似た者どうし
亜米青
「ナニ、このガラクタッ。どこで盗ってきたの!」
「おれは、盗っ人じゃない。買ったンだ」
孫娘のような女になんでこんな言われ方をしなけりゃならない。
マンション建設の際、地中から出てきた百年以上昔の雑器をまとめて買ったものが、庭のプレハブ小屋に保管している。
とっくり、茶碗、猪口、小皿などなどだ。買ったもののうち、大部分は欠けていたので捨てたが、完品は手に取って撫でまわしたくなるほど、愛らしい。
こんな趣味が昔からあったわけではない。いつからか、古いもので気になるものが目につくと、つい買ってしまう。陶器の一輪挿しがあれば、使う機会もない、刃先が鋭いワイヤーカッター、刀の鍔、手あぶりと呼ばれる小さな火鉢など。実に雑多。
「しかしね。こんなものに使うお金があったら、もっといいものを食べたら」
「食べている。太らない程度に、痩せない程度にな」
「それって、いやみ?」
三倉沙希(さくらさき)と名乗る女が、初めてかわいい笑顔をみせた。
怖くて尋ねたことはないが、30はいっているだろう。33か36。38才にはなっていない。肌にも、ヒップの線にも、まだまだ張りがある。死んだ女房もそうだった。
いや、人間の価値はみかけじゃない。中身だ。そうは思うが、若い女を前にすると、そうした建前がかすんでしまう。困ったものだ。
沙希がどうしてここにいつくようになったのか。許可したわけではない。
休日。いつもの通り、青空フリーマーケットを覗いていたら、後ろから声をかけられた。
「古いお茶碗なら、あっちにあるよ」
それが沙希だった。
どうして、声をかけてきたのか。物欲しそうなジジィを探していたとしか思えないが、それ以上は詮索せずに沙希に従った。
促すように歩き出したから。若い女性に誘われるなんてことは、それまで望んでもなかった。
「ここ。早くしないと、帰っちゃうよ」
沙希が示したのは、テニスコートが6面ほどのだだっぴろい会場の隅っこ。
沙希のヒップを追って端から端まで歩かされたわけで、くたびれた。慣れない速歩きは、するものじゃない。
畳1枚分のシートの上に、陶器だけではない、こどもの玩具から鉄道グッズ、雑多なものが雑然と並んでいた。
店の主と思しき人物は見当たらない。安価な真っ赤な折り畳み椅子が桜の木を背にして、さびしそうに主を待っている。
すると、主はこの娘?……。
そばに立っている沙希に、
「毎週ここには来ているけれど、初めてみる店だ」
言いながら、シートの前にしゃがみ、品の数を数えてみた。
「そりゃそうよ。きょうが初めてで、最後だよ」
沙希はそう言い、
「でも、わたしがおじさんを見るのは、これが3度目、4度目かな」
あちこちのフリマで、目を付けられたというのか。
「全部まとめて買ってくれたら、安くしておくから。運び賃もタダ、運んであげるからさ」
こちらの性格を知っているようで、うまく懐に入ってきた。
沙希の車は、軽乗用車だったが、後部座席を畳むと、荷台スペースはみかん箱6個ほど詰めるほどに広がり、シートごとくるんだ骨董品は難なく積み込めた。
そのとき、どこからか、バイクの排気音が聞こえた。懐かしい大型バイクだ。
会場から自宅までは車で7、8分。
沙希は運転がうまく、新興住宅地の隅に残る古い日本家屋の我が家の敷地に軽を乗り入れた。
こちらは、5年前に女房が亡くなったとき、車は売り払った。移動手段は自転車とバイクだけ。
自宅の庭に自分で建てたプレハブ小屋に、とりあえず沙希から買った品物を入れた。整理は、あとからの楽しみだ。
「安くしてもらったお礼だ。コーヒーをご馳走する」
そう言って、沙希をダイニングに案内した。
締めて3万円が安いのか高いのか、見当もつかないが、沙希の美形に惹かれたのは確か。変なムシがついていないことを祈りながら。連れ込んだと思うなら思うがいい。
