小編第349作「キューピッド」 | あべせいのブログ

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楽しく、愉快で、少しもためにならないお噺。

キューピッド 

                    亜米青

 

 

「あなた、それ何?」

 外から帰ってきた夫の手に、小さなポリ袋が。

「これが鯉に見えるか」

「また、お父さんの病気が始まった」

 ちょうど二階から降りて来た中三の長女が、父親を揶揄する。

「どうしてもっと素直に会話できないかなァ。それでよく学校の先生、やってられるよ」

「ナッちゃん!」

 母の安芸が長女の奈津実をたしなめる。

「奈津実! おまえ、だれにものを言ってるンだ。おれは、父親だゾ。一家の主ダッ!」

 父の冬紀が顔を真っ赤にして、奈津実に詰め寄る。

 と、手にしていたポリ袋の金魚が飛び跳ねて、中から1匹床に落ちた。

「アッ、アオ、大丈夫か」

 冬紀は床にしゃがみこむと、跳ねている金魚を手で掬い、やさしくそっとポリ袋に戻した。

「アオ!? この金魚が青なの? お母さん、お父さんの認知が始まっているよ」

「いいの。このひと、変わり者だから」

「それでも、赤い金魚に『青』って名前を付けることはないよ」

「おまえが生まれる前、もらってきた猫に『カラス』って名前を付けたひとだから」

「ヘェー、猫にカラスね。犬って付けるよりいいか」

「訳を聞いたら、真っ黒な猫だから、って」

「だったら、熊のほうが強そうでいいのに……」

 居間をうろうろしていた冬紀が、イライラしながらどなる。

「オイ、この前使っていた水槽、どこにやった?」

「お父さんッ、しっかりしてよ。あれは、粗大ゴミに出したンじゃなかった?」

「そうよ、あなた。水漏れするから、って捨てたのよ」

「何か、ほかにないか」

「ビールの空き缶だったらあるわよ」

「酔っ払ったらどうする」

「それ以上、赤くはならないでしょ」

 すると、

「夫婦2人で漫才している。ベランダにあるじゃない。いってきま~す」

 長女の奈津実は、そう言って家を出ていった。

「ベランダ?」

 冬紀は居間を抜けてベランダのガラス戸を開ける。

「水槽も金魚鉢もないぞ。あるのは、物干し竿だけだ……。安芸ッ! 来てくれ」

「なによ。奈津実がいなくなったら、途端に気安く呼ぶンだから……」

 安芸が化粧の手を休めて、ベランダが見えるところまで近寄る。

「安芸、隅にあるアレは何だ?」

「どれよ?」

 安芸は、ベランダに体を乗り出し、夫が指差しているほうを見た。

 そこには、埃のかぶった、ポリ袋に覆われたダンボール箱がある。

「あれ? あれは、あなたがフリーマーケットで買ってきたものじゃなかった? もう、忘れたの?」

「そうだ、火鉢だ。昔、手あぶりと呼ばれた小さな火鉢だ」

 冬紀は遠い日を思い出す。

 その日、冬紀は、自宅からバスで5分ほど離れた大きな公園に出かけた。妻は友人と約束があるらしく、朝からいなかった。

 公園では、区の広報誌にあったように、フリーマーケットが開かれ、好天でもあり、大勢の人であふれていた。

 冬紀の目的は、居酒屋で噂を聞いた、ある女性を見つけることだった。

「いい女らしいよ。年は三十半ば……」

「フリマで何を扱っているンだ?」

「だから、旦那が遺した品だよ。月に1のフリマだが、いつも出店しているとは限らないらしい……」

 隣のテーブルから聞こえてきた、これだけの会話に、冬紀は心をときめかせた。

 彼には浮気の前科がある。いずれも、後味のよくない、一回こっきりの浮気だったが、妻にバレていなかったこともあり、常に機会をうかがっている。

 女性はすぐに見つかった。フリーマーケットの隅に、畳一枚ほどのレジャーシートを敷き、それを前に文庫本を読んでいた。

 冬紀は女性と視線が合うようにしゃがんで、シート上の品物を無言で物色した。

 辞典や文学全集などの書籍類がシートの半分以上を占めていた。あとは時計、手帳、財布、喫煙具など、男が使う身の回りの品々が並ぶ。ただ、使い古したものはなく、いずれも真新しい品ばかりだ。商品として売れる物を選んで、並べているようだ。

