「俺 あなたのためなら 何とかするから 全部」

バイオリンごとやえこを抱き締めた理人は やえこの耳元で 一文字ずつ響くよう届くようにと伝えていった
その言葉は やえこの全身を駆けめぐり 先ほどまで真っ直ぐ向かってくる理人を拒んでいたとは思えぬ甘いため息をついたやえこだった



驚きながらもすぐに満足気な表情に変化した幸恵と 目の前の出来事をどう表現していいかわからない庄野の見守る前で エレベーターのドアが閉まり やえこの押した1階へと下りていった
「あのそろそろ1階なんで・・」
「ですね」
「ドアが開いて人が見たら驚いてしまうので」
「ですね」
理人はゆっくりと離れた 
やえこは 先ほどまでとはうって変わって 無防備で全てをこちらに委ねている
あれほど何も寄せ付けようとしない 硬い鎧をまとっていたやえこはどこへやら


もちろん やえこは敵ではない しかし理人を寄せ付けずに拒むやえこの不安こそが 理人にとって敵だったのだ
どう戦っていいか わからない敵

頼りないのか
男として物足りないのか
やえこを強く抱き締めて 結ばれてしまえばよかったのか
頭に過らないこともなかった理人だが 女性を知らないということよりも やえこと想いが通じあって一緒にいられることが嬉しくて楽しくて その先のことは自然の流れに任せればいいと漠然と考えていたのだろう
初恋のまおとの事を妄想は皆無だったかといわれれば
無いとは言わない まおと2人きりでいることを何度も想像した しかし理人の描くそれは ふわっとしたまおが側にいて まおが理人の肩にもたれかかって 理人がそんなまおにキスをする・・程度のもので
まおは理人にとって 憧れの人 女神さまのような存在
通常の男子高校生が妄想するような生々しいものではなかったのだ

今 理人の目に映るのは 髪が少し乱れ 眼鏡がずれている 無防備なやえこの姿 
もう 理人を拒むやえこではない
やえこを守りたい やえこを支えたい
自分が絶望の海に投げ出されたときに
手を差しのべ 救って 寄り添ってくれたやえこ
これからは自分が全力で守るのだ

「眼鏡ずれてます」
理人にもう迷いはなかった やえこがハッとして直そうとする手を その腕を掴んで
「いいです そのままで」

女性との経験はない キスさえも やえこからの頬への軽いキスだけの理人だったが
ずれた眼鏡の逆側から そして掬い上げるように下側から やえこの唇を捕らえた

やえこが捕らえられながらも微かに唇を開き始めた時に エレベーターの扉が開いた
それはいつも通りに 何の狂いもなく・・・ 
この時刻は 音楽教室を終えた人が下りるために利用する役目のエレベーターである 今から乗ろうという人はいなかった
それを確認した理人は もう一度やえこの待つ空間に戻った
やえこが満たされた表情で理人をみつめ 理人も同じように見つめ返した 無言の2人がもうお互いしか見えない この小さな空間で もう一度互いの唇を求めて顔を近づけた

やえこが 微かに唇を開くと その舌の先で理人の唇をノックするようにつついて そして滑り込んできた
理人も同じようにやえこの唇の隙間から 自分の舌を滑り込ませて 互いにじゃれるように舌をからませ踊らせた
理人は電気が走ったように全身が痺れる感覚を味わうのは初めてだった
チーン・・とエレベーターは5階に到着し 扉が開くと
そのフロアはレンタルオフィスで どの部屋ももう閉まって誰もいなかった 
理人は まだ疼く体をやえこから離して やえこの手を握って 一旦エレベーターを降りた


「やえこさん レッスンに行ってきて・・」
やえこは潤んだ目で少し恨めしそうに理人を見つめた
「今日 幸恵さんの最後のレッスンでしょ 一緒にレッスン受けなきゃ」
理人は自分にも言い聞かせるように やえこを諭した
「俺 財布もスマホも置いて 家を出てきちゃったから 一度取りに帰っていい?また ここに来るよ」
やえこは やっと口を開いた
「わかった レッスン行くよ」
2人は軽く0,1秒のキスをして エレベーターに乗り 1つ下の階に下りていった 理人が尋ねる
「やえこさん 今 何弾いてるの?」
「ん?情熱大陸だよ!」
「え?!葉加瀬太郎先生の?難しくない?」
「んーまぁ でも楽しいよ」
扉が開き やえこだけ下りて理人の方を振り返った
「じゃ!のちほど!情熱大陸 思いっきり情熱的に弾いてくるよ!」
「おう!」理人は親指を立てやえこに向かって付きだした 扉はしまり 階下に着くと 理人はまっしぐらに家まで戻り 教室まで引き返した
家族は 何だろう?と不思議そうに眺めていたが
出ていく理人に「行ってらっしゃい!」
声だけかけて ドアの閉まる音を聞いた
走れる所はダッシュして急ぐ理人
時間に余裕はあるし 多少遅れても やえこは待っているだろう でも 理人は走りたかった
駅前の通りから もう1つ奥にある通りの建物の外観を確認して 理人はそのホテルに予約の電話を入れた
12月23日 イヴイヴの日
満室が心配されたが 予約できて 理人はほっとした

レッスンが終わり 幸恵とやえこ 他の生徒さんたちもこぞって部屋から出てきた
ロビーで待っていた理人は 初めて顔を合わせる生徒さんたちに会釈した 彼らも会釈を返し エレベーターに向かっていった
「幸恵さん お疲れさまでした 」
理人は駅前で買ってきた小さな花束を 幸恵に渡した
「そして 先程はありがとうございました」


幸恵はかわいらしい花束に わぁ!と声をあげ
「ありがとう それと おめでとう」
イタズラっぽく微笑んだ
理人とやえこは目を合わせ 
「幸恵さん 3人で!お疲れさま会!していきません?」
誘いの言葉をかけた しかし幸恵は首を振った
「あ ゴメンゴメン今日はみんな待ってるのよ 先に帰るね また会おうね」
幸恵は 先に出てエレベーター前にいた 生徒さんたちと一緒に下りていった
「なんか さびしい・・」
「幸恵さん 気を利かせたんだよ」
理人は やえこの手を握り 2人も教室を出ていった
意味深な笑みを浮かべる庄野さんにも頭を下げて

駅までの道を歩く
「やえこさん お腹すいた?」
理人が子どもに尋ねるように訊いてきた
「今日 うっかりバイオリン忘れちゃって 家に取りに帰ったときに バナナ食べたから そこまでは空いてない」ハハハッと 理人がやえこを眺めて笑う
「なんか 子どもみたい ・・やえこさん」
キスは大人ぶってリードされたけど・・理人はその言葉を飲み込む 今にやえこさんを痺れさせるキスを習得する!握っていない方の手でガッツポーズをした
「理人くんは お腹すいてないの?何か食べに行く?」
そういえば ちょっとバナナの味したかな と思い出していた理人に 今度はやえこが尋ねた
「ん・・俺は」握った手を ギュッと更に握った理人
「やえこさんが ほしい・・・」

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