コーヒーはキリマンジャロのストレート。気分がいときにしか飲まない、おれにとっての贅沢品だが、客に出すのは初めてになる。
ダイニングのテーブルにコーヒーを出したのが、3時過ぎ。ひとりだと、このあと、自室に入ってネットでこの日のニュースとメールをチェックする。
メールは企業からのPRがほとんどだから、迷惑メールとして払いのければいいのだが、ひとり住まいはそれをするのもわびしい。亡き女房への日々の報告は、この日にかぎり、就寝前にする。
「ここにひとり? 奥さんは……ごめんなさい」
車の中で、女房は5年前に病死したと伝えた。蚊の鳴くような小さな声だったが。
「これから、夕食の準備をするけれど、沙希さん、沙希ちゃんはどうする?」
ここは重要だ。何気なく尋ねるのは、男のずるいところ。
しかし、相手の返事には過剰に反応しないことも心得ている。NOなら、手土産をもたせて、「いつかまた」。手土産って? 畳6枚ほどの小さな庭で、女房が育てたさまざまな草花を束にする。ききょう、鉄砲百合、もうすぐタマスダレ(別名ゼフィランラス)が咲く。
「周りとはお近付きはあるの?」
沙希は妙なことを尋ねた。
自宅の周りは、この5年以内に建った新しい住宅ばかり。ここだけが、古さで目立っている。
敷地は百坪ほど。その半分ほどを二階家が占めている。亡父が建てたから、築50年にはなる。
「外で顔が会えば挨拶はするけれど、それ以上のつきあいはないよ。変なジイさんと思われているな」
「変なジイさんか。わたし、車で旅しているの。今夜も明日も決まっていない」
沙希がそう打ち明けたので、それ以上聞かないことにした。必要なのは、彼女に安全安心な寝床を用意することだ。
あれから、3日が経つ。
早い。
沙希は昼前に車で買い物に出かけた。昼食をつくってくれるようだ。
と、玄関のチャイムが鳴った。
荷物の宅配かセールス以外に訪ねてくる者はいない。
「ごめんください」
女房が亡くなってから、インターホンをテレビホンに付け替えたから、訪問者の顔が室内のモニターで確認できる。
婦人だ。30代後半の。住まいは知らないが、ときどき通りで見かける。そのとき朝夕の挨拶は必ずする。夫君は知らないが、美女だから無視できない。
「こんにちは。えーと……」
名前を知りたいから、わざと言い淀む。
「白樫(しらかし)です。この通りをまっすぐにいった先の右側にいます。実はことしから町内会のお世話をしていまして」
「すぐ、行きます」
女房が亡くなってから町内会からは抜けている。彼女から、入会しろと言われれば、ためらわず入ろう。
玄関のたたきに降り、引き戸を開ける。
「お忙しいところ、恐れ入ります。実は……」
「しょう……」
用件も聞かずに、「承知いたしました」と言おうとして言葉を飲んだ。
さすがに、バカげている。
「うかがいます。どうぞ、お入りください」
畳1枚分ほどの狭い玄関だが、中に入ってもらわなければ、通りからまるわかりだ。
見られて困るようなことを企んでいるわけではない。ないが、少しは心を許した話がしたい。
「失礼します」
白樫夫人は、タイトスカートからのびる美しい脚で敷居をまたぐ。こちらはつい、框まであとずさりしながら上がり、彼女を見下ろす形になった。
できればキリマンジャロを出したいが、いきなりでは受け付けないだろう。
「実は、町内会でフリーマーケットにお店を出しておりますが……」
話は聞いているが、どこのフリマかまでは知らない。
「品物が集まりません。桐川さんにお手伝いをしていただけないかと思いまして……」
いい、いいよ。そんなことなら、いつでも、いまでも。
しかし、近付きたい美女から、姓の「桐川」で呼ばれたくない。下の名前の「哲夫」で。
「うちから、フリマに商品を出せばよろしいのですね」
「はい」
夫人はこちらを見上げて、得も言われぬ美しい笑顔をみせる。
夫君はどんなやつだろう。こんな美形を毎日鑑賞しているやつは。こんど、近くまで行って、外から偵察してやる。