 冬紀は、商品から商品に目を転じながら、ちらちらと女性を観察した。

 確かに美形だ。年は32か、33。長袖シャツにジーパンと、身なりは地味だが、軽く後ろで束ねた髪、切れ長の潤んだ瞳、薄く紅を引いた唇から、冬紀は身震いするほどの色気を感じた。

 これが未亡人か。冬紀は、彼女の亡くなった夫が羨ましくなった。

「何か、お探しですか?」

 女性は、文庫本を脇に置いて、冬紀を見た。

「おもしろい骨董品がないかと……」

 彼女の持ち物ならいざ知らず、知らない男の遺品は買いたくない。

「亡くなった夫が集めていた道具類なら、そちらに少しあります」

 女性は自ら、「未亡人」であることを明かした。

 彼女が指差すほうに、陶器や軸が数点あり、その中に直径20センチ,高さも20センチほどの火鉢があった。

 紺の渦巻き模様が施してあり、それほど重くない。机のそばに置けば、手あぶりに使えるし、置き物にもなる。冬紀はそう思って値段を尋ねた。

「夫は一万円で買ったのですが、一度も使っていません。半額ならお譲りできます」

 冬紀は、フリーマーケットの品物にしては高いと思ったが、美女とお近付きになれるのならと思い、言い値で買った。

「いつもこちらにお店を出しておられるのですか?」

「月に1回のフリマですが、夫の形見がなくなるまで、続けようと思っています」

「お店のお名前は?」

「さより、といいます。これからも、ご贔屓にしてくださいませ」 

 彼女はそう言って、初めて笑顔を見せた。

 冬紀は火鉢を手にぶら下げ、満足して自宅に帰った。

 あの公園に行けば、月に一度、あの未亡人に会える。

 しかし、いざ火鉢を使おうとして、はたと気が付いた。彼の住まいは、9階建てマンションの7階。火鉢用に炭火を起こすとなると、厄介だ。

 キャンプ用の炭を買ってきて、ガス火で火をつけなければならない。まして、火鉢の中はきれいに洗ってあり、中に入れる灰も別に用意しなければならない。

 仕方なく、置き物にするかと考え、テレビの横に置いた。

 ところが、帰ってきた妻の安芸がそれを見つけるなり、叫ぶように言った。

「なに、ソレッ! わたしは前から言っているでしょ。他人の使った物は嫌いだって。だれが使ったのかわからないものを、わたしの見えるところに置かないで!」

 その結果、未亡人の火鉢は、ダンボール箱に入れられ、ベランダの隅に置かれた。

 あれから3年になる。

 冬紀はその翌月も、公園のフリーマーケットに行った。しかし、「さより」はいなかった。

 数日後、同じ居酒屋で、再び「さより」の噂を耳にした。

「フリマの未亡人。あれ、未亡人じゃなかった。ただの、いかず後家。男の持ち物を集めてきて、未亡人のふれこみで高く売る。それで、うまくやって、こんど商店街に店を出すらしい」

 冬紀はそれをきっかけに、「さより」を追いかけることをやめた。

 

