この「母の思い」を裏切ってはならない 横田早紀江さん慟哭手記「神様もう一度、娘(横田めぐみさん)に会わせて…」
 
9月下旬にも、北朝鮮が「日本人特別調査委員会」の調査結果を発表することで、拉致被害者の生存情報に注目が集まっている。ある日、突然、娘を奪われた母親の言葉は、縋るような思いに満ちていた。

娘が煙のように消えた

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拉致被害者の横田めぐみさんの母親、早紀江さん(78歳)が、このほど上梓した『愛は、あきらめない』が話題を呼んでいる。
帯には、「生きてこの地を踏ませてください。母の祈りから生まれた切々と心をうつ言葉」とある。
144ページの短いエッセイ集だが、そこには全編にわたって、早紀江さんの「祈りの言葉」が貫かれていて、読む者の心を打つ。
早紀江さんは、めぐみさんが忽然と消えた日のことを、同書の前書きで、次のように述べている。
〈主人の転勤で新潟に住み始め、1年3ヵ月めの1977年11月15日夕方、下校途中に家のすぐ近くで、娘めぐみは、煙のように消えてしまいました。何が起きているのかわからず、家族は絶望の淵に立たされていました。
家族の中心であった、あの元気で明るい女の子が消えてしまった。生きていく気持ちもなくなってしまうほど、悲しく恐ろしい出来事が私たち家族にのしかかってきました。
どこかで絶対に生きていると信じることで希望をつないでいても、黒雲は常に心のうちに湧き起こります。泣きわめき、街々をさまよい歩き、どうしてこれから生きてゆくのか……とむなしい日々が流れます〉
さらに本文では、この頃の捜査状況と、親としてのやりきれない心情を、詳しく綴っている。
〈大切な子どもが、部活のバドミントンの練習を終えて、お友達と3人で校門を出て、お腹をすかせ家に向かっていました。家の近くの交差点で友達2人と別れ、日本海が前方に見える暗くて寂しい道をまっすぐ進んで、曲がり角を曲がればすぐにうちがあるという所で、煙のように消えてしまったのです。警察犬がめぐみのその日の朝まで着ていたパジャマを嗅いで、匂いをたどりましたが、その場所でぴたっと動かない。「ここで何かがあったのでしょうね、車か何かで連れていかれたのだと思います」という警察のお話でしたので、私たちはこれを国内事件としか思っていませんでした。まさか北朝鮮にいるなどとは思いもしませんでした。
新潟県警始まって以来の大捜索が展開され、2000人、3000人で、浜辺から、山から、くまなく捜してくださいました。巡視船が出て双眼鏡で何か浮かんでいないか、ヘリコプターで浜辺に何か変わったものがないか捜し、ダイバーが海にもぐって捜し、ありとあらゆることをしてくださいました。
私たち親も何もわからない状態でした。友達とお揃いのラケットを持って、強化選手になってうれしそうに、元気に「行ってきまぁす」と出ていったのが最後でした。