「では、失礼します」
一礼して、踝を返す。
もう帰るのか。それはない。
「あのォ……」
引き留めようとして、声を出したが、それと同時か、夫人が振り返った。
「これは、わたしではないのですよ。誤解なさらないで」
突然、わけのわからない話になる。
「桐川さんはこちらにお独りでお住まいですね」
兄弟は遠くにいる。両親はすでに他界した。
女房が亡くなったとき、隣県にいる娘と2人でひっそりと葬儀をすませた。娘は、妻が生まれたY市でケーキ屋に勤めている。
「妻が亡くなってからは、そうしています」
「でも、若い女性の方が出入りしておられる、と噂になっています」
沙希のことか。昔、祖母が言っていた。「ひとの口に戸は立てられない」と。
「あの女性ですか。彼女は、兄の娘で、観光に来ているだけです」
こういうときのために、用意していたウソをついた。いつまで、もつか。
「そうですよね。近頃、悪い方がいて、独居の家にうまく取り入り、預貯金から土地屋敷まで奪う犯罪があるンですって。そんな話を聞いたものですから……。失礼しました」
夫人はそう言って立ち去った。
入れ違いに沙希の車が帰って来た。
「いまのひと、だれ?」
沙希がキッチンに、買ってきた食材を拡げながら言った。
「家から出てきて、わたしの車に駆け寄って、『わたし町内会の者です。あなた、白樫さんの姪御さんなんですか』って聞くから、頷いたよ。失礼なやつだね」
夫人の目的は、はなから沙希だったのかもしれない。沙希の素性を探る。フリマは付録……。
「気を付けた方がいいよ。オジさん、狙われているから」
「あのひとには家庭がある。家族がいる」
確かめたわけではないが、そう感じた。
「オジさんは胸の大きなのに弱いから。わたしはちっちゃいけれど……」
そういえば、夫人は大きいほうだった。沙希はふつうか。考えたこともなかったが、女房のことを思えば、当たっている。
横長の表札には、「SHIRAKASHI」とある。
慣れなければ、すぐに読み取れない。「白樫」か「しらかし」のほうが、わかりいいのに。主の性格が出ている。
沙希は朝早くから、行き先も告げずに車で出かけた。
「どこへ行くンだ」
の一言が言えなかった。家族でもないのに、と思われたくないから。
そういえば、沙希のことは、ほとんど知らない。
生まれ、両親や家族、学歴、職歴、気になることはたくさんある。
彼女が自ら言ったのは、名前が「三倉沙希」、ここに来る前は、日替わりで各スーパーの駐車場を転々とし、車のなかで寝ていた。
日曜ごとに各地のフリマに行き、主宰者にことわりを入れ、店を出させてもらっている。
売上げは平均3千円。それだけで生活できるわけがない。ほかに収入があるらしい。預貯金もあるのだろう。
今朝は、平日だ、ほかの収入のために出かけたと思われる。
予備の衣類と靴を容れたプラボックスが和室に置き去りだから、帰ってくるはずだ。また、逃げる理由も思い当たらない。
夜は、一階の和室を彼女に、おれは二階の寝室にいる。トイレは一、二階それぞれにあるから、ぶつかることはない。
朝はトーストと卵をおれが2人分用意する。夕食は沙希の担当になった。いつの間にか。
昼の食事は、2人とも家にいる機会はすくないから、そのとき次第。
白樫家の門の前でそんなことを考えていると、なかからひとの気配がした。
門扉から2メートル弱の玄関から、夫人がやってくる。因みに、うちは、門扉から玄関まで5メートルほど。
表札の下に付いているテレビホンで、中から外の様子を見ていただろうに。
逃げる必要がないから、この場で夫人を待つ。
「桐川さん、こんにちは」
と夫人。
門扉を開いて招き入れるしぐさ。
お昼を過ぎている。
「お邪魔します」
門扉は敷地幅いっぱい3メートルほどあり、車スペース用のコンクリートが打たれている。
車がないのは、だれかが乗って出ているのだろうか。