 「さより」で買った火鉢に水を入れ、金魚と一緒に買ったカルキ抜き剤を混ぜ、数時間後に琉金3匹を泳がせた。

 帰ってきた長女の奈津実が、うれしそうに、

「お父さん、いいじゃない。カワイイッ!」

 安芸も、つられたのか、3年前に言ったことを忘れたように、

「いいわね」

 冬紀はホッとした。

 ところが、

「ちょっと小さくない。これじゃ、酸素が足りなくなってしまう。わたし、ポンプ買ってくる」

 奈津実がそう言うなり飛び出した。

「このマンション、ペット禁止だから。奈津実は犬が飼える家に住みたいと言っているンだけど、どう思う?」

 安芸は、金魚の動きを目で追っている夫にそう言った。

 冬紀は、さよりを思い出していた。

 あの若い未亡人はどうしているだろう。もう一度、会ってみたい。

 しかし、安芸は、夫の不埒な考えには関心がなく、

「この金魚、どこで買ったの?」

「金魚屋に決まっているだろう」

「そんなお店、近くにあった?」

「奈津実が行っただろッ」

 冬紀は答えたものの、娘は水槽用ホンプをどこに買いに行ったのか、とふと疑問に思った。

 冬紀は、その金魚を、車を10分ほど走らせたホームセンターで買った。奈津実がそこまで行くには、自転車で往復一時間以上かかってしまう。それに、あの秘密は知られたくない。

「スーパーの近くにある熱帯魚店だわ。あそこなら、あるものね」

 安芸は、妙に納得して、冬紀の「金魚屋」を、それ以上追及しなかった。

 打ちっぱなしゴルフからの帰途、冬紀がホームセンターに寄ったのは、金魚を買うためではない。ドライブレコーダーでも物色するかといった、昼食時までの時間つぶしだった。

 店内をぶらついていると、ペットコーナーで水槽を掃除している若い女性店員を見かけ、立ち止まった。

 若くて、元気がよく、彼好みの容姿をしている。

 冬紀は彼女の動きに見とれて、しばらくその場に立ち尽くした。

「なにか、お探しですか?」

 どれほど時間がたったのか。気が付いた彼女が振り返り、冬紀に声をかけた。

「金魚でも、飼おうかなと思って」

 それをきっかけに、冬紀は彼女に近寄った。

 彼女も水槽洗いを中断して、

「こちらです」

 と言い、金魚の水槽が並ぶ棚に案内した。

「気に入った金魚が見つかりましたら、声をかけてください」

 冬紀は彼女の胸の名札をすでに見ていた。

「樫木さん」

 下の名前は「愛美」だったが、読み方もわからないし、いきなり下の名前で呼びかけては、気味悪がられる。

「はィ」

 行きかけた愛美が振り返った。

「お勧めの金魚があれば教えてください」

 そんなやりとりがあって手に入れた3匹の琉金だった。

 愛美は、ペットコーナーを任せられているが、いつ異動になるかわからない。入店してまだ数ヵ月。ホームセンターに勤めるのは初めてだと言った。 

 冬紀は彼女の電話番号が知りたかったが、初対面でそこまでは聞き出せない。

 彼女ほどの美形なら、すてきな恋人がいるだろう。冬紀がどうこうできる相手ではない。彼には、まだその程度の理性はあるが、若い好み女性を見ると、話かけずにはいられない、困った性癖があった。

