ともに高いレベルで真剣勝負をした2人は12年を経て戦ったピッチで再会し友人となった。斎藤興龍と山崎光太郎。あの試合、16年も前だ。
選手権県大会準決勝。...
FW山崎 高原擁する超高校的チーム清水東に挑んだ静学斎藤興龍。
「とてもかなわないから、口、手、足、サッカー以外のもの使い何としても守ろう」と思っていた。
数週間前に初先発で抜擢されたばかりのオキタツだった。
山崎光太郎は国体優勝の静岡代表の10番、U-17世界選手権ベスト8の10番でエースで清水サッカー少年の憧れ。
我がオキタツは函南から出てきた熱血努力家、3年秋のルーーキー。
少年時からエリートvs3年の秋にレギュラーにぎりぎり追いついた無印
そして
結果も番狂わせ、坂本のゴールで勝利した。
2008年。
プロを経て、この年代の№1と言われた山崎光太郎はエスパルスの職員とスカウトになった。
2003年。
国士舘大学を卒業して、国士寮長を経て斎藤興龍は静学の教師になった。
2008年プリンスリーグ。再会は12年前の舞台・草薙球技場。
立場変わって静学コーチとプロスカウト。
瞬間は因縁もありぎこちなかった。
だが共有する経験とそれぞれのその後の日々がすぐに2人を友人にした。
「これで12年間見ることができなかったあの因縁の試合ビデオが見れます。だけど、興龍の全部のプレーが間違いなくファールだからね。口も含めてね」
何言ったんだろう。80分、何があったんだろう。
それは2人の胸の内にしまい語られなかった(笑)。
「いやー。光太郎は12歳から18歳までずっと日本代表の中心で10番、小さいのにすごいスピードと技術、とてもかなわない、しかももう一人のFWは高原、力が違いすぎて、どうしたらと考えたら…本当にあのときはごめんなさい」
戦いの共有と12年の経験が青春のすべてをかけた番狂わせの結果、勝負のあやさえも笑い話にかえた。
一言いえば、山崎光太郎はJリーガーと大学生の両立を挑戦した第一号選手だった。
専門学校に行くことを決めていたオキタツが選手権全国3位になり大学に行き、今静学サッカーを支える。
運命はミラクルだが、これも必然で最善だ。