【歴史を経ても古ぼけないものを現実にするには、多くの偏見や冷遇をものともしない精神が必要だということ】

イメージ 1慶應ソッカー部の関係者でさえあまり読まれたことのなかった1978年8月に発行された「慶應ソッカー部50年史」。
井田勝通にとって遠くない現役慶應大学ソッカー部関係者さえ、驚いたことに以下のように書いている。
「井田監督がソッカー部OBであることは知っていたが、最近慶應義塾高校の学生コーチをやられていたことを、最近読んだこの本で知った」。
「この本を読むまで正直、静学のチャラいサッカー大嫌いでした」と告白されている(笑)。
そこに旧態依然としたサッカー観、陳腐なエリート意識を垣間見てつい笑ってしまう。
... まあ、そのことは、逆に日本初の育成年代プロサッカーコーチ井田勝通が過ごした道は長い偏見と冷遇の道だったということをいみじくも表現している。
井田勝通は、35年前「慶應ソッカー50年史」に、自分のサッカー指導のルーツ慶應高校指導を振り返って、理想のサッカーと理想のチームの夢と決意を語っている。

話はそれるが、一言しておいたほうが良いだろう。
チャラい人間はいるがチャラいサッカーなどない。
しかもチャラい人間が集まったサッカーならば絶対に勝てるわけがない。
それともテクニックやフェイント使うチームや選手をチャラいと呼んでいるのだとすれば、それはとんでもない進取の気風を欠いた悪しき悪癖が生んだサッカー観だ。
残念ながら、その短絡的サッカー観は未だサッカー界の現役関係者の中に隠然として存在する。
チャラい人間がいたとしても、清濁併せ飲んで大海に向かわせる能力こそが指導者の醍醐味だ。
世に純粋培養のいい子ちゃん・おぼっちゃまだけの世界があるならその世界こそ異常で打たれ弱いはずだ(笑)

静学の歴史を紐解くと、「金のネックレス」(笑)をはじめとして、おバカちゃんな選手も一部に存在したが、一度たりとも井田は静学は「チャラいサッカー」なるものを目指したことはない。

イメージ 2井田が語り目指したサッカーの原型はまさに以下の寄稿にある通りだ。
「自分に厳しく、他人より猛練習し、一貫したテクニックのサッカーのポリシーのもとで選手を育て、勝ちつつ、夢のチームをつくる」というサッカーだ。
「命絶えるまでに挑戦しつづける」覚悟して取り組み続けたサッカーだ。

その35年前のサッカーへの夢の決意とその継続の表現であるものが今ある「静学サッカー」だ。
偏見なしで見ていただければ、「チャラいサッカー」と括って卑下される陳腐なものじゃない。
その方も、今、時を経て、何十年の後、ソッカー部の過去の部史にさかのぼって、サッカー創世記の情熱が静学サッカーをつくっていることを初めて知ることになった。


「キックラッシュ」が常識だった時代、35年前に井田によって寄稿された理想のサッカーへの決意。
感じてみてほしい。35年前だ・・・是非一読していただきたい。 

イメージ 5もう一度言おう。
何にもないところから日本サッカーのエポックをつくりだそうとする男が40年かけてつくってきた反映が今の「静学サッカー」だということを。
歴史を経ても古ぼけないものを現実にするには、多くの偏見や冷遇をものともしない精神が必要だということを。
インテリでありながら、安定志向の人間を嫌い、市井の一般人との接触を好み、悪ガキにも夢を持たせることを天職とした男。
静学をここまでしてもなお、さらに、今「まだ全然足りないんだ。ここから10年、少年から育てないとまだだめなんだ」と思っている。そんな71歳がいる。「なにくそまけるもんか」の言葉が常にその背中にある。

日本一は血と涙の練習で http://blogs.yahoo.co.jp/abcd59633/28226105.html

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できない男は群れたがる
ヘタレは類を呼び、友と呼ぶ。

40年前20代で夢を掲げ「日本一のサッカー」を決意した青年がいた。
文章は今と違いほんの少し情熱が先行で、現在の歴史を内包した重厚な論理ではないが、35年を経ても、その情熱に些かのぶれはない。今静学サッカーの原型が垣間見える

 

イメージ 6井田勝通は「50年史」発行直後、送られてきた1枚のはがきを大切に持ち続けてきた。

慶應サッカーの創生に関わった1978年当時70歳を超えていた松丸氏が静学指導5年目(選手権初出場準優勝直前)の若き井田氏に送った激励と友愛・フラタニティの情がこもったはがきがだ。当時のはがきは20円だ。
松丸氏の「慶應ソッカー部50年史」の中にある「黎明期回想」はココに抜粋を載せる。

松丸氏(当時70歳弱の年齢)から井田勝通(当時36歳)に贈られたはがき文(このとき井田勝通は若い人の一人である)

ソッカー部50年の君の文章を読んだ。
一言にして云えば非常に感心した。
サッカーを愛し命を愛する人間として当然の本格さがある
僕の文章など読んでもわからない人等(特に若い人等)が多いが、君には理解して貰ゑるように思ふ。
感じたことを率直に書き、君の将来の多幸を祈ってやまない。
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50年史の井田寄稿にある、ともに慶應高校を指揮した「大前卓也先輩 」との再開は2年前の井田サッカースクールだった。
 
-略-慶応は二回戦ボーイだった。夏休みを迎えたある日、大前監督と相談した。「思い切って大前先輩の故郷に遠征合宿をやってみようと思うが、どうでしょうか?」「前例のないことだがやってみよう」そこで話はまとまり、和歌山県新宮での遠征合宿となった。猛暑の中で選手は大変だったことだろう。しかし、私は必死になにかをつかみたかった。そのための遠征であった。
 
 幸運は待っていたのだ。その夜、私は大前先輩の父上(大前靖)にお会いすることが出来た。ピッシリとサッカー関係の書物があり、しかも外国のサッカー関係の本を訳した原稿もたくさん含まれていた。真夏の夜、聞き耳をたててきいたお話の中で、ハンガリーのサッカーの指導書の“ドリル”という言葉で表現した練習方法が私の興味をひいた。「これだ、短期間で強いティームを作り上げるにはこれが一番だ!!」-そしてその夜、一晩中私はドリルの事についてお話しを聞いた。-略-
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 資料
①「1933年(昭和8年)1年生の私が、ある日、キャプテンの島田晋さんに連れられて濱田諭吉さんの家を訪ねた。濱田さんは紺かすりの着物を着て、端然と座っていた。古武士のようであった。すると、もう一人の男が現れた。この近くに下宿していた大前靖であった。3人はサッカーのことばかり話していたが、私はその内容が良くわからなかった。彼らの話は次第に熱気を帯びてきた。私はこのときの印象が慶応ソッカー部の根本精神であると思い、今に至るまではっきり覚えている」 1936年(昭和11年)に慶応を卒業した辻安蔵が、ソッカー部の50年史『慶応義塾体育会ソッカー部50年』(三田ソッカー倶楽部、1978年8月1日発行)に寄稿した一節
 大前監督の父親靖(じょう)さんも戦前の慶大でプレーした。語学の達人で、卒業後は地元和歌山で家業の傍ら、黎明(れいめい)期であった日本サッカー界のために自ら何冊もの本を訳し、ガリ版印刷で技術書を残している。(2011年4月23日産経新聞)