 ホームセンターに行けば、また彼女に会える。そこには、娘の奈津実は介在して欲しくない。

 奈津実が帰ってきたのは、冬紀が妻と昼食を食べ終えてしばらくたってからだった。

「奈津実、どこまで行ってきたの? お昼はまだでしょ?」

「お父さんが金魚を買ったホームセンターよ。疲れた」

 奈津実は、母が食卓に出したスパゲティを横目に見ながら、買ってきたポンプを取り出し、間に合わせの金魚鉢に入れた。

「うれしそうね」

 安芸も奈津実につられて、金魚鉢を覗く。

「早く食べろ。ポンプだけなら、近くの熱帯魚屋にあるだろう」

 冬紀は、娘が1時間以上も自転車を走らせ、ホームセンターまで行った理由に関心が起きた。

「だって、あのホームセンターはいろんなものが揃っているでしょ。ついでにほかのものも見たかったから」

「そうよね。わたしも、行きたいわ」

 安芸がシンクの前で洗い物をしながら応じる。

「お父さん」

 奈津実が、テーブルに身を乗り出し、声を低くした。

「ン?」

「アユミさん、言ってたよ」

「アユミさん!? なんだ?」

「若くてきれいな店員さんよ。苗字は『樫木』さん……」

 「愛美」は「あゆみ」と読むのか。冬紀はなんでもないようなふりをして、娘を見つめる。

「愛美さん言ってたよ。お父さま、中学時代のわたしのこと、お忘れになったのかしら、って」

「エッ」

 冬紀はハッとした。顔に出たのだろう。

「やっぱり。いろいろ話をしたのに、覚えている風がなかった、って……」

 娘はどうして、こっそり話をするのだ。

 冬紀は中学の教師だ。電車で二駅離れた中学に通勤している。彼女が教え子としても不思議ではない。これまでも、道で「先生」と声をかけられたことはある。

 担任したクラスの生徒の顔は覚えている。冬紀は23才で教師になり、国語を教えた。

 妻の安芸は中学の英語教師だった。冬紀は2度目の学校で妻と出会った。

 しかし、愛美に記憶はない。担任でなければ、忘れていて当然だ。

「おまえ、父さんのことをしゃべったのか?」

 冬紀は愛美の情報が欲しくて、娘をなじるように言った。

「だって、『さきほどこちらで琉金3匹を買った父が、ポンプを買い忘れたンです』と言ったンだもの。そのほうが早いでしょ。そうしたら、水槽もいろいろ勧めてくれたよ。いま、在庫整理で安くしている、って」

「余計なことをしゃべらなかっただろうな」

「樫木さんのほうから言ったンだよ。昔、国語を教えてもらった、って。すてきな先生で、一度コーヒーをご馳走になったこともある、って。本当?」

 待て待てッ。中学教師が教え子の女子生徒とコーヒーを飲んだ!? それを忘れた、ってかッ。冬紀は、頭をフル回転させた。

 教師になりたての頃、中3の女子生徒から慕われ、調子にのっていた時期がある。中学校の前にファミレスがあり、帰宅前に早い夕食をとっていたら、4、5人の女子生徒がやってきて、部活の帰りなのだろう、隣のテーブルに腰かけたことがあった。

 冬紀はつい、彼女らの部活の名前を尋ね、飲み物とケーキをご馳走した。あのときあのなかに、愛美がいたのかもしれない。

「忘れたな。コーヒーを飲んだとしても、2人きりじゃない」

「当たり前でしょ。若い教師と中三の女子が2人で喫茶店にいたら、やばいよ」

 奈津実はそう言うと、ケラケラと笑った。

「何の話をしているの。お父さんは、昔は生徒に人気があったのよ。特に女子には、ね」

 安芸がシンクからやってきて、奈津実の使った食器を片付ける。

「どうして?」 

 と、奈津実。

「やさしかったの。やたら親切で……。でしょ、あなた」

 安芸は、どこまで夫の心を見抜いているのか、じっと冬紀の瞳を見つめた。

 写真がある。冬紀は、いても立ってもいられなくなり、立ち上がった。

「昼寝してくる」

 すると、奈津実が階段を上る冬紀に、

「愛美さんが、またお会いしたい、ってよ」

 すると、安芸の声が、

「奈津実、愛美さんって、どこのひと?」

「お母さん、お父さんって、いまも生徒にモテてんの?」

「もう、ダメダメ……」

 冬紀は階段を上りながら、「ダメなものか……」とつぶやいた。

 

 冬紀は、教師として赴任した中学校の卒業アルバムを毎年、大切に保管している。すべてだ。

 10数年ほど前までのアルバムには、卒業する生徒の写真以外に、住所と自宅の電話番号が巻末に記載されている。

 冬紀は自室に入ると、クローゼットの奥からダンボール箱をとりだし、厚みの異なるアルバム16冊の背表紙を見た。

 彼女の年齢を289才として、中学の卒業は、145年前。その前後、23年の卒業アルバムを見ていけばいい……。

 「樫木愛美」かしき、あゆみ、かしき、……姓は変わっていないだろう。

 時間はかかったが、冬紀は目的の名前を見つけることが出来た。やはり、担任ではない。担任したクラスの、隣のクラスにいた。

 愛美を見つけるまでの間、なつかしい顔を次々に目にして、ついつい見入ってしまい、「昼寝」の時間が1時間近くになってしまった。

 