「この前、お話いただいたフリマに、出せるような品物を少し持参しました」
玄関に入ると、そう言って手に提げてきたトートバックを示す。
「これはありがとうございます。どうぞ。おあがりになりませんか。ちょうど、コーヒーを淹れているところなンです」
夫人は愛想よく誘う。
しかし、「それでは……」と言ってあがれるのか。
夫人がひとりなら、近所で問題になる。バツイチ男が、一回りも年下の女性と2人きりでいた。噂にならないわけがない。
「いいえ、こちらにこのバッグを置かせていただきます。ご覧になって、使えそうもないものだったら、お知らせいただけたらすぐに引き取りにおうかがいします」
「お待ちください。少し、お話を……」
夫人の声を振り切るようにして、退出した。
自宅に戻ってから、これでよかったのか、と考える。
しばらくして、車が門を入ってくる音がした。
沙希が帰って来た。我が家の門扉は、沙希が来てから常時開け放している。ドライバーには面倒だからだ。
居間から濡れ縁に出て、沙希を迎える。
「ただいま」
沙希が車のトランクの陰から顔を覗かせて言った。
門扉から庭までのスペースが、沙希の車の置き場になっている。
「どうだった。道は混まなかった?」
これは、彼女が帰宅したときの挨拶代わりになっている。
「これ、買ってきちゃった」
トランクから出てきたのは、一抱えもある大きなイルカのぬいぐるみだ。白と青の二色で、左右の目が、抱きかかえられている角度で、閉じたり開いたりする。
おれのコレクションにぬいぐるみはない。ないが、考えてみようという気になった。
「きょうはどこまで行ったンだ?」
「秩父」
「朝早く出たのか。ご苦労なことだ」
自宅から高速を使っても秩父まで片道2時間はかかる。もうすぐ夕暮れだから、朝8時前には出かけたのだろう。
「そんなもの、どこで買ったンだ?」
「買ったのじゃない。実家から持ってきたの」
秩父の生まれか。
秩父は妻と車でよく行った。秋は中津川沿いの紅葉、春は羊山公園の芝桜……、ふと見ると、沙希がいない。
沙希は玄関から家の中に消えたようだ。
5分もすると、大きなバッグを抱えて出てきた。
「お世話になりました。また、どこかで会えると思うから」
バッグを車の後部座席に入れ、エンジンを掛ける。
「ちょっと、待て……」
突然すぎる。
「どこに行くンだ?」
沙希は車の窓から、
「わたし、追われているの。そいつがもうすぐここにやってくるから」
どういうことだ。
「別れた恋人か?」
「わたしは好きになったことはない。勘違いしている。一度、ガス欠で助けてもらっただけ」
突然、バイクのけたたましい排気音がした。
大型だ。乗っていたからわかる。バイク音には聞き覚えがある。
沙希は、車をバックさせる。Uターンするスペースがないから、いつも出るときは後進する。
真っ赤な大型バイクが突進するように、門の間に侵入してきた。
もうどうにもならない。沙希はブレーキを踏む気配がない。バイクも停まらない。
携帯で緊急通報する以外、おれにはなすすべがない。
バカな男だ。
バイクは軽の後部に突き当り、ライダーの体は大きく弾み、車の後部ウインドウに激突した。
ライダーは、秩父の和風旅館「わらじ家」の跡取り息子の勝機(しょうき)。
28才にもなるのに、旅館の仕事は全く手伝わず、バイクを乗り回して遊びほうけている。
1ヵ月前、沙希が羊山に向かう路上でエンストを起こして困っていると、勝機がバイクで通りかかった。
エンストの原因はガス欠。沙希は車いじりが好きで、メンテナンスは欠かさないが、燃料切れにはうっかりしていた。スタンドまで持たせるつもりが、急な坂道でタンク内のガソリンが燃料パイプに行かなくなったらしい。
勝機は沙希を見て、アドレナリンが急上昇。秩父に美女がいないわけではないが、勝機のタイプに沙希が幸か不幸か、ばっちりハマッタ!