親である自分を責める日々

1977年の11月15日の夕方から、私たちの視界から突然消えてしまったのです。ダイニングルームのめぐみの座る椅子はその日からポツンと空き、主がいなくなってしまいました。5人だった家族は4人になり、何を食べてもおいしく感じない、悲しい毎日が続きました。私たちの何が悪かったのかと、わからない悲しさでいっぱいで、私は畳をかきむしり、半狂乱になってしまいました。
どこに行ったのだろう、どうしたのだろうとわんわん泣きながら海岸を走ったり、棒を持って、ラケットでもバッグでもカバンの中の何かでもないかと捜して、雪の中を掘ってみたり、少しでもおかしいと思えば「調べてください」と警察にお願いしたりしました。テレビには5回も出て、呼びかけました。
恐ろしい事件がいろいろ起きて、焼却炉の中から死体が出てきて、「めぐみさんは腕時計をしていましたか」と聞かれ、震えが止まりませんでした。しかし、それはめぐみではなくて、ほっとしました。ある時は、「日本海の沖の方で、女性の小さい頭蓋骨が漁船の網に引っかかった」という連絡が入り、ひょっとしてめぐみではないかと、歯のカルテを持って震える足で警察まで行きました。ほかにも、「腐乱遺体が見つかったので、着ていた服を教えてください」と聞かれたり、次から次へとそのような事件が起こるたびに心臓が止まる思いでした。
そのうち雪の降る季節がやってきて、雪が降るまでに見つかってほしいと思っていましたが、見つかりませんでした。なぜ娘がいなくなったかもわからず、ほんとうに苦しみました。あの子に対して何か悪いことをしたのだろうか、親として至らなかったのであの子がいなくなったのだろうか、と自分を責めました。追い詰められて、死にたいとも思いました〉
そんな中で早紀江さんは、聖書に出会い、キリスト教の救いに導かれ、祈りによって心を癒やしていったという。
そして20年後、再び衝撃が走った。同書では、次のように綴っている。
〈めぐみがいなくなって、気の遠くなるような年月を過ごしてまいりました。もし信仰をもたなかったとしたら、自分をささえるすべがわからず、私は今、もうこの世にいなかっただろうと思います。
ある日突然めぐみがいなくなり、まったく見えない、今も見えないことに変わりはありませんが、20年の空白がありました。ところが20年たって、「北朝鮮に拉致されて平壌にいるようだ」との情報が入ってきました〉
〈そこから、コートを着た成人しためぐみの写真とか、中学の生徒証とか、バドミントンのラケットとか、次から次にめぐみのものが出てきました。ラケットのカバーに書かれていた名前はマジックで黒く塗りつぶされていましたが、裏返して写すと「横田」という字がちゃんと見られました。不思議な喜びでした〉
'02年9月に小泉純一郎首相が訪朝したが、帰国した5人の拉致被害者の中に、めぐみさんは入っていなかった。小泉首相は、'04年5月に再訪朝したが、その半年後に提供されたのは、あろうことか、めぐみさんの「偽の遺骨」だった。
早紀江さんが語る。
「小泉首相が再訪朝する1週間ほど前に、不思議な夢を見たんです。京都の山陰本線の小さな駅で、真っ赤なTシャツを着ためぐみと、(孫娘の)ウンギョンと思しき二人を目にしたのです。追いかけていくと、二人は私の実家へ辿り着き、『ただいま!』と言って入って行きました。私が『めぐみちゃんじゃないの』と飛んで行くと、『お母さん』と元気に笑う娘がいました。その後、夜になって孫娘が『ママがいない!』と言って起き出してきたのです。
このような不思議な夢を、計5度ほど見ました。1度目は、めぐみが失踪した直後で、青くくすんだ川の桟橋に、私と、薄く寂しい水色のコートを着ためぐみが、たくさんの人と並んでいる夢でした。2度目は、めぐみの中学校で、先生とめぐみの失踪について話しているところへ警察官が現れ、近くのビニール袋を指さしました。その袋には、めぐみの遺体が入っているようで、怖くて飛び起きたら夢でした」

「めぐみは来月50歳になる」

今年3月、ついにめぐみさんの娘であるキム・ウンギョンさん夫妻と、生後10ヵ月になる曾孫との面会が実現した。横田夫妻は、3月10日から14日まで、極秘裏にウランバートルへ赴いた。
その時の模様も、同書では綴られている。
〈安倍首相、外務省の方とだけでお話を進めさせていただきました。孫と会うのを11年間待ってきましたが、私たちもだんだん年齢を重ねてきて、せめて孫とは会っておきたい、お父さん(夫の滋さん)にも会わせてあげたいと思いました。今、会えなければもう会えないかもしれない。「『おじいちゃんとおばあちゃんはあなたに会いたかったよ』と言うために、向こうも会いたいと思っているなら、神様、会ってもよろしいでしょうか」という祈りだけで決断しました〉
早紀江さんは、対面した孫娘のキム・ウンギョンさんに、次のように述べたという。
〈「今回会って、こんなに幸せそうで、明るく元気に暮らしているのを見て、あなたについては安心したけれど、お母さん(めぐみさん)はじめ、たくさん連れていかれた人たちがいて、家族はおばあちゃんと同じような気持ちで待っています。最後まで、私たちは助けてあげたいという気持ちで頑張っていくから。絶対に希望をすてないからね。これは国どうしの問題で、あなたの問題ではないのです。おばあちゃんにとって、あなたは大事な孫だから信じているし、嫌いだから(編注:これまで会いに)来なかったわけではないのよ。いつも祈っていました。これからもそうですよ」
とはっきり伝えました。そうしたら、彼女は泣きやんで、その後はにこやかに話すようになりました〉
早紀江さんは、めぐみさんのことに関しては、次のように語ったという。
〈「あなたのお母さんのめぐみは絶対に、他の人たちと一緒に、元気で生きていると思っていますよ」とはっきり目の前で言ってくることができました〉
9月下旬には、北朝鮮側から、「日本人特別調査委員会」の第1回の報告が上がってくる予定だ。そんな中、早紀江さんは、拉致被害者の救援を求めて、東奔西走の日々だ。
「13歳で拉致されためぐみは、10月5日で50歳になります。11月15日で拉致されて37年です。神様もう一度、生きているうちに娘に会わせてくださいと、祈る日々でした。
ただ、いまは泣いてはいられないとも思っています。もう戦うしかない。今回が、めぐみを含む拉致被害者を取り返す最後のチャンスと思っています。
めぐみに、一刻も早く、この地を踏ませてやりたいのです」
このように語る早紀江さんの祈りがかなうことを願うばかりだ。
「週刊現代」2014年10月4日号