 翌日の日曜。

「また、ゴルフ? 珍しいわね」

 安芸が、仕度をしている夫に話しかける。疑っていないが、理解できないようだ。

 冬紀も、心底では、ゴルフに飽きがきている。中学教師が毎週ゴルフ、という響きも気になっている。打ちっぱなしが主、コースに出るのは半年に1度程度だが、費用もバカにならない。安芸が黙って許してくれていることを、不思議に思うこともある。
 2年ほど前、同僚に誘われて始めた。運動不足の解消になればというだけで、おもしろいと感じることは、5回に1度あるかないか。ほかにもっと手軽なスポーツが見つかれば、すぐにでもやめたい。そんな気持ちでいるのに、2日続けてゴルフか。

 安芸はそこを見抜いているかもしれない。冬紀はそれでも、自宅から5分ほどの打ちっぱなし場に車を走らせた。

 しかし、駐車場の前にくると、そのまま通り過ぎた。満車ではなかった。いや、ふだんの日曜より空いていた。

 最初から、目的は決まっていた。ゴルフを30分ほどやってから、すぐにそこを出る。あとは、愛美のいるホームセンターで過ごす。しかし、打ちっぱなし場を見ると、そうしたアリバイづくりがバカらしくなった。

「いらっしゃいませ」

「また、来ました」

 冬紀は、近寄ってきた愛美に、水槽を買いに来たことを伝えた。

 昨日、冬紀は卒業アルバムで愛美の顔を確認したのがきっかけで、15年前の小さな事件を思い出した。

 当時、愛美のクラス担任が、赴任したばかりの安芸だった。

 冬紀は、初対面から安芸にのぼせあがった。彼女が新任の挨拶をする前、職員室の隅でひと待ち顔でたたずんでいる彼女に近寄り、話しかけていた。

「この学校は気がきかなくて。とうぞ、こちらです」

「はァ」

「新任の白川先生でしょう?」

 その日に赴任するのは1名だけだった。

 冬紀は、前日準備したデスクに安芸を案内した。

「ありがとうございます。あなたは?」

「ぼくは国語教師の高瀬冬紀(たかせふゆき)です」

 これで売り込みは済んだ。あとは、どう近付きになるか、だった。

 しかし、2人きりになる機会は、その後なかなか訪れなかった。担任クラスが隣どうしというのに、だ。

 そんなある暑い日の放課後。

 教室で、冬紀が出欠簿を整理していると、

「先生! 来てくださいッ。気持ち悪くて……」

 と言って、女子生徒が駆け込んできた。

「キミは?」

「早く、早く、隣のクラスです」

 と言って、彼女は回れ右して教室を飛び出していく。

 隣の教室で、何か異変が起きた。授業が終わって30分以上経っている。

 冬紀は、呼びに来た生徒を追って隣の教室に入る。

「先生、そこ、そこよ!」

 彼女は、教室の中ほどに立ち、黒板とテレビに挟まれた壁際の教師用机を指さしている。

「白川先生……」

 机のそばに安芸がいた。

 安芸はこちらに、形のいいヒップをみせ、机の下の一点を見つめていたが、冬紀の声で振り返った。

「高瀬さん……、コレ」

 教師どうしはなぜか、名前の下に「先生」と付けて呼び合うのが慣例になっている。校内で「高瀬さん」と呼ばれたのは、それが初めてだった。

 冬紀は迷わず、彼女のそばに走り寄った。そこに何があろうとかまわない。

 安芸が指さすものより早く、冬紀は彼女の体が発する香りに圧倒された。それが香水なのか、女性の体臭なのかは、いまだにわからない。とにかく、男性には心地よい香り。ゾクゾクと興奮させた。

「何ですか?」

 冬紀は安芸の肩に顔を寄せながら、彼女の足下にあるものを見た。

「蝉です。かわいそうに、抜けられないみたい。助けてあげて」

 蝉がテレビ裏から伸びる数本のコードにからまり、羽をバタつかせてもがいている。どうすれば、あんな風にからまるのか。これもいまだにわからないが、恐らく数本のコードをよりあわせるための粘着テープが、災いしたのかもしれない。