勝機はガス欠と知るや、スタンドに往復し4リットル缶に詰めたガソリンを沙希の車に注いだ。
沙希は、素直に感謝したが、勝機は異常に反応した。沙希の車から離れない。
沙希は、「ついてこないで」と注意したが、聞き入れない。仕方なく、何度か利用しているファミレスに入り、相手の出方を見た。
勝機はしつこく、素性を尋ねてくる。
住まい、電話番号、家族……。秩父で出会ったのだから、秩父出身と考えそうだが、沙希の車は「品川」ナンバー。秩父管轄の「熊谷」ナンバーだったなら、勝機も焦らなかった。
幸い、顔見知りのウエイトレスがいた。
勝機がトイレに行ったすきに、沙希はテーブルナプキンにメモ書きした。
「知らない男にストーカーされている。すぐに警察に電話して、お願い!」
沙希はウエイトレスを手招きして、そのメモを手渡した。
ウエイトレスはびっくりしたが、沙希の緊張した顔をみて納得した。
3分余りでパトカーが現れ、2人の警察官が店内に入ってきた。
ウエイトレスから事情を聞いていた店長の案内で、沙希と勝機のテーブルへ。
沙希は、勝機を指差し、
「このひと、わたしから引き離してください!」
と告げた。
以来、沙希は都内に戻り、勝機を忘れることが出来た。
しかし、勝機はどういう手づるか、沙希の生家を探し当てた。生家といっても、いまはあばら家だけ。
人は住んでいない。両親はすでに他界、親戚縁者としては、祖父母の兄弟姉妹の系統が、遠方にいるくらいだ。
沙希は、年に数回、空き家になっている生家に戻っている。そして、こどもの頃の懐かしい思い出の品をその時の気分で選び、東京のマンションに持ち帰り、そのいくつかを、フリマに出品している。
勝機は沙希の生家の近隣から、沙希がときどき帰ってくることを聞き込み、こんど帰ってきたら知らせて欲しいと、電話番号と2万円分の商品券を手渡して頼んでいた。
その成果がまもなく、出た。
勝機はバイクで、東京に戻る沙希の車のあとを尾け、とあるフリマ会場に行きついた。
それが、沙希の品物をシートごと買い取ったあの日だった。会場の周りから響いていた、大型バイクの排気音が耳に残っている。
勝機が、おれと沙希の関係をどうみたのか、わからない。沙希の両親は死亡していることは、聞き込みでわかっている。
そして、問題の日。沙希はイルカのぬいぐるみが欲しくなり、秩父に行きかけたが、途中で気が変わり、鴨川まで足を伸ばした。こどもの頃、両親に連れられて見たイルカショーを思い出したのだ。
しかし、勝機は知らない。沙希が関越に乗ったのを見ると、先回りしてやろうと考え、サービスエリアに入る沙希を見送り、関越をそのまま秩父方面に走った。一方沙希は、途中でUターンして、房総に行ったという次第。
勝機は、待ちぼうけを食わされ、仕方なく、ここにやってきて、沙希の車を見つけ、逆上したようだ。
ところが、この事故が、沙希と勝機のその後の人生を大きく変えることになった。
沙希は首の捻挫程度ですんだが、勝機は頭から車後部の窓ガラスに突っ込んだため、バイクから放り出されてガラスを突き破り、頸椎を損傷、意識不明のまま、搬送先の病院で絶対安静を強いられた。
沙希も同じ病院に入院したが、翌日には退院、あとは通院でよいということになった。
沙希は、嫌いな勝機の病室を見舞った。ただ、ようすを見るためだったが、体がベッドに固定され、身動きができない彼を見て、同情してしまった。
そして翌日から、この家から病院通いを始めた。
おれの気持ちは複雑だ。
紳士的になれば、沙希の行動を受け入れ、応援すればいい。しかし、一日決まってすることもない瘋癲老人としては、沙希のような娘と一緒にいて、何も起きないのはつらい。
このままでは、勝機の望んだ通りになってしまう。本人はベッドに寝たきりで、口しか動かせないにしても、だ。
しかし、なぜ、沙希は好きでもない、むしろ嫌っていた男を毎日見舞いに行くのか。
今日で、沙希が戻って来てから4日目になる。
まもなく、病院から帰ってくる。はっきりさせなければ、おれはダメになる。
白樫夫人のこともある。夫人は未亡人だった。おれと同じロストシングル。
関係としては、沙希よりも、自然だ。
昨日、コンビニで夫人とばったり出くわし、少し話をした。
フリマに提供した古い陶器類は好評だったという。第2弾をどうか、と誘われた。
それで近くの喫茶店に移動して、向かい合わせに腰かけた。
「沙希さんはお元気ですか?」
「元気ですが、友人が事故で入院して、その見舞いに毎日病院に通っています」
勝機のバイクが自宅に突っ込んだ事故は当時、パトカーや救急車などが駆け付け、近所でも大騒ぎになった。当然、夫人も知っている。
