〈英国に限らず、オランダでもドイツでも。まず“個人を磨く”ことを考えているようであった。
決して強制ではなく、子供の時から、個人個人の技術と判断力を高めるために、大変苦労しているように思えた。(中略)
振り返ってわが日本の青少年たちに、今何が必要なのだろうか。
私は自分が高校生のコーチをしている立場から、肉体的条件のことはさておいて、①ボールを止めること(次の動作まで)②ボールを運ぶこと③考えること④走ること。
これらは過去何回となく諸先輩が指摘していることであるが、あらためてこの四つを感じた。
これらを実際に、どのような方法で、ゲームで役立つものに練習で身につけさせるか、私は自分なりにトライしてみようと思う。〉
 
 反面、圧倒的なサッカー環境の違いには愕然とさせられていた。
 「このときビックリしたのがどこに行っても土のグラウンドが一つもなかったこと。常に緑の芝に覆われたグラウンドが何十面も広がる光景にはカルチャーショックを受けた。正直いうと、こんな環境の中で育まれているサッカーを俺たち日本人がやるのは無理だと思った。だからその分、余計にブラジルサッカーに傾注していった部分もあった」
 
 練習でこだわったのは城内FCと同じドリブルとボールーコントロールだった。
練習時間は常時朝練と放課後の二回。
一年生は徹底的に身体のあらゆる部分を使ったリフティング練習をやらせた。
ドリブルと璧パスの強化は二対二や五対五といったミニゲームで鍛えた。
 
 すると、コーチに就任した直後の一九七三(昭和四八)年二月に行われた県の新人戦で、静岡学園は藤枝束と同時ながら初めてのタイトルを獲得した。
それ以降は実力がありながら総体、選手権ともに組み合わせの不運もあって早期敗退が続いたが、一九七六(昭和五二年度)選手権県予選でついに大きな成果を手にすることになる。
 
 この年の選手の顔ぶれは充実していた。
有ヶ谷二郎や渋川尚史といった城内FCの一期生か最上級生となり、一年生には次世代のエースとして期待される成島徹や宮原真司といった城内FC三期生が層を厚くしていた。
他にも、他の中学のサッカー部に所属しながら城内FCの練習に参加していた二年の三浦哲治や一年の森下申一もレギュラーに成長していた。
 
 加えて、この時代は藤枝出身の選手たちも多かった。
たとえば、藤枝中学校出身の杉山誠、実の双子の兄弟はともに一年時からレギュラーを張り、藤枝の広幡中学校出身で三年の八木智嗣、西益津中学校出身で一年の落合高志などがスタメンで活躍していた。
 
 一次リーグを三戦全勝で突破した静岡学園は、第二次リーグで宿敵清水車に二対二で引き分けたものの、得失点差でベスト四に進出した。
準決勝ではこれまで何度も敗れていた浜名を二対一で振り切ると、初の私学勢同士の決勝となった東海大一戦で二対一と勝利し、私学勢では初となる選手権の県代表の座を勝ち取った。
 
 迎えた初の全国の舞台は、この年から選手権の会場が首都圏に移り、準決勝と決勝は国立競技場での開催が決まったことで大阪時代では考えられないほどの盛り上がりを見せていた。
 
 この大会で井田がつくり上げたサッカーは見る者すべてを驚かせた。
高い個人技を前面に押し出し、ドリブルとパスを駆使してボールを確実に繋いで、ゆっくりと攻め上がるスタイルは、一層スピードアップしてきていた高校サッカー界の流れにまさに逆行するものだったからだ。
さらに試合中、選手には流動性を持たせて、攻めるときには七人という人数を掛け、守備では八人をうまく生かしながら、選手個々の高い技術と判断力に任せた。
 
 そんな静岡学園は快進撃を続け、初出場ながら一気に決勝まで駒を進めた。
 
 決勝の対戦相手は、埼玉県代表の強豪校、浦和南だった。
これまで静岡勢は四年連続で準優勝に終わっていた。
無名ながら激戦区の静岡県を独自のスタイルで勝ち上がってきた静岡学園と前回王者でこれまで数々のタイトルを獲得していた松本暁司率いる浦和南の決勝は、いまでも語り草となるほどの名勝負となった。
 
 試合は、凄まじい打ち合いとなった。
まず攻勢をかけたのは浦和南だった。
立ち上がりの一分、五分、一七分と得点し、前半を三対一で折り返した。
後半に入ると試合は俄然動き出した。
七分に浦和南、九分に静岡学園、二八分に浦和南で五対二とリード。
誰もが浦和南の優勝を確信した。
ところがここから静岡学園も反撃し、三〇分、三七分と得点し、これでスコアは四対五の一点差まで追い上げた。
しかし試合はここでタイムアップ。
残りの三分間は、試合後に浦和南の監督、松本暁司が「心臓の音が聞こえてくるようだった」と心情を吐露するまで追い詰めたものの、結局、静岡学園も静岡勢に立ちふさがる大きな壁を破ることはできなかった。