 冬紀の動きは素早かった。ポケットからハンカチを取り出し、蝉にかぶせてコードから引き離すと、教室の窓を開け放ち、ハンカチを持つ手を緩める。蝉は自由を得て、空に飛んで行く。そのようすを冬紀は安芸とともに見送った。

 冬紀は振り返る。あんな芸当ができるとは、いまだに信じられない。ともかく、あのとき、冬紀を呼びに来た女子生徒が愛美だった。

 名前を聞かなかったが、教室を出るとき、彼女は走り寄って来ると、冬紀をまっすぐ見つめ、

「高瀬先生、わたし、キューピッドですから」

 と、言った。

 安芸は、蝉がかわいそうだが、触るのが怖くて、だれか男の先生を呼んできて欲しいと、教室に残っていた愛美に頼んでいた。

 冬紀がキューピッドの意味が理解できたのは、その4日後、安芸と初めてデートにこぎつけたときだった。

 安芸は、男の教師を呼んで欲しいと頼んだとき、冬紀を名指ししたわけではない。しかし、愛美は心得ていた。

 安芸が愛美の前で、高瀬の名を出したことが一度くらいはあったのかも知れない。しかし、そこに深い意味はなかった。冬紀は最近、自戒を込めて自分に言い聞かせている。うぬぼれはネコも食わない。

 すべて愛美の誤解だったが、愛美は少女の妄想から、そう決めつけていた。冬紀にとっては、幸いだっだが。

 

「昨日はごめんなさい。娘に指摘されて思い出しました。あのときのあなたが、こんなに……いや、あまり言うとセクハラになります」

「わたしも最初は気がつかなかったのですが、お話しているうちに。キューピッドだったことを思い出して」

 愛美はそう言い、愛くるしい笑みを浮かべる。

「とにかく、きょうは水槽をいただきます。金魚が狭い金魚鉢のなかでからまり、ジタバタしているようすで」

 冬紀は、あの蝉騒動を思い出してそう言ったが、愛美はキョトンとしている。

 通じなくて当然だ。冬紀は気を取り直して、棚に並ぶ水槽を指さした。

「あれくらいのがいいかなァ」

「先生、水槽よりも……」

 愛美は冬紀の目的を知ると、誘導するように先に進んだ。

「先生、これはわたしの持論なンです」

 愛美の話が続く。

「昨日、お嬢さんからうかがいましたが、お飼いの金魚は小さな火鉢に入れておられますね。小さいということですが、上から見るだけの水鉢が金魚にとってもストレスが少なくていいと思っています」

 彼女の説明はこうだ。透明のアクリル板などでできている水槽は、全方向から人間の眼が行くため、見られる金魚には負担になる。これに対して、陶製の水鉢は、上からしか金魚を見ることができないが、金魚にとってはその分、負担が少ない。

「これは、睡蓮なども栽培できる信楽焼の水鉢ですが、お勧めです」

 愛美は、直径30センチほどの水鉢の前に立ち止まり、そう言った。

 値段はアクリルの水槽に比べると割高だが、水鉢はインテリアとしても映える。

「それにします」

 冬紀はそう応えながら、さよりから買った火鉢をどうするか、考えていた。

 

 3匹の金魚は、10号の水鉢に移されると、気のせいか、気持ちよさそうに泳いでいる。それまで使っていたさよりの火鉢は、紙袋にくるんで車のトランクに入れてある。

 冬紀が、ホームセンターで買った水鉢を車の後部座席に乗せているとき、愛美が息せき切って現れた。

「高瀬先生、こんど白川先生とご一緒に来てください。お元気なのでしょう?」

「元気だよ。そうする」

 冬紀はそう答えたが、愛美のことはまだ妻には話していなかった。

 冬紀は安芸とのつながりのなかで、当時愛美をそれほど重要には考えていなかった。安芸との交際が進むと、次第に愛美が仲立ちしたことも忘れていた。まして、彼女が夫婦のキューピッドだったことは、告げられて初めて認識した。