警察には、沙希が見ず知らずの男に言い寄られ、ストーカーされた、と説明した。ウソはついていない。沙希との供述も一致するはずだ。
勝機の病室には、警官が2名張り付いている。回復次第、逮捕勾留するという。
沙希は加害者の病室を訪れる理由を、警察官にどう話しているのか。
「ごめんください」
居間の外から声がする。白樫夫人だ。
インターホンを押さないのはどうしてだ。それだけ、距離が縮まったということか。
昨日に続いて。うれしいが、何用だろう。
居間の障子戸を開け、濡れ縁に出る。
「お邪魔しています」
夫人が背中を見せたまま、庭の草花を見ながらそう言った。
「こんにちは」
と、こちらも返す。
「そのタマスダレは、妻が大好きだった花です」
夫人の足元にタマスダレの花が10輪ほど。毎年、少しづつ、株が増えている。
「奥さまは、心のやさしいお方だったのですね。花言葉は、純白の愛でしょうから」
「知らなかった。いま、コーヒーをご用意します。どうぞ、お掛けになって……」
すぐにキッチンに取って返し、キリマンジャロを点てる。
こちらは濡れ縁にあぐらをかき、夫人は沓脱に足を乗せ、コーヒーカップを手に濡れ縁に腰かけている。
話が途切れ、庭を見ている夫人の横顔を覗く。
彼女は何をしに来たのか。
すると、
「いままでお話していませんでしたが、あのタマスデレオを見て、はっきりしました」
これまでとは違った表情をしている。だれかに似ている。そうだ。亡くなった妻だ。
「わたし、Y市の生まれです」
エッ。妻も……。
「北新町の3丁目。奥さまとは同じ町内で、こどもの頃、よく一緒に遊んでいただきました。わたし、昨日で38才になります」
妻は、5年前、38才で亡くなっている。夫人は妻の5才下ということになる。
最初から、それを知っていて、接近してきたのか。
夫人がここに越してきたのは、妻が亡くなってからまもなくだった。
「ご夫君が亡くなられたのは、いつですか」
「昨年6月、重いすい臓がんでした。葬儀はわたしと夫の弟さんとお母さまの間で、町内会にもお知らせせず、静かに行っています」
妻の場合と同じだ。
こっそり行い、近隣には知らせていない。こちらが知らないのは当然だ。
「最近、奥さまの夢を見ます。昨晩も」
どんな? おれには、ご無沙汰しているが。
そこに、車の音が。
沙希が帰って来た。
「また、旅に出ることにしたよ」
沙希はそう言って、家の中に消えた。
隣の和室で、物音がする。
まもなく、大きなスポーツバッグを肩から下げて現れ、すばやく車のトランクに入れた。
「どこに行くンだ?」
「とりあえず、伊豆を一周かな。あとは、東海道を西へ」
「入院している秩父のカレは?」
「あいつ、治りそうなの。ベッドに寝たきりのときは、かわいそうになったけれど、きょう意識が戻って話をしたら、やっぱりダメ。つきあえる相手じゃないとわかったから。オジさんたちは、相性がいいンじゃない? お元気で」
沙希は車のエンジンをかけると、巧みなハンドルさばきで、たちまち見えなくなった。
「ごちそうさまです。それでは、わたくしも……」
夫人はそう言い、腰を上げた。
「もう、お帰りですか」
近所だ。会いたくなれば、いつでも会える。
「奥さまがご覧になっています」
夫人はひと際きれいに咲いているタマスダレを見つめながら言った。
「こんど、いつお会いできますか?」
おれは急にこみあげてきた感情のまま、ふしつけな問いをした。まだ、そんな間柄でもないのに……。
「わたし、ミッちゃんが桐川さんの奥さまだったと知ってから、いま以上に親しくなるまいと思ったのです」
妻の名は、未奈美といった。おれは妻をミッちゃんと呼んだことはない。どうしてか、「ミナ」とか、「ミナちゃん」と呼んでいた。
どうしてそうなったのか、よく覚えていない。
「妻がそう言ったのでしたら……」
夢枕に立って言ったのかもしれない。
夫人は、
「失礼します」
と言い、庭を出ていく。
門のところまでは、見送りたい。
と、門扉のところで、夫人は振り返り、
「再婚は、なさらないのですか」
と尋ねる。
同じ問いを返したい。
それを察したのか、
「わたしは、夫が忘れられなくて。でも、また、お邪魔してもよろしいでしようか」
「もちろんです。いつでも……」
会釈して去っていく夫人の後ろ姿を見送りながら、ロストシングの交際は難しいのだ、と。
「フリマに出せるものを用意しておきますから」
表の通りを行く夫人の背中に投げると、夫人は振り返ってうれしそうに一礼した。
その姿を見て、たまらなく、抱きたい衝動に駆られた。しかし、自重する。
似た者どうしだ。必ず、もっといい機会くるはずだ、と考え……。
(了)
2022.7.30.