ツエーゲン金沢・星野有亮今日も先発、J2首位に躍り出る。
~自分の挑戦見据えた少年~
出会った15歳の星野。口数は多くないが、しっかりとした目線が印象に残る若者だった。
ダメな若造特有の「ノリ」や「自己顕示」「跳ね上がったカルさ」がない立ち振る舞いも印象に残った。
レイソルJYで10番つけていたが、「このままの『ヌルイ環境』ではオレはだめだ、ダメになる」と、厳しい高校サッカーで挑戦したいと静学に自ら挑戦の場を求めてきた。
同級には後にキャプテンになる金、富山へ行く中西、そしてフロンターレの大島達がいた。
走れなかった星野にとって求めた厳しさの想像よりきつかった(笑)。
そして、上下関係も初体験だった。
3年になる時ミーティングを開いた。
「夏に強制引退させられた、だらしない根性のない先輩も多くいた。そしてグダグダして勝てない一年だった。あんな風にはなりたくない」と星野は言った。
「夏に強制引退させられた、だらしない根性のない先輩も多くいた。そしてグダグダして勝てない一年だった。あんな風にはなりたくない」と星野は言った。
彼の選択はチームのまじめな努力で3年の秋に花開いた。
インタハイ初出場、高円宮杯4強、選手権全国出場の3冠を達成した。
インタハイ初出場、高円宮杯4強、選手権全国出場の3冠を達成した。
だが、大島、星野、中西、片井コーチ擁したこの年代のチームは「金大貴」主将がまとめ、みんなを知らず知らず前を向かせ、救った年代。
片井も言った
「テギがキャプテンでなかったら、あのチームはバラバラで、たぶん今の僕も、オオシマもホシノもナカニシもいなかったと思う。キャプテンって本当に大切です」
片井も言った
「テギがキャプテンでなかったら、あのチームはバラバラで、たぶん今の僕も、オオシマもホシノもナカニシもいなかったと思う。キャプテンって本当に大切です」
今でこそ言えるが、3年8月、スポーツ推薦で東洋大学に練習参加する日に、参加しないで独断で谷田のトップ練習にいた。
苦労していろいろ段取りを取っていただいたのに「何てことするんだ」とボコボコにした。
するとあの目できっぱりと
「俺はここに高校サッカーに挑戦するために来ました。大学でサッカー出来なくてもかまいません。ですが今、(夏の遠征でレギュラーの座を没収されていた)練習を休んだらレギュラーはとれません。いろいろしてもらったことを台無しにしてすみません。だけど、最後の高円宮杯・選手権で答えを出す。僕のここに来た自分への約束なんです」
その思いの真摯さに驚いた。
成績も悪くなかった星野はサッカー部入部はできない専修大の指定校推薦で進路を決め、最後の競技サッカーの練習にまい進した。
チームの変化とともに星野は秋、「ミスが極端に少ないダイナモ」に変貌し、高円を勝ち上がり、選手権県大会を圧倒的な支配で勝ち上がった。
選手権で活躍し、突然J2のあるチームからオファーをもらったが大学を指定校推薦で決めていたために断わった。
そしてサッカーをやめる決断をした進路先専修大学から突然、「早く練習に参加」を求められた。
一途な思いが偶然な「今の道」を拓いた。
プレーの「地味さ」は本物だ。
そして専修大が今年やり遂げた偉業。関東大学1部リーグ4連覇。
そのメンバーに1年から常に星野がいた。
数試合見せてもらったが「失わない地味さ」が渋かった(笑)
そして専修大が今年やり遂げた偉業。関東大学1部リーグ4連覇。
そのメンバーに1年から常に星野がいた。
数試合見せてもらったが「失わない地味さ」が渋かった(笑)
4年になった春に3年ぶりに突然電話をしてきていきなり
「成長続ける大島なんかを見ていて、僕がJで活躍できるイメージがないんです。一般の社会で揉まれたほうがいいんじゃないだろうか」と唐突に要件をしゃべってきた。
「成長続ける大島なんかを見ていて、僕がJで活躍できるイメージがないんです。一般の社会で揉まれたほうがいいんじゃないだろうか」と唐突に要件をしゃべってきた。
オレは「誘われること、そんな光栄なことはない。成功できるかどうかが問題じゃない。お前のこれからの50年の最初の職業として、人として飛躍する場所として適切なのかを見極めなさい」と答えた。
星野は「なるほど、そういう視点はなかったな。なかなかいい事いうよね」と電話を切った(笑)
大人っぽい空気を持った少年星野は多くの事を教えてくれた。
良きまじめな仲間にも恵まれた。
出来れば成功することにこしたことはないが、
もう星野は大丈夫だ。
出来れば成功することにこしたことはないが、
もう星野は大丈夫だ。
ついでに母は愛情深い人だった。
だが星野は「親離れ」を望み進んだ。
だが星野は「親離れ」を望み進んだ。
あとにわかったことだが、
溺愛する母はほぼ毎週、誰にも気づかれないように寮の廊下や洗面所の掃除に東京からやってきて、コッソリ掃除しコッソリ帰って行った。
溺愛する母はほぼ毎週、誰にも気づかれないように寮の廊下や洗面所の掃除に東京からやってきて、コッソリ掃除しコッソリ帰って行った。
だから俺以上に1年上の上級生の一部がどんなにだらしないかも知っていたが、母は誰にも言わずに掃除を続けた3年だった。掃除で身をもってチームがよくなっていくのを感じた。
なかなか素敵な「溺愛」だ(笑)。