 安芸は、愛美をどう思っているのか。いまでも、当時のことをどうとらえているのか。2人の間で、話題になったことはない。

 ところが、冬紀が、水鉢の金魚を眺めていると、

「いい買い物したみたいね」

 と、安芸。

「わたしも、アクリルの水槽より、このほうがいいと言ったのよ」

 エッ、だれと話をしているンだ。冬紀は、肩を寄せて来た妻の横顔を見て、不思議な気持ちになった。

「愛美ちゃん、大きくなったわね。来春、結婚するって」

 エッ、安芸のほうが情報は早く、詳しかった。

「おまえ、いつ、彼女に会ったンだ」

 安芸は夫を見ず、金魚を見つめながら、

「昨日、奈津実が教えてくれたのよ。あなたがお昼寝している間。わたしの教え子よ。愛美ちゃんはわたしたちにとって、それだけじゃないでしょ」

「あァ」

「だから、昨日、すぐに行ってきたの。バスに乗って。いい女になっていたわ。若いっていいわね。結婚式に招待してくれる、って。仲人になる?」

「おれたちが仲人……」

 してもいい。冬紀はそう思った。愛美の挙式には仲人は付かないが、冬紀と安芸が仲人として出席してくれればうれしいと言ったそうだ。

 冬紀の気持ちから、邪な考えはいつの間にか消えていた。

「愛美ちゃんがわたしたちのこと、誤解したのにはいろいろ訳があるンだけれど、それを話すと、あなたが落ち込むから、よすわ」

 なんだ? 冬紀は気にはなったが、安芸と結ばれたことに変わりない。

「安芸、キスしよう……」

 冬紀は、興奮していた。

 

 2年後。

 冬紀は、ゴルフをやめ、万歩計を持ち、歩くことを心掛けていた。妻の安芸も、散歩ならと休日は一緒に昼食を兼ねて、4キロ以上歩いた。ときには、バスに乗って出かけ、距離によっては帰りは歩く。知らない街に出かける楽しみができた。

 食事をし、気になる商店を覗き、帰りはバスのルートに沿って、体力と時間が許す限り歩く。専業主婦の安芸は、この形の散歩が気に入ったらしく、休日前になると、明日はあの街にしようと提案するようになった。

 その日は、バスに30分ほど揺られ、終点まで行った。JRの駅前からアーケードのある商店街が2方向に広がる。食べ物屋もたくさんある。

 2人がラーメン屋を出たときだった。2人の前を、ひとりの女性が通り過ぎた。2人は、その女性が行くほうに歩く。

 冬紀の鼓動が早くなった。目の前の女性は、あの「さより」だった。3年以上も前に、手あぶりを買ったフリマの女性。

 さよりの足は速く、冬紀たちとの間にたちまち距離ができた。

 再会できたのに、このまま挨拶もせずにすますのは惜しい気がした。しかし、これがいいのかも知れない。冬紀は自分勝手に納得した。

 と、30メートルほど先で、さよりは立ち止まり、閉じているシャッターのカギを開けているようす。

 シャッターを開け、中に消えた。

「どうしたの?」

 安芸が、夫の視線に不審を覚え、さよりが消えたほうと夫を交互に見た。

「いまごろ、開店って、遅いわね」

 午後2時近くになっている。商店街の開店は、ふつう午前10時。遅くても11時には開ける。

 安芸はそれを不審に思ったのだろう。

「こどもが病気になったとか、いろいろあるンじゃないのか」

「あなた、知っているの?」

「ハカ言うな」

 2人は、さよりが入った店の前にきた。

「リサイクルショップだって」

 リサイクル「さより」と描いた看板が見えた。

「あなた、買いに来ないでよ」

「来るわけがない」

 冬紀はそう言ったが、日を置いて、必ず来ると思った。

 店の中を覗いたが、奥で用事をしているのか、彼女の姿はなかった。

                     (了)

                  2021